2.がらんどうのワンルーム
その日の午後には、私は指定されたマンションの前に立っていた。
同僚に手持ちのタスクをお願いし、急ぎ会社を飛び出したのが昼休み前。
途中駅ビルのカフェでサンドイッチだけのランチを取り、地下鉄を一度乗り換えて二十分。東京メトロの駅から徒歩五分ほどの位置に建つ、十三階建ての縦に細長いマンションだった。
マンション名は、「グラン・コート猪戸公園前」。
手元のスマホに転送したメールをもう一度確認する。
うん、合ってる。
住所も。マンション名も。
このメールは、鮫島さんにこのタスクを了承した後、十五分も経たずに送られてきたメールだった。
差出人は、二階堂修。先程鮫島さんから名刺をもらった、ローランド電機、秘書課の課長代理。会長のプライベート面のサポートまでやっている人、らしい。
メールには続けて、「管理人に鍵をもらってください」とあった。
管理人室を覗くと、作業着姿の初老の男性が座っていた。この人が管理人さんだろう。
社名は名乗るなとメールで指示があったので、名だけを告げた。
「あの、白石といいますが」
ああ、と管理人さんは立ち上がって、「聞いてますよ」と言ってディンプルキーを二本差し出してくれた。
「1303号室です」
礼を言って、その鍵でオートロックの扉を開け小さなエレベーターに乗る。十三階に到着し、部屋番号を数えながら奥に進むと、一番突き当りの部屋に『1303』の文字があった。
「……おじゃまします」
無人と分かっていてもついついそう言ってしまう。玄関ドアから中に身を滑り込ませると、電気はついていなかったが、室内は窓からの光で明るかった。
十畳のワンルーム。
新築らしくどこを見てもピカピカだ。キッチンや便器、洗面所のボウルには養生テープが✕の形で貼られ、その上から清掃済みと書かれた紙も貼り付けられている。
玄関を入って右手は壁だが、左手には室内扉が二つあり、一つはトイレ、もう一つは洗面台と洗濯機用のパンがある脱衣所、さらに奥に浴室がある。
さらに進み、真正面の扉を開けると長方形の部屋が広がる。据付のクローゼットと、奥に掃き出し窓、その向こうが小さなベランダ。窓を開けて出てみたものの、十三階の高さに怖じけてすぐに室内に戻った。キッチンは壁付けで、IHコンロが縦に二つ並んでいる。シンクはうちの実家のキッチンの半分ほどしかない小さなものだ。一人暮らし用だから、こんなものなのか。
なるほど、入居前のマンションはこういうものなのか。
何も無い部屋。何も無い空間。
一人暮らしの経験がない私には、初めての風景だった。
今も両親と暮らす実家は、千葉県だが東京との境にある市で、都内への通勤も、満員電車を我慢すれば十分に可能な距離だ。
そのため私は特に実家を出る理由も見つけられず、二十七のこの年齢まで、生まれた時に両親が買った一戸建ての、その時から私のために用意されていた二階の子供部屋で、今も暮らし続けている。
給料から五万円を家に入れ、時折の両親との外食の時に全部出したりもするが、家での食事は未だに親頼みだし、トイレットペーパーや洗剤などの生活用品は家にあるものを使い、家電も自室に置くオーディオ機器やスマートフォン、自分のための美容機器くらいしか自腹で買ったことがない。
――この部屋で、女の子が一人暮らしをする。
すでに物が十分すぎるほどに揃っている実家と、このがらんどうのワンルーム。あまりの違いに、私は急に不安になった。
――え? まず何を揃えたらいいの?
