例外は、いつも静かに始まる
午前五時四十二分。
東京はまだ眠っているはずの時間帯だったが、鷹宮恒一は目を覚ましていた。
目覚ましは鳴っていない。
彼は昔から、必要な時刻の少し前に自然と目が覚める体質だった。
それを「自己管理能力」だと考えてきたし、実際、大学院時代からこの習慣が彼を裏切ったことは一度もない。
カーテンを少しだけ開ける。
曇天。
空の色は、夜と朝の境界を曖昧にしたまま、どちらにも属していなかった。
「悪くない」
鷹宮は小さく呟いた。
良いとも悪いとも言えない天候は、判断を誤らせない。
極端な状況ほど、人は感情に引きずられる。
国家も、人間も、原理は同じだ。
簡単な洗面を済ませ、湯を沸かす。
コーヒーは必ずブラック。
砂糖やミルクは、判断の輪郭を鈍らせると彼は信じていた。
その信条に、特別な理由はない。
彼にとって重要なのは、「理由が不要な確信」をどれだけ多く持てるかだった。
食卓の上には新聞が一部置かれている。
電子版ではなく、紙だ。
紙面をめくるという行為は、情報を「選び取っている」という錯覚を与えてくれる。
錯覚は、時に思考を安定させる。
一面の見出しには、近隣国で起きた大規模事故の続報が載っていた。
原因不明。
調査中。
専門家の見解は割れている。
鷹宮は記事を丁寧に読み、何も書かれていない部分に目を向けた。
そこにある沈黙のほうが、饒舌だった。
「予定通りだ」
そう呟いてから、彼は一瞬だけ眉をひそめた。
自分が何を「予定」だと認識しているのか、その定義が曖昧だったからだ。
だが、曖昧さは危険ではない。
危険なのは、曖昧さを否定し、単純化しようとする衝動だ。
スーツに袖を通す。
濃紺。
どこにでもいる、どこにも属していない色。
玄関を出る前、壁に掛けられた小さな額に目を向ける。
そこには、書家が揮毫した古い和歌が収められていた。
意味を問われれば説明できる。
だが彼は、意味よりも「配置」を好んだ。
文字がそこに在るという事実だけで十分だった。
外に出ると、空気はひんやりとしていた。
マンションのエントランスで、清掃員の老人とすれ違う。
「おはようございます」
老人は律儀に頭を下げる。
鷹宮も同じ角度で会釈を返した。
上下関係ではない。
秩序の確認だ。
駅までの道を歩きながら、彼は今日の予定を反芻する。
午前中は打ち合わせ。
午後は移動。
夜は、限られた人間だけの会合。
どれも、表向きには問題のない予定だ。
違法性はない。
少なくとも、書類上は。
電車の中で、若い女性がスマートフォンの画面を睨みつけているのが目に入った。
ニュースアプリだろう。
彼女の表情には、不安と、微かな高揚が混じっていた。
人は危機を嫌うが、同時に期待する。
何かが壊れる瞬間を、無意識に待ち望んでいる。
鷹宮は視線を逸らした。
共感は不要だ。
理解だけでいい。
――国家も、同じだ。
非常事態は、宣言される前に始まる。
そして多くの場合、人々はそれに気づかない。
気づいた時には、すでに「例外」が常態になっている。
彼は、その過程を加速させているのか。
それとも、ただ観測しているだけなのか。
答えは、まだ必要ない。
電車がトンネルに入る。
窓に映った自分の顔は、驚くほど平静だった。
鷹宮恒一は思う。
自分は狂っていない。
感情に支配されてもいない。
ただ、他の多くの人間よりも早く、
「国家が何を必要とするか」を理解しているだけだ。
それが罪になるかどうかは、
――後で決めればいい。
電車は減速し、次の駅に滑り込んだ。
アナウンスが流れる。
いつもと変わらない、平凡な朝の音だった。
だがこの日、
静かに、確実に、
歯車は回り始めていた。




