前日譚 稲荷家にて
稲荷向は平凡とはあまりにもかけ離れた家に生まれた男子中学生である。年齢、十四歳。しかしながら、特筆すべきは姉や妹の方であり、自身は至って普通の少年であると自覚している。
そんな彼の家族構成は父と母、そして姉達と妹達である。
──そして、これは彼が彼が学園の門を叩く少し前。ほんの少し前のお話だ。
*
「──いーから、はーなーしーて!」
「いやよぉ! なんでこーちゃんはそうやって私を避けるの? ひどいわぁ!」
「この年になって母親に抱きつかれる息子の気持ちにもなってくれよ! いい加減にしてくれ!」
──稲荷家は女系の家系である。
それこそ、十数人いるこども内一人しか男がいないくらいには女性が多い。そしてその上で絶対的な権力を保有するのが稲荷家現当主であり、向の母である人物だった。
誰にでもその内面は探らせず、女狐と揶揄(事実狐ではあるのだが)される女性は──息子の前では肩なしであった。
「もぉ、こーちゃんったら本当にひどいわぁ。お母さんがこんなにも心配してるのにぃ」
「その語尾を伸ばす喋り方をやめてくれ! 鳥肌が立つ!」
「狐なのに鳥って変ねぇ」
「だぁー!!」
話を聞いているのか、いないのか。聞いた上で別のところに食いついているのか。たとえ家族であっても読み切れないその表情を見ながら、可愛い子ぶって向を食い止める。
「俺は! 今から夏祭りにいーくーの!」
「じゃあ私と一緒に行きましょぉ?」
「絶対に嫌だ! 母様と一緒に行くと目立って仕方がないんだよ!」
当主である母の顔は割れに割れており、この京都で知らぬ者の方が珍しい。唯一の息子である向もそれなりに割れているのだがすぐに個人が特定されるわけではなく、狐の耳を『固有術』で隠せば大丈夫であろう。
「ああ、こーちゃん、友達いないもんねぇ」
「誰のせいだと……!」
事実としてこの母の性格のせいで学校でも遠巻きにされ友達ができなかったのだが、肝心の当事者であり加害者である母はどこ吹く風だ。いい加減に反省してほしい。
「全く、母様は仕事があるでしょう! な、『キツネ』!」
「────」
「ほら! なのでさっさと行った行った!」
「あーん。でも息子に邪険に扱われるのも悪くないかも」
「ウザい!!」
向は『キツネ』にそう言いつけると、母はそのまま部屋から出ていった。思春期息子の部屋に突撃とは、中々に酷いことをする。
補足となるが、『キツネ』とは使用人である。稲荷家には百の使用人はいるが、二つの種類に分かれており『キツネ』と『タヌキ』と呼ばれている。この内の『キツネ』が女中であり、『タヌキ』が下男である。
この二つはそれぞれ顔に『狐』、『狸』と墨で書かれた白い紙で顔を隠しており、喋ることもなくただ仕事のみをこなす。不気味だと一時期思うが、もはや慣れていて何も思わない。
「特殊だとは思うけどよ」
でも、これが我が家の普通であり、それを決して否定はしない。
「──なんやかんや言って、お兄は大好きだもんね」
「理子。なんだよ、からかってるのか?」
「んーん。全然そんなことはないよ。ただお兄は母様に甘いよってこと」
ペロリ。自ら来ている黄色い浴衣に理子──俺の五つ下の妹──はリンゴ飴を舐めながら言った。
「……あれ? 理子はもう夏祭りに言ったのか?」
「友達とね。わたしはお兄と違って友達いるから」
「煽ってんのか?」
「ぜーんぜん。でももう友達も帰っちゃったから……ね、お兄、一緒に行こ?」
「!」
珍しい申し出だ。
妹である理子は小学校高学年になると同時に母とは違いきちんと兄離れをしてあまり一緒にでかけるという機会は減っていた。
「……わかったよ。で? 奢れば良いのか?」
「ん!」
「はいはい」
計算高い理子はやはり妹という立場を利用してきた。けれどそれをわかっていてなお断れないのだから向は確かに理子の言うとおりであるのだろう。
「あ、でも姉さんに見つかる前に行くぞ? 一人でも見つかったら本当に面倒くさいから──」
「──誰が面倒くさいって?」
「ア、」
ちょうど向と理子のその背後。そこには今、二人の人影がある。長く延した金髪に着崩した和服に豊満な体の女性と肩よりも短い短髪にメガネをかけた女性だ。
「あ! 恵真姉と乃繪姉!」
「ね、姉さん……」
「全く。あなただってまだ十五でしょう? 理子も連れてくなら家の誰か一人に声をかけなさい。危ない」
「あ、りがとう」
こういった部分があるからこそ、瀬奈は本心から姉を嫌うことができないのだ。
「もー、恵真ちゃんったら心配しすぎじゃなぁい?」
「乃繪も乃繪よ。まったく、母さんの嫌な部分だけ引き継いで……なんて、言っても無駄ね。私達も浴衣に着替えてくるから向も着替えなさいな」
「わかった。それじゃあ、また後で」
「あとでねー! お兄」
「じゃぁねえ」
そう言うと姉二人と妹は向の部屋から出ていき、各々の自室へと向かっていった。それを見届けた向は自身の部屋の箪笥を開く。
そこには見ただけで上等だとわかるような布でできた和服が入っていた。
「────」
浴衣をそこから取り出す。──その時の向の愛しむような表情を見た人物はいないのだった。




