1.これは「案件」です
「菜月ちゃん、ちょっと今いいかなー?」
エクセルファイルと格闘中の私を馴れ馴れしく呼んできたのは、部内マネージャーの鮫島さんだった。私、白石菜月の直属上司だ。
女性社員をちゃんづけで呼ぶのはセクハラの一種であり、禁止する、と社内に通達が出てから久しいが、「可愛く呼ぶのの何が悪いの」というこの男性マネージャーの意識は、一向にアップデートされることはない。
鮫島さんは、ここ第二営業部のオフィスルームから廊下に続く戸の前で、小さく手招きを続けている。今忙しいのになあと心のなかで顔をしかめたが、上司に呼ばれては行かないわけにもいかない。
ファイルを手早く保存し、ノートパソコンの蓋を閉めて立ち上がる。隣席の同僚が同情の視線で見送ってくれた。
「はい、なんですか?」
「うん、ちょっと、ちょっとね。来てくれる?」
そう言って、鮫島さんはそそくさと廊下に出る。
ええ? 面倒くさい。この場で済む用じゃないの?
渋々後を追うが、鮫島さんはそのまま足早に進んでいく。
廊下の先の会議室が無人なのを確認して入り、再度、私に手招きした。
「まま、座って、座って」
言われるがままに引き出された椅子に腰を掛ける。テーブル席の対面に、鮫島さんも腰を下ろした。
「ええとね、ちょっと――手がかかりそうなタスク、お願いしたくてね」
なんだかもったいぶった言い回しだ。いつもはもっと「これやって」「あれしといて」と投げつけるように命じてくることが多いのに、「お願いしたい」だなんて薄気味悪くてしょうがない。
「どんなことでしょうか?」
鮫島さんは落ち着かない様子で、視線を彷徨わせている。
「ちょっと……通常の、営業サポート業務とは違うんだけど……。本来なら秘書とか総務とかの部類だと思うんだけど、ほら、うちは秘書課がないし、総務も通したくない案件というかね……」
はあ? 総務を通したくない? なにそれ?
私の表情がさっと曇ったのを見て取った鮫島さんは、引き伸ばすのは逆効果だと思ったようだ。
いきなりぐっと身を乗り出して、一気に話を切り出してきた。
「――ある女の子がね! 上京してくるの! 札幌から、一人で!」
――女の子? 上京?
予想外の単語が飛び出した。
「で、こっちでの生活基盤を来る前に整えてあげなきゃいけなくて! それを、菜月ちゃんにお願いしたいの!」
一気にまくしたてられて、私は目を白黒させる。
「生活基盤……て、え?」
「家はあるから、家具家電とか、服とか生活用品を揃えてほしいのね。そういうのはやっぱり同じ女性じゃないと無理でしょ? 男ができることじゃないんだよ」
「あ、あの、その女の子って、うちの会社……うちの部の、新入社員とかですか?」
それなら分かる。総務が担当できないのは分からないが、そういうケースならば、会社が準備を整えてあげるのは理解できる。
しかし鮫島さんは勢いよく首を横に振った。
「ううん! うち、実際、全然関係ないの!」
「関係ない?」
「あのね……」
と、鮫島さんは耳打ちしたいのかこちらに顔を近づけてきたので、思わず身をのけぞらせて避けてしまった。そんな私に構わず、鮫島さんは限界まで潜めた声で、うちの会社の親会社に当たる企業と、その会長の名を挙げた。
「知ってるよね?」
私はこくりと頷いた。当たり前だ。親会社だもの。鮫島さんも頷き、言葉を続ける。
「で、その……その女の子が、――隠し子なんだよ」
「隠し……、え? 誰の?」
「だからその、…………会長の」
「ええ! ローランド電機の会長の!?」
「しー! しー!」
口に人差し指をあて、鮫島さんは慌てて無人の会議室を見渡した。
「だめ! 秘密! 絶対! 誰にも言っちゃ駄目!」
何度も念押しされ、私も勢いに押されこくこくと頷いた。
「――で、その女の子をね、色々あって、この度、札幌から東京に呼び寄せることになって」
「はあ」
「……なんだけど、会長のお宅にお迎えになるわけじゃないんだ。奥様はもちろん、御子息とか、そのご家族もいらっしゃるし、まあ、このへんは……察して?」
「……あ、はい。分かります」
鮫島さんも説明しづらそうだが、私にもだいたい想像がつく。
念の為、重ねて聞いた。
「その子のことは、ご家族にも、内緒、なんですね?」
「そう。だから、会長直属の秘書課の方からのお話なの、これは」
鮫島さんは胸ポケットから名刺入れを取り出し、一枚、私に向かって差し出した。
『ローランド電機株式会社 秘書課 課長代理 二階堂修』
あげる、と言われて、とりあえず受け取った。
「その人が、秘書として会長のプライベートのあれこれの差配もしてるらしくて、まあ、こういうことの処理というか、対応も、本来はその人がするべきなんだろうけど……、この人、昔からその会長の奥様のお気に入りの人らしくて。秘書としての動きとか、筒抜けらしいんだよね。この人がやると、ぜーんぶ、奥様にバレちゃうのよ。だから隠れ蓑というかね、実際に動いてもらう人を用意してくれないかと、うちの社長に依頼があってさ」
「なぜ、うちの社長に?」
「いやそれがさ、三年前のうちとローランドさんの合併交渉の時に、なんかこの人が色々水面下でうちの利になるようなこと、やってくれたらしいんだよね。社長が言うには、その借りがあるんだってさ」
へえ、ともう一度まじまじと名刺を眺めていたら、鮫島さんはついに私を拝みだした。
「というわけで、菜月ちゃんにお願いしたい! どう? まあ、営業事務の仕事か? って言われたら違うとは思うんだけど!」
私の返事を待たずに、鮫島さんは言葉を重ねる。
「まあぶっちゃけて言うとね。さっき総務を通したくないって言ったじゃない。これはうち――第二営業部の案件として取りたいんだよね。公にもできないし、実際の数字にはならないけど、借りを返す、恩を売るってのもとっても大事。もちろんタスクを完遂してくれたら菜月ちゃんの評価も、こっそりだけど、ちゃんと上げる。約束する。ね? どうかな?」
なるほど――案件。
「隠し子」というキーワードに面食らったが、そう言われれば会社の、部の利益になることには違いない。
「分かりました」
ゆっくりと私は頷いた。
「いい? ああ、ありがとう! じゃ、よろしくお願いね」
鮫島さんもホッとしたように息を吐き出した。
「それで、いつですか? 納期、じゃないですけど、その方が上京されるのは?」
「うん、来週の金曜」
はあ? どちらかと言えば、隠し子のお世話などよりその日付のほうが倫理観を疑う。
「今日、金曜ですよ! 一週間しかないじゃないですか!」
「頼む頼む! 通常業務はぜーんぶ他の人にお願いしていいから!」
そう言って、笑いながら鮫島さんは社内用のスマートフォンを取り出した。
「あ、社長! 鮫島です。あの案件――札幌の。あれ目処着きましたので! あちらさんに話通してくださって大丈夫。うちの白石菜月が担当します! はいはい、じゃあよろしくお願いしまーす」
そして肩の荷が降りたとばかりに足取り軽く、そのまま会議室を出ていったのだった。
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※登場する企業・店舗・商品・価格はすべて架空のものです。
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