名前は、先に印字されていた
三浦恒一は、その資料を最初から読むつもりはなかった。
深夜零時を回った庁舎の執務室。
蛍光灯の白さが、時間感覚を奪っている。
机の上には、分類タグだけが異なる同じ体裁のファイルが積み上がっていた。
「参考資料」
「未確認情報」
「精査不要」
その中で、
一冊だけ、タグの色が違うものがあった。
――注意喚起。
三浦は一瞬だけ逡巡し、それを引き寄せた。
こういう分類が付く資料は、大抵の場合、
「今すぐ何かが起きる」わけではない。
だが、後から必ず問題になる。
ページをめくる。
概要。
関係者一覧。
過去の経歴。
そこで、視線が止まった。
鷹宮 恒一
呼吸が、わずかに遅れる。
同姓同名の可能性は、頭の中で即座に排除された。
年齢。
学歴。
専門分野。
すべてが一致している。
「……やっぱり、か」
声に出してから、
三浦は自分が何を“やっぱり”だと思ったのかを考えた。
違和感は、ずっと前からあった。
大学院時代。
彼の言葉の選び方。
仮定の置き方。
人間を、常に「要素」として扱う視線。
だがそれは、
学問の世界では珍しくない。
危険視するほどのものではなかった――
少なくとも、当時は。
資料を読み進める。
表現は曖昧で、断定を避けている。
「可能性」
「関連が指摘されている」
「現時点では不明」
だが、その曖昧さこそが、
この資料の性質を雄弁に物語っていた。
――これは、
“誰かに見せるため”の文書ではない。
――残すための文書だ。
責任が発生したとき、
「検討はしていた」と言うための。
三浦は、椅子の背にもたれた。
天井を見上げる。
止める側に回ったつもりだった。
少なくとも、
そう信じてここまで来た。
だが、
止めるという行為には、
必ず前提がある。
――止めてもいい存在だ、という前提。
資料の末尾には、短い一文があった。
「現時点では、
積極的介入は不要と判断する」
理由は書かれていない。
書く必要がないからだ。
三浦は、その一文から視線を離せなかった。
――不要、か。
では、
必要になるのは、
どんな時だ。
机の上の電話が、
不意に震えた。
内線。
表示された番号を見て、
三浦は一度だけ、目を閉じた。
「……はい」
受話器越しの声は、穏やかだった。
「遅くまでご苦労。
例の件、目を通したか」
「はい」
「どう思う」
三浦は、即答しなかった。
沈黙が、数秒続く。
「――現時点では、
“様子を見る”段階かと」
そう答えながら、
自分が選んだ言葉の中に、
どれほどの逃げが含まれているかを、
痛いほど自覚していた。
「そうか」
相手は、それ以上何も言わなかった。
それが、事実上の了承だと分かっている。
通話が切れる。
三浦は、資料を閉じ、
分類タグを貼り替えた。
「注意喚起」から、
「経過観察」へ。
その作業は、
驚くほど簡単だった。
――俺は、
彼を止めなかったのか。
――それとも、
止めるには、
まだ“早すぎた”のか。
答えは、
どこにも書かれていない。
ただ一つ確かなのは、
鷹宮恒一という名前が、
すでに“管理可能なリスク”として
整理されてしまったという事実だった。
三浦は、庁舎の窓から
夜の東京を見下ろす。
灯りは多い。
平和だ。
何も起きていない。
だからこそ、
何かが起きる。
彼はそう理解していた。
だが理解することと、
止めることは、
まったく別の能力だった。
机の上に残ったファイルは、
静かにそこにあった。
――名前は、
人を守るために
記録されるのではない。
――切り捨てる順番を
間違えないために、
先に印字されるのだ。
三浦は照明を落とし、
部屋を出た。
背後で、
鍵のかかる音がした。




