色を纏う約束
「そうか。やはり二人とも、この婚約に同意したのだね」
アランからの報告を受け、教皇リオンフェルドは満足げに目を細めた。
その口元には慈愛と悪戯心がないまぜになった笑みが浮かんでいる。まるで盤上の駒が思惑通りに進んだことを愉しむかのように、その声音には揺るぎない確信が滲んでいた。
だが、愉悦に浸る教皇とは対照的に、アランの胸中は穏やかではない。
彼はわずかに眉根を寄せ、言葉を選ぶように口を開いた。
「……僭越ながら申し上げます。フォルスタート辺境伯について懸念はございません。ですが、その……リュシエリアーナ嬢は、婚約そのものには納得されたように見受けられましたが、真の意味で添い遂げる覚悟がおありかと申せば、甚だ疑問にございます」
その鋭い指摘に、リオンフェルドは一瞬だけ意外そうに目を瞬かせ、やがて感嘆の吐息を漏らす。
「これは驚いた。リュシーの本質をよく理解しているのだね、アラン。さすがは長年、想い続けただけの事はある」
「猊下……! お戯れはおやめください……!」
くつくつと喉を鳴らす笑いに、アランは顔を火照らせ、必死に抗議の声を絞り出す。
よりにもよって不老の教皇に己の想いを悟られてしまったのは、いただけない。それはすなわち、これから先の永きにわたり、揶揄いの種を握られ続けるということ。教皇の傍に仕える限り、その話題から逃れる術はないだろう。
アランは内心の溜息を押し殺し、意識的に表情を引き締めた。
「……それで、どうなさるのです? 本当に、このままでよろしいのですか?」
「何がだい?」
「辺境伯にお世継ぎがお生まれにならなければ、神聖国はおろか、世界そのものの均衡が崩れかねません。猊下が婚約者に彼女を選ばれたのは、その危うさを回避するためではなかったのですか?」
その問いには、臣下としての覚悟と、この国を思う焦燥が滲んでいる。
だが、教皇はどこまでも泰然自若としたまま、むしろ穏やかに笑みを浮かべた。
「おや? 君は肝心なところで、リュシーを見損なっているようだね」
「見損なう……ですか?」
「確かに、あの子は芯が強い。鋼のように己を貫く剛毅さを持っている。だけどね、アラン。あの子はそれ以上に、とても優しいのだよ」
諭すようなその声音は、柔らかい。
だが、その目の奥では、何か別の光が静かに揺れている。
「……?」
彼女が慈悲深い女性であることは、百も承知だ。
しかしその性質が、なぜこの婚約の懸念を払拭するのか。アランにはまだ繋がらない。
リオンフェルドは、ゆるやかに続けた。
「不条理に虐げられる者を見れば、決して背を向けられぬ気性だ。常に弱者に寄り添い、その盾となろうとする。だがその優しさゆえに、一度、懐に入れた者の情には、脆くも絆されやすい」
「!」
そこでようやく、アランは教皇の深謀遠慮を悟った。
─────この場合、『救うべき弱者』の役割を割り振られたのは、他でもない。
稀代の魔力を持ちながら、髪色ゆえに醜いと蔑まれてきた、ラファシアン=フォルスタート辺境伯だ。
「………まさか、彼女の情に訴えるおつもりですか……!」
あまりに人を食った策に、アランは思わず額を押さえた。深く刻まれた皺に、動揺が滲む。
聖域の頂点に立つ教皇ともあろうお方が、まさか人の情を利用しようとは。
だがリオンフェルドは、その困惑を面白がるかのように、愉快げに喉を鳴らした。
「憐憫の情が、いつしか恋へと変わる事など、世の常だよ。ましてあの子は、義理を欠くことを何より嫌う」
リュシエリアーナにとって、ラファシアンは『理不尽な悪意に晒され続けた弱者』だ。
一度懐に入れた者を決して見捨てぬ彼女の気質を思えば、ラファシアンが切実に彼女を欲したとき、リュシエリアーナはそれを無慈悲に撥ねつけることはできないだろう。
