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元戦国剣士の公爵令嬢は、愛ではなく忠誠で辺境伯を護る  作者: 枢氷みをか


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8/15

婚談の儀・後編

 一方、部屋に一人取り残されたリュシエリアーナは、嵐が通り過ぎた後のような静けさの中で、しばし呆然と扉を見つめ続けていた。


(…………何だ? 今のは……。夢か……?)


 あまりにも唐突で、あまりにも慌ただしい幕引きだった。

 人ひとりが現れて、言葉を残し、そして嵐のように去っていく。その一連が現実だったのかどうかすら、即座には判断がつかないほど、彼女の思考はかき乱されていた。


 リュシエリアーナは、半ば浮かせていた腰をそっと落とし、再びソファに身を沈める。背に触れる柔らかな感触が、ようやく現実へと引き戻してくれた。


 彼が扉から姿を現した、その瞬間。

 胸を打ったのは、驚きよりも先に湧き上がった歓喜だった。

 ────彼が、自分の婚約者だと思ったからだ。


(……だが、彼は『部屋を間違えた』と言っていた)


 彼が部屋に入って来た時、名乗りを上げていたことは、うっすらと記憶にある。だが、あまりの衝撃に、肝心の名を見事に聞き逃してしまった。

 それでも、散らばった情報を拾い集め、順に並べていけば、答えは自然とひとつに収束するだろう。


 リュシエリアーナの婚約者は、『世界で最も醜悪な貴族』と言われる人物だ。だが、この世界では美醜の基準が、前世のそれとはまるで違う。顔の造作は関係ない。価値を決めるのは、ただひとつ、髪色の濃淡のみだ。


 脳裏に浮かぶ、彼の輝くような白銀の髪と、そして何より、教皇リオンフェルドの、あの人を食った性格─────。


(……いや、間違ってないだろう、部屋)


 行き着いた結論に、リュシエリアーナは力の抜けた息を吐いた。重く、どこかうんざりとした溜息だ。


 思い返してみれば、あの時リオンフェルドは一度として嘘を()いてはいない。ただ婚約の相手が、今隣に立っている人物だと明言しなかっただけだ。


 ─────(相手側には私から沙汰を伝えておく)


 三日前、教皇が口にしたその言葉が、鮮明に脳裏に蘇る。

 あの時点で、伝達はすでに完了していたのだ。

 なにせ、互いにとっての『相手』は、その瞬間、同じ場所に居合わせていたのだから。


(策士め……)


 見事に嵌められた事実を受け入れ、リュシエリアーナは呆れ半分、感心半分といった面持ちで目を細めた。


(さて……どうしたものか)


