電話は、名乗る前から重かった
電話は、名乗る前から重かった
その夜、彼女は帰ろうとしていた。
編集部の時計は二十三時を少し回っている。
誰かが淹れたインスタントコーヒーの匂いが、
古い紙とインクの匂いに混じって残っていた。
相沢真紀。
三十二歳。
社会部。
担当は、事故・不祥事・行政。
派手なスクープとは無縁だが、
「後から効いてくる記事」を書く記者として、
編集長からは重宝されている――
少なくとも、そう信じていた。
パソコンをシャットダウンしかけたとき、
携帯が震えた。
非通知ではない。
だが、
登録名が出ない番号。
一瞬、迷う。
出るか、出ないか。
この時間にかかってくる電話は、
たいてい碌な話ではない。
それでも、
彼女は出た。
「……相沢です」
『三浦と申します』
低い声。
落ち着いているが、
抑えきれていない硬さがある。
『以前、
名刺を渡した者です』
相沢は、
一拍遅れて思い出した。
霞が関。
取材先の廊下。
「個人的な見解ですが」と前置きした、
あの官僚。
「覚えています」
『今、
お時間は』
質問の形だが、
実質的には確認だった。
「……話の内容によります」
沈黙。
それから、
三浦は言った。
『これは、
記事になる話ではありません』
相沢は、
その一言で、
背筋が伸びた。
――じゃあ、
何だ。
『ですが、
あなたが知らなければ、
後で後悔する類の話です』
相沢は、
椅子に座り直した。
「場所を変えますか」
『いいえ。
電話で十分です』
十分、という言い方が、
妙に重かった。
『ある人物について、
調べていますか』
「誰ですか」
一瞬の間。
『鷹宮恒一』
その名前を聞いたとき、
相沢の脳裏に、
いくつかの断片が浮かんだ。
元研究者。
技術コンサルタント。
匿名の寄稿。
曖昧な噂。
「……完全には」
『それで、
ちょうどいい』
三浦はそう言った。
『深入りしないでください。
ですが、
無関係だとも思わないでください』
相沢は、
ペンを取り、
メモ帳を開いた。
「それは、
どちらなんですか」
『どちらでもありません』
即答だった。
『これは、
“境界の話”です』
境界。
その言葉に、
相沢は嫌な予感を覚えた。
行政と民間。
合法と違法。
思想と行動。
そして――
報道できることと、
できないこと。
『私が言えるのは、
彼が危険かどうかではない』
三浦の声が、
わずかに低くなる。
『彼が、
危険になる余地を
与えられている
ということです』
相沢は、
ペンを止めた。
「それは……
誰に、ですか」
『それを、
今からあなたが
見ることになります』
その言い方は、
予告だった。
「証拠は?」
『あります』
間髪入れずに。
『ただし、
公にすれば、
あなたは負けます』
相沢は、
思わず笑いそうになった。
「……ずいぶん、
不親切ですね」
『ええ』
三浦は、
あっさり認めた。
『これは、
あなたを守るためではありません』
『私が、
戻れなくなるための
電話です』
相沢は、
言葉を失った。
記者人生の中で、
何度かあった。
相手が“何かを失う覚悟”で
電話をかけてくる瞬間。
その声は、
似ている。
「……分かりました」
相沢は言った。
「一つだけ、
約束してください」
『何を』
「途中で、
黙らないこと」
電話の向こうで、
短い呼吸音。
『それは、
約束できません』
正直な答えだった。
『ですが』
少し間を置いて。
『黙る前に、
あなたに
渡します』
「何を」
『――判断材料を』
通話が切れた。
相沢は、
携帯を見つめたまま、
しばらく動けなかった。
スクープの匂いではない。
だが、
もっと厄介な匂いがする。
彼女は、
メモ帳に
一行だけ書いた。
鷹宮恒一
危険なのは、彼か/彼を使う側か
ペンを置いた瞬間、
相沢は理解していた。
――これは、
書けないかもしれない。
――だが、
知らなかったことには、
もうできない。
編集部の照明を落とし、
彼女は夜の街へ出た。
東京は、
何事もない顔で
光っていた。
その静けさが、
何より不吉だった。