突き放すには、彼女の魂はあまりに高潔で、そして、あまりに情に脆い。
(……懸念すべきは、むしろラファシアンの方か)
思って、たまらず嘆息を落とす。
彼はとにかく、健気なまでに自己を律することに長けすぎている。
胸にどれほど苛烈な思慕を燃やそうとも、それをおくびにも出さず、静かに飲み込み、耐え忍ぶ。そうする術を、二十六年もの歳月をかけて、骨の髄まで叩き込んできた。
己を殺し、日陰を歩むことを当然とし、望むことすら罪であるかのように。
そんな男が、果たしてリュシエリアーナに対し、望む言葉を正面から告げられるだろうか。
(まあ……期待するだけ無駄というものだろうね)
ただでさえ、彼は己の銀髪を『呪い』のように疎んでいる。生真面目な気質に加え、骨の髄まで染み付いた劣等感が重い枷となり、自分を受け入れてくれなどという厚かましい願いは、口が裂けても言えないだろう。
そこまで思考を巡らせ、リオンフェルドは小さく息を吐き、肩を落とした。
深い思案に沈む間、リオンフェルドの指先は、ソファの肘掛けを一定の間隔で刻み続けている。それとは反対の手で、彼は気怠げに頬杖を突いた。
(おまけに、揃いも揃って色恋には疎いときている……)
相手が向ける好意に対し、両者ともに絶望的なまでに鈍感なのだ。
どちらかが手綱を握り、強引に引き寄せるならまだしも、双方が受け身のままでは、二人の関係は遅々として進まないだろう。
この不器用極まる者たちの仲を取り持つのは、考えるまでもなく至難の業だ。一朝一夕で成せるほど甘いものではない。
彼らの心を置き去りにしないよう慎重に、だが確実に、腰を据えて事を運ぶ必要がある。
(ラファシアンが王都にいる間はいいが……領地に戻られると少々厄介だね)
王都にいる限りは、事あるごとに二人の距離を物理的に詰めさせることも容易い。
だがラファシアンが領地に戻れば、そうはいかなくなる。王都と辺境を隔てるのは、馬車で優にひと月を要する道のり。これほどの距離を置かれては、王都から動けぬ身では手出しが難しい。
かといって、『星屑の落ちる土地』の守護という重責を背負う以上、彼をいつまでも王都に繋ぎ止めておくわけにもいかないのだ。
(………フォルスタート邸にも、協力者が必要か)
「フォルスタート邸に、私の遠縁の者が詰めております。彼にも協力を仰ぎましょう」
「!」
寸分違わぬ間で差し込まれた助言に、リオンフェルドは肘掛けを叩いていた指を止め、目を瞬いた。
「……君には時折、他者の心を読む異能があるのではないかと疑いたくなるね。あまりに察しが良すぎる」
「何をおっしゃいますか。良からぬ企てを巡らせている時の猊下のお考えなど、手に取るように判りますよ」
教皇が不敵にほくそ笑んだ後、長考に入る時は決まって、望む未来を阻む障害を一つずつ冷徹に潰す算段を練っている時だ。今回に限っては、その着地点が明確である分、アランにとっても先を読みやすかった。
呆れを滲ませたアランの吐息を、リオンフェルドはくすりと笑い飛ばす。
「確か、代々フォルスタート一族の侍医を務めている家系の男だったね」
「はい。辺境伯はあのように繊細なお方ですから、彼もよく相談事を受けていると申しておりました」
「……ふむ」
それは好都合。
慈母のような柔和な微笑の奥で、獲物を追い詰める猟師の眼光がひそやかに煌めく。
ゆるやかに、妖艶に、口角が上がった。
「では、彼に一筆したためるとしようか」
**
「夜会?」
婚談の儀を終えた翌日、父の執務室に呼び出されたリュシエリアーナは、思わず低い声を漏らしそうになり、辛うじて令嬢らしい音節に整えて問い返した。
「十日後に催される夜会で、リュシーとフォルスタート辺境伯の婚約を公表するそうだ」
「また厄介なことを……」
父の報告に、リュシエリアーナは心中で苦いものを噛み潰し、深く息を吐いた。
夜会が開かれても、これまでは何かと理由をつけて欠席してきた。
正直、社交界という場は肌に馴染まない。誰も彼もが本音を幾重にも包み隠し、上辺だけを綺麗に整えているのが透けて見えるからだ。そうやって整えた微笑みの裏で、侮蔑や嘲笑が平然と交わされる────その欺瞞が、心底不快なのだ。
だが、今回ばかりはそうはいかない。
主役として引きずり出される以上、欠席という選択肢は存在しないのだ。
半ば強制的に出ろ、と言われているも同然の状況に、リュシエリアーナは頭を抱えるように額に手を押し当てた。
「……わざわざ婚約を発表する必要などないでしょうに。これは陛下の────おじ様のご意向ですか?」
「いや、猊下だよ」
不満げな問いかけに答えた声は、なぜかリュシエリアーナの背後から降ってきた。。その声は久方ぶりに耳にする、懐かしい響きだ。
慌てて後ろを振り返ったリュシエリアーナの視界に飛び込んできたのは、すでに執務室の扉を開け放ち、申し訳程度に扉を軽く二回叩く、兄フォルドエルの姿だった。
「兄上……!」
「やあ、リュシー。久しぶりだな」
驚く妹に柔和な笑みを向けながら、フォルドエルは悠然と室内へ歩み入る。
父へ簡潔に一礼し、落ち着いた声で挨拶を述べた。
「父上、ご無沙汰しております。変わらぬご頑健ぶりで、何よりです」
「お前も変わりないようだな、フォルドエル。お前の活躍は、猊下からも聞き及んでいるぞ」
「活躍なんてとんでもない。リュシーが神殿騎士の列に加われば、私の功績など瞬く間に霞んでしまう程度のものでしかありませんよ」
茶目っ気を含んだ声音に、父は露骨に眉根を寄せた。
「………またその話か。お前たち兄妹は、口を開けばそういう事ばかり言いおって……」
「嘘は申しておりませんよ。何せリュシーの剣才は、私など足元にも及ばぬ高みにありますからね。それに、『師』を立てるのは『弟子』の務めです」
朗らかに笑うフォルドエルの剣帯には、リュシエリアーナと同じく、この世界には珍しい『刀』が収まっている。
その一振りを鍛え上げたのは、他ならぬリュシエリアーナだ。
前世の彼は、病弱ゆえに両親から疎まれ、居場所を求めるように近隣の老鍛冶師の元へ通い詰めていた。無愛想な老人は、孤独な少年に鉄を打つ火花と居場所を与え、刀造りの奥義を惜しみなく授けてくれたのだ。
老師が打つ刀は、氷のごとく薄く、冷徹なまでの煌めきを放つ。振るえば空気すら裂くような凄絶の切れ味を誇り、好事家の間では隠れた名刀と讃えられていた。
その記憶を辿り、見よう見まねで槌を振るったのは、リュシエリアーナが十四の頃。幾百の失敗を重ね、鉄塊を潰し、ようやく及第点に届いたのは、わずか二振りのみであった。
そのうちの一振りを、妹の武威に圧倒され、矜持をかなぐり捨てて教えを乞うた兄へと授けたのだ。
父はフォルドエルの言葉を受け、やはりうんざりしたように重苦しい溜息を吐いた。
「……知っているか? 神殿騎士の上層部では、お前たち兄妹の事を『マレグレンの双剣』と呼んでいるそうだぞ」
「結構なことではありませんか、父上。二つ名を冠せられるのは、騎士にとって至高の誉れですよ」
飄々と受け流す息子を前に、父は頭を抱えて沈黙する。
そんな二人を横目に、リュシエリアーナは小さく息を整え、本題へと話を戻した。
「兄上、先ほど『猊下』の名が出たが……まさかこれはリオンおじ様の仕業か?」
「………お前は相変わらず、恐れを知らぬ物言いだな」
あの教皇に対して、ここまで不遜に言い放てる者が他にいるだろうか。
フォルドエルは苦笑を滲ませながらも、静かに首肯した。
「猊下は、お前を殊の外可愛がっておられるからな。お前が嫌がる事をなさるのが、お好きなのだろう」
「………………それを世間では『可愛がっている』と呼ぶのか?」