 肝心の婚約者殿は、盛大な誤解を抱えたまま退室してしまった。このまま黙って座していれば、果たして戻ってくるのだろうか。


 思案した刹那、控えめに扉を叩く音が響いた。

 先ほどの、切迫した硬い音とは違う。迷いと遠慮が(にじ)んだ、ひどく慎重な叩き方だった。


 それが誰のもので、どのような心境によるものか―――察するに、難くはない。

 リュシエリアーナは、口元にわずかな笑みを浮かべた。


「どうぞ」


 短い沈黙の後、扉の開く音とともに、やはり申し訳なさを滲ませた声が重なる。


「……先ほどは、多大なる失礼を」

「いや、構わない」


 開いた扉の先に立っていたのは、頬にまだ赤みの余韻を残したまま、いたたまれなさそうに佇む絶世の美丈夫(びじょうふ)だった。

 もはや二度も顔を合わせている相手だ。今さら取り繕って淑女を演じる気など、リュシエリアーナには毛頭ない。


「……その……ひとつ、お尋ねしてもよろしいだろうか」

「何なりと」

「貴女は……その………マレグレン公爵令嬢───公女殿下であらせられるのか……?」


 恐る恐る紡がれた問いに、リュシエリアーナはただ、静かに微笑だけを返す。

 それが何よりの肯定であると悟った瞬間、ラファシアンは堪えきれぬように深く頭を下げた。


「申し訳ございません……! 数々のご無礼、なんとお詫び申し上げればよいか……!」

「私は貴殿に無礼を働かれた覚えはないぞ?」

「ですが────」

「とりあえず、座られたらどうだ?」


 溢れ出す謝罪を、リュシエリアーナはやんわりと、しかしきっぱりと断ち切る。そのまま自分の正面に置かれたソファを、掌で示した。


 ラファシアンは一瞬だけ逡巡の色を浮かべたものの、やがて観念したように、その身を静かに沈めた。


「紅茶は(たしな)まれるか?」

「……! いえ、私が淹れます……!」

「案ずるな。これくらい、私一人でも事足りる」


 卓上の茶器を手に取り、リュシエリアーナは淀みのない手つきで紅茶を淹れる。

 ポットを取り、湯を注ぎ、香りを立たせる────その所作には一切の無駄がない。前世で嗜んだ茶道の経験が、今世の公爵令嬢としての教育と自然に溶け合い、洗練された静けさを生んでいた。


 流れるように紅茶を淹れるその姿を、ラファシアンは再び見惚れるように見つめていた。

 彼女の細く美しい指先から注がれるこの一杯が、他でもない自分のためだという事実が、妙に面映ゆく、そして胸の奥をじんわりと温める。


 これまで幾度となく経験してきた婚談の儀で、相手の令嬢からここまで心を向けられたことなど、一度もなかった。形式ばった言葉と、冷えた空気だけが流れる場―――そんな記憶ばかりが、脳裏には残っている。


 それに比べて、この穏やかな時間はどうだろう。


 昨日まで不安に押し潰されそうだった胸の重しが、嘘のように消えているのを自覚して、ラファシアンは小さく息を吐いた。


(……本当に、よかった)


 彼女が、婚約相手であってくれて。

 そして、この美しい姿を―――他の男に見せることにならなくて。


(そうなっていれば、きっと私は……嫉妬で気が狂いそうになっていた……)


 醜い自分にも人並みの嫉妬心があるという事実に、わずかな驚きを覚えて、ラファシアンは目を瞬いた。

 自嘲めいた滑稽さに、薄く笑みを浮かべると、彼女から差し出されたカップにラファシアンは小さく会釈を返し、ゆっくりと口に運ぶ。


 その様子を、リュシエリアーナは呆けたように、そしてどこか悦に浸るように眺めていた。


 指先の角度、背筋の伸び、琥珀色の液体を嚥下(えんげ)する喉の動き────彼の所作や立ち居振る舞いは、どれをとっても端正で非の打ち所がない。その優美な所作をこの美貌で行うから、なおさら筆舌に尽くしがたい光景になる。その上、今日の彼の装いは正装だ。こうなるともう、彼の存在そのものが尊い。


「……よく似合っておられる」


 思わず漏れた彼女の本音に、だが言われた本人はその言葉の真意を同情と取り違えたのか、決まりが悪そうにカップを卓へ戻した。


「……滑稽でしょう。自分でもよく理解しているのです。醜い私ごときが、このような華美な装いに身を包むなど、不釣り合いも甚だしいと……」


 恥じ入るように視線を落とすその姿に、リュシエリアーナは思わず目を瞬いた。


「何をおっしゃる。貴殿ほどその装いが似合う者は他にいない。貴殿を滑稽だと笑う者は、ただ貴殿の価値を正しく理解できていないだけのこと。気に病まれる必要はない」

「……そ、それは………! その………!」

「先に申し上げておくが、以前にも伝えた通り、私は嘘も世辞も好かぬ」


 たじろぐラファシアンの逃げ道を塞ぐように、リュシエリアーナは毅然と言い放つ。

 真っ直ぐに向けられた肯定の眼差しから逃げ場を失い、ラファシアンは湯気が立ち上りそうなほど顔を赤くして俯いた。


「……………お褒めに預かり、光栄に存じます」

「どういたしまして」


 降参したように頬を染める彼を見て、リュシエリアーナはくすくすと愉快そうに笑い、自身のカップを口に運ぶ。


「───さて、もうそろそろ言葉を戻そうか。見知らぬ仲でもないだろう」

「…………え!?」

「素性が判った途端、そう余所余所(よそよそ)しくされては、いささか寂しいものだ」

「…………………」

「…………………」

「…………それは……おいおい?」


(……どこまでも生真面目な男だ)