私はもう一度スマホを手にし、二階堂さんから届いたメールを最初から見直した。
『この度は当方の個人的な依頼事項につきまして、ご多忙の折にも関わらずご快諾いただけましたこと、心よりお礼申し上げます』
型通りの挨拶の後に、今回の件についての依頼詳細が書かれている。
対象者、と書かれていた相手が、当の「女の子」だ。
『対象者 早坂凛々花 十六歳 高校一年生』
「十六!」
と、メールを読んだ瞬間声を上げそうになったが、まだオフィスルーム内だったのでなんとか我慢した。
メールには彼女のプロフィール情報――ローランド電機会長の隠し子である件は明記せず――が書かれていた。
札幌で生まれ育ったこと。
母親が二ヶ月前に病死し、他に身寄りがないこと。
経緯の詳細は省くが、とある人物(伏せてあるが、ローランド会長のことだろう)が保護者となり、東京の高校に転校予定であること。
と、淡々と、しかも箇条書きで。
私に課せられたタスクとしては、彼女――早坂凛々花がこの用意されたワンルームマンションで、上京したその日から暮らせるように手配してほしい、とのこと。
札幌で暮らしていたアパートは引き払い、荷物もほとんど持ってこないということだったので、家具家電のみならず、衣服や生活用品も一からすべて揃える必要がある、と。
そのために与えられた期間が、たったの一週間。
一人暮らしの経験のない私には、その一週間という期間が十分なのかまったく足りないのか、それすらも分からない。
焦りで、首の後ろに手をやり爪でカリカリと肌を擦ってしまう。
顔をしかめ、無意識に「ん〜!」と声が漏れてしまう。
が、一度引き受けた以上、やるしかない。
「とりあえず、ToDoリストでもつくる、か」
スマートフォンでブラウザを開き、「一人暮らし」「必要」「アイテム」と打ち込んで検索する。
テーブルも椅子もない部屋で、冷たい床に腰を下ろす気にもなれず、立ったままいくつかのサイトをざっと流し見していると、ふと、窓の外がすでに西日になっていることに気づいた。
窓から差し込む日差しの角度が変わって、いつのまにか室内が薄暗くなっている。
壁の電灯スイッチに手を伸ばした時に、思わず声が出た。
「……って、灯りがないじゃん」
天井には金具の接続口があるだけで、電灯というものがない。
日差しが入らないととたんに空気も冷たくなってくる。暖房、と思っても、壁のどこを見ても、白く見慣れた長方形の箱――エアコンがない。
「うわ、そこからか。まず電気屋行かないと」
そんなもの、――あるのが当たり前だと思っていた。
急にうすら寒くなった。
冷たい床に立ちつくしていると、薄い靴下ごしに床の冷気が伝わってくる。カーペットやラグが敷いていない直のフローリングはこんなにも固く、冷たいのか。
「ちょっと、……一度退散しよ」
日も暮れかけている。このままこの部屋にいてもしょうがない、どこかで落ち着けるところで作戦会議だ、と玄関に向かい、靴を履く。頭の中で、電灯、エアコンと必要な家電をリストアップする。エレベーターで降りマンションを出ようとした時、管理人室から呼び止められた。
「先程、渡し忘れました」
手渡されたのは何枚かのカラフルな用紙だった。
厚紙だったり、サイズに合わせたビニール袋にまとめられているものもある。
「電気、ガス、水道の契約申込み用紙です。そちらでお願いしますね」
「えっ、あ、そっか。それもこっちでやるんだ。――な、何がいるんですか? これ、契約に」
管理人さんは怪訝そうに首を傾げる。
……すみません、いい大人がこんなこと聞いて。
簡単に書き方を教わった書類を鞄に突っ込んで、足早に移動する。
まずは早急にこの申込みを済ませて……と目についたカフェに飛び込み、早速片っ端から記入していった。
「え? ガスの開栓? それは別で申し込み……? え、『開栓』て何? むずいんだけど」
初めて見る書類に悪戦苦闘しているうちに、無常にも日は暮れていく。カフェの窓に差し込むオレンジ色の夕日を見つつ、私はまた、無意識に首元の肌を爪でカリカリと擦っていた。
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※登場する企業・店舗・商品・価格はすべて架空のものです。
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