これ以上ないほど眉間に皺を刻み、苦虫を噛み潰したような顔を作る妹に、兄は堪えきれずに笑う。
この男勝りな妹が、世間では『絶世の美女』と持て囃されるのだから、世の中というのは判らない。
「……まあ冗談はさておき、猊下としても、過熱する『王族派』と『教皇派』を牽制しておきたい思惑があるのだろう」
「!」
兄の指摘に、リュシエリアーナの眉がぴくりと跳ねた。
「そうか……! 確か辺境伯は『教皇派』の筆頭。王家の血を引く私との縁組を成せば、教皇猊下と陛下の間に塵ほどの確執もないことを、天下に知らしめる絶好の機となる……!」
ここ神聖国には、長きにわたり二つの派閥が存在してきた。
『教皇派』は、神聖なるこの国の真の主は教皇のみと唱え、王権を軽んじる姿勢を隠さない。
対する『王族派』は、実務統治を担う王族こそ国の中枢であるべきだと主張し、互いに水面下で鎬を削り続けている。
この根深い対立は時に国を揺るがす火種となったが、皮肉なことに、当事者である教皇と国王自身には、争う意思など微塵もない。
両名とも穏健を旨とし、互いを唯一無二の盟友として神聖国を支えている。
にもかかわらず、臣下たちは主君の意向を余所に、己が正義を掲げて暗闘を繰り返しているのだ。
それは、長年両者の頭を悩ませてきた、厄介な種だった。
(……なるほど。これは単なる世継ぎ問題を解消するための縁談ではない、ということか)
教皇と国王が揃って推し進める婚儀となれば、どちらの派閥も表立って牙を剥くことはできない。当面は静観を決め込むしかないだろう。
ありとあらゆる意味で、リュシエリアーナ以上に、辺境伯の伴侶として相応しい者は存在しないのだ。
とはいえ─────。
「あの辺境伯が『教皇派』の筆頭を担っているというのは、どうにも腑に落ちないな……」
言葉を交わした感触では、彼は政争を好む男ではない。むしろ、諍いそのものに胸を痛める高潔さこそが、彼の本質であるように思えた。
その独白に、父が静かに頭を振る。
「辺境伯は、『教皇派』ではない」
「!」
「猊下からの信任が厚く、重用されていること、そして『辺境伯』という揺るぎない地位───それらが、派閥の連中にとって担ぎ上げるのに都合が良かっただけだ。『教皇派』が勝手に彼を神輿に据えているに過ぎん。辺境伯自身は、あくまで中立であると強く標榜されておられる」
「なるほど……」
それならば納得がいく、と得心したように頷くリュシエリアーナを、兄は愉快げに目を細めて見つめていた。何やら含みのある笑みを浮かべながら、フォルドエルは彼女が腰を下ろしているソファの肘掛けに、気安く腰を預ける。
「それで?」
「…………何だ、兄上。その気色の悪い笑みは」
「実際のところ、辺境伯とはどうなんだ? お前が婚約を快諾したと聞いたときは、さすがの俺も耳を疑ったぞ。あれほど男を寄せつけなかったお前が、よほど彼を気に入ったと見える」
フォルドエルの声音には、揶揄い半分、本気半分の色が滲んでいた。
妹は幼少の頃より、人の本質を射抜く眼を持っていた。表面を飾る言葉や肩書きではなく、その奥に潜む魂の質を、まるで刃で断つかのように見抜く。とりわけ異性に対しては容赦がなく、軟弱な男と断ずれば一顧だにせず、言い寄る輩などは、道端に転がる石塊ほどの価値もない──そう言わんばかりの冷淡さで切り捨ててきた。
その妹が二つ返事で受け入れた『婚約相手』に、フォルドエルは大いに興味を惹かれていた。
問われたリュシエリアーナは、勿体ぶるようにしばし沈黙を保ち、やがて兄に負けじと不敵な笑みを返す。
「そうだな……大いに気に入った」
「美人だからだろう?」
「さすがは兄上! よく判っておられる!」
己の審美眼を迷いなく肯定されたことがよほど嬉しかったのか、リュシエリアーナの瞳が武人のように爛々と輝いた。