 まあ、判ってはいたが。

 心中でそう続けつつ、リュシエリアーナは半ば呆れ、半ば楽しげに、紅茶を一口すする。


「では、とりあえず本題に入るとしよう」

「……え?」

「この場は婚談の儀。互いの気持ちを確かめ合う場だ」

「……!」


 その言葉を合図にしたかのように、ラファシアンの顔から血の気が引いていく。

 背筋を強張らせ、蒼白な面持ちになるのは、過去十七回に及ぶ拒絶の記憶が、古傷のように疼いたからだろう。


 彼は決死の覚悟を滲ませた硬い表情で、重々しく口を開いた。


「………私のような者が相手では、さぞご不満でしょう。ただの知己(ちき)として言葉を交わすならまだしも、よりによって、この私と添い遂げるなど────」

「そうだな」


 有無を言わせぬ断定が、彼の言葉を途中で断ち切った。

 それを拒絶だと受け取って、ラファシアンはひどく落胆し、静かに視線を落とす。


 だが、次にその耳に届いたのは、思いのほか明るく、鈴を転がすような声音だった。


「私としては、願ったり叶ったりだ」

「──────え?」


 一度は地に落とした顔を、ラファシアンは勢いよく跳ね上げた。その瞳には驚愕と、処理しきれないほどの戸惑いが渦巻いている。


「過去十七回にわたり、貴方との縁を断った令嬢たちに礼を言いたい気分だ。その内の一人でも貴方を望む者がいたなら、こうして私が婚約者の椅子に座る事はなかったのだからな」

「………それは………」

「だが、同時に申し訳ないとも思っている」

「え……?」

「私のようなじゃじゃ馬を押しつけられたのだ。このままでは、貴方があまりに不憫でならない」

「! そのような事は決して────!」

「だから、私なりに考えてみた」


 ――――むしろ自分こそが、貴女のような方を賜って果報者なのだ。

 そう強く否定しようとしたラファシアンの言葉を、リュシエリアーナは掌を上げて制した。


 ゆっくりとした所作でカップを卓に置き、射抜くように真っ直ぐな眼差しで、彼を見据える。


「そこで一つ、提案したい」

「…………提案、ですか?」

「私と契約婚をする気はないか? フォルスタート辺境伯」


 思わぬ一手に、ラファシアンは目を見開いた。

 その言葉の意味を即座に噛み砕くことができず、ただ茫然と口を開く。


「─────契約婚……ですか?」

「なに、それほど難しい話ではない。形だけの婚約を成立させた後、貴方にもし、心から愛するご令嬢が現れたのならば、その時は婚約を解消しよう、というだけの話だ。ただ、懸想(けそう)の相手ができるまでは、婚約者の椅子に私を座らせておいてほしい」


 ラファシアンは、(かす)かに眉根を寄せた。

 その言葉は、どこか―――彼女が本心ではこの婚約を忌避しているようにも聞こえる。


(………本意ではない婚約だが、どこの誰とも知れぬ婚約者の座に座るよりは、まだまし……という事か……?)


 ラファシアンの眉間に刻まれた皺から、その内心の揺らぎを読み取ったのだろう。リュシエリアーナは、はっとしたように慌てて弁明を重ねた。


「ああ、いや……! すまない、誤解しないでくれ……! 決して貴方との婚約が嫌なわけではない。ただ……貴方ももう察しているとは思うが、私には女子(おなご)らしさの欠片もないからな……。こんな武骨な私を女子(おなご)として見ろと言う方が、酷な話だろう……」


 バツが悪そうに視線を泳がせるその頬が、わずかに朱に染まっている。


「これは、私なりの配慮だと思ってくれ。私は自分の目的のためとはいえ、貴方の幸せまで奪いたくはない」

「─────……」


 面映そうでありながら、真っ直ぐに告げる彼女の姿を、ラファシアンはただ静かに見つめた。


(……その飾らぬ気高さこそが、彼女の最大の魅力だろうに)


 何物にも囚われず、自らの足で堂々と大地に立つ、その在り方。

 それは決して『自分勝手』などという浅薄な言葉で片付けられるものではない。彼女の言動の根底には、常に他者への慈しみがある。弱き者に寄り添い、救おうとする、(はげ)しくも優しい意志だ。


 そう内心で独白しながらも、彼女が恥じ入っている様子を見るにつけ、ラファシアンは思う。

 人並みに恋をしたことのない自分の感覚は―――おそらく、世間一般の常識から大きく外れているのだろう、と。


 ラファシアンは短く思案を巡らせてから、ぽつりと問いを投げかけた。


「……もし、同様に貴女にも慕う相手が現れた場合、やはり婚約の解消を?」

「いや、その可能性は断じてない」


 一片の迷いもなく、確信に満ちた声で言い切る彼女を、ラファシアンは怪訝そうに見つめ返した。


「残念ながら、私には恋心というものが理解できぬ」


 それは今世に限らず、前世においても同様だった。

 異性が傍に寄れば動悸(どうき)が早まることくらいはあったが、それは明らかに恋慕の情とは異質のものに思えた。ひたむきに相手を慈しみ、心がその存在に囚われて離れぬような、焼き付くほどの熱情を、彼女は一度として抱いたことがない。


「そうだな─────……あえて挙げるとすれば、私が恋をしている相手は、きっと剣術だろうな」

「剣術……ですか?」

「寝ても覚めても、頭の中は剣術の事ばかりだ。いかにして剣術を極められるのか、私にとっての熱情は、すべて剣術にのみ向けられている。一つの事象から目が離せなくなる状態を恋と呼ぶのなら、まさしく私は剣術に恋をしているのだろう」

「それは────……何と羨ましい……」


 思わず(こぼ)れた本音に、ラファシアンははたと我に返り、慌てて口元を掌で覆った。


「……何だ。フォルスタート辺境伯には、そこまで情熱を傾けられるものがないのか?」

「あ、いえ……! そ、そのような意味では……! 今のは、私個人の感想ですので、どうぞお忘れください……!」


 またたく間に耳朶(じだ)まで朱に染めるその様子は、もはや見慣れた光景だ。

 よく顔を赤らめる男だな、と小首を傾げつつ、リュシエリアーナは改めて本題へと戻った。


「────それで、どうだろうか。この提案、貴方にとっても悪い話ではないと思うが」


 婚約者という椅子を埋まらせておけば、今後、不本意な縁談は退けられる。もし本当に慕う相手が現れたのなら、その時に婚約は解消すればいい。彼にとっても、そして自分にとっても、これ以上の良策はないはずだ。


 ラファシアンは、深淵を覗き込むような沈黙の後、静かに口を開いた。


「一つ────いえ、二つ、お尋ねしたい」

「何なりと」

「公女殿下から婚約解消を願い出る可能性はございますか?」

「ないな」

「では────もし、両者ともに慕う相手が現れなかった場合、公女殿下と生涯を添い遂げるものだと、理解してもよろしいでしょうか?」

「!?」


 予想外の覚悟を突きつけられて、リュシエリアーナは目を瞬いた。


「それは……私にとっては嬉しい誤算だが、構わないのか? フォルスタート家には世継ぎが必要なのだろう」

「………その時は、分家に跡を継がせます。ご心配には及びません」


 その言葉に、偽りはない。

 だが、分家が内包する魔力量は、本家のそれに比べれば大幅に劣る。それでも常人よりは遥かに上だが、その力でこの国の結界と、『星屑の落ちる土地』の守護は難しいだろう。


(……決して、彼女に悟られてはならない)


 その事実も、そしてその先に待ち受ける、この国と世界の終焉(しゅうえん