兄フォルドエルにとって、髪色で美醜を断ずる世俗の物差しなど、無価値に等しい。それは、幼い頃から隣にいたリュシエリアーナの『造作こそが美の本質である』という審美眼を、呼吸するように刷り込まれて育ったからだ。常識という名の偏見が根付くより早く刻まれたその感覚が、彼の中で最優先されるのは、もはや自明の理だろうか。
そんな彼が神殿騎士の門を叩いた動機も、実に単純明快である。教皇リオンフェルドの超越的な美しさに、心を射抜かれたからに他ならない。
「遠目に幾度か拝見したが、それでも息を呑むほど麗しい御仁だったな。あれは、猊下と比肩するほどか……?」
「いやいや」
リュシエリアーナは腕を組み、きっぱりと言い切る。
「私に言わせれば、リオンおじ様をも凌駕する。あれはもはや──美の極致だ」
堂々と『美人談議』に花を咲かせる我が子らを前に、父は深い絶望を孕んだ溜息を漏らした。
「…………お前たち、正気か? 辺境伯は世に聞く『世界で最も醜悪な貴族』なのだぞ」
「「いいえ、彼は類稀なる絶世の美男子です」」
寸分違わず声を揃え、断固として言い放つ息子と娘に、父はもはや、天を仰ぐしかない。
この歪な美的感覚は、果たして教育の賜物だろうか。あるいは─────。
自分と同じ血が流れている以上、これが遺伝だとは断じて認めたくはない。
父の切実な懊悩など露知らず、兄妹の会話はなおも弾む。
「今日はその辺境伯との『誓約の初会』なんだろう?」
「……!」
リュシエリアーナは弾かれたように顔を上げた。
「まさか、それでわざわざ足を運んでくださったのか、兄上」
その声音に滲むのは、驚きと、隠しきれぬ喜色だった。
『誓約の初会』。
それは婚約が正式に成った後、婚約者と一族が初めて相まみえる重儀である。本来それは、男方の一族との初顔合わせを指す。婚談の儀が女方の屋敷で執り行われるため、その対として定められた慣例だ。
だが、今回は教皇公邸での婚談という異例尽くしの経緯ゆえ、本来、女方では行わない『誓約の初会』が、ここマレグレン公爵邸にて催されることになった。
その『誓約の初会』に出席するために、兄は激務を縫い、わざわざ駆けつけてくれたのだ。
その事実に胸の奥がじわりと温まり、リュシエリアーナは子供のように無垢な歓喜で瞳を輝かせた。
「当たり前だろう? 可愛い妹の『誓約の初会』だ。何をおいても駆けつけるさ」
「義姉上はどうされた? 確か、臨月も間近だったと記憶しているが」
「ああ、さすがに屋敷に留めてきた。この大事な時期に万一があっては、悔やんでも悔やみきれんからな。フィオーナは同席できないことを酷く残念がっていたが……お前によろしくと、伝言を預かっている」
フォルドエルが義姉フィオーナと結ばれたのは、一年前だ。
少しふくよかな体型だが、小柄でおっとりとした空気を纏う愛くるしい容姿の義姉の髪色は、薄い。この国の美醜に照らせば、称賛の対象とはなりにくい色合いだ。だが、淡い栗色の髪を揺らしながら街路を歩く彼女の姿を見た瞬間、フォルドエルの心は、抗いようもなく射抜かれた。
一目で恋に落ちたのだ。
その彼女が教皇直属の侍女であると知るや否や、兄は公務の合間を縫って足繁く通い詰めた。
普段は冷静沈着な男が、恋情ひとつでここまで変わるのかと周囲を驚かせるほど、情熱の限りを尽くして口説き続けたのである。
執念とも呼べる熱意は、やがて実を結び、そして今に至る。
その一途さを思い出し、リュシエリアーナはふっと口元を緩めた。
普段は隙のない兄が、愛妻のこととなると途端に余裕を失う。
その様は、どこか人間味に溢れていて、微笑ましい。
「……兄上が幸福そうで、何よりだ」
妹からの素直な祝福に、フォルドエルは一瞬だけ目を細め、静かに返す。
「……お前も、いずれそうなる」
その一言で、リュシエリアーナの顔から端然とした笑みが、すっと霧散した。
兄の言葉には『辺境伯との間に子が成せば』という言外の意味が含まれているのだろう。だが、前世が男である自分にその未来が訪れぬことを確信しているだけに、返答に窮せざるを得ない。
複雑な心境を隠せず渋面を作る妹に、兄はかすかな幼さを感じたのか、苦笑を漏らした。
「………リュシーには、まだ恋路は早すぎたか」
半ば独り言のように呟き、彼は肘掛けから腰を上げた。
「辺境伯は午刻過ぎに来られるのだろう? それまでに俺も身なりを整えておくとしよう」
そのまま退室しようと扉へ手をかけたところで、フォルドエルは肝心なことを思い出したように足を止めた。
「ああ、そうだ。十日後の夜会までに、辺境伯への贈り物を何にするか決めておけよ、リュシー」
「……? 贈り物?」
真意が測りかねるとばかりに小首を傾げる妹へ、今度は父と兄の溜息が、見事なまでに重なった。
「…………お前は、いささか世俗に疎すぎる」
「まったくだ」
呆れと諦念が滲む声音に、リュシエリアーナは渋い顔を返す。
(……世俗に疎くて何が悪い)
内心で毒づきながら、リュシエリアーナは不満げに唇を尖らせた。
浮世の作法に明るかろうと暗かろうと、剣を振るうのに何の支障があるというのだ。
礼法が刃を鋭くするわけでもあるまいに。
そんな『剣術馬鹿』な妹の思考を、まるで見透かしたかのように、フォルドエルは救いようのないものを見るような眼差しで、ゆっくりと口を開いた。
「婚約発表の夜会や昼餐会では、主役の二人が互いの色を身に纏うだろう? その装飾品や衣類は、互いに贈り合うのが古式ゆかしい習わしなんだよ」
諭すような口調で、フォルドエルは指を立てる。
「だが……アレクス兄さまとの婚約発表の折、私は贈呈した覚えはないが」
きょとんとした顔で問い返す娘に、答えたのは父だった。
「あの時は、私とテレサで選んだのだ。お前はまだ幼かったし、何より興味がなさそうだったからな」
テレサとは、母の名である。
初めて聞かされた事実に、リュシエリアーナは「へえ」と気の抜けた声を漏らし、王太子アレクスフォードとの婚約発表の記憶を辿る。
華やかな場ではあったはずだ。
祝福、視線、燦然たる光。
だが───記憶を懸命に掘り起こしても、肝心な部分が霧のように曖昧だ。
「では、アレクス兄さまからの贈り物も────」
「殿下は、ご自身でリュシーに似合うドレスを選び、贈ってくださった。お前と一緒にするのではない」
「それは…………アレクス兄さまに、申し訳ない事をした」
父のぴしゃりとした叱責を受け、リュシエリアーナは遅れてくる自責に苦笑を滲ませながら、バツが悪そうに視線を床へと落とす。
何せ、どれだけ記憶を穿くり返しても、自分がどのようなドレスを纏っていたのか、アレクスフォードが自分の色とやらをどこに身に着けていたのか、まるで思い出せないのだ。さすがにこの無頓着さは、婚約者に対する非礼極まりない振る舞いだろう。
フォルドエルは、王太子に憐憫の情を向けつつ、妹の世俗離れした非礼に深い溜息を一つ落として、念を押すように告げた。
「辺境伯には、きちんと自分で選んだ品を贈るんだぞ、リュシー」
そのまま悠然と部屋を出ていく兄を見送り、リュシエリアーナはまるで「城を落とせ」という無理難題を突きつけられたかのように、憮然と天井を睨みつけた。
剣であれば、まだ判る。
策であれば、組み立てもできる。
だが───贈り物。
「贈り物……ね」
ぽつり、と零れ落ちた呟きは、吐息混じりに空へ溶ける。
その声音には、武人としては幾多の修羅場を潜り抜けたはずの公爵令嬢が、たった一つの『世俗の作法』に途方に暮れている気配が、ありありと滲んでいた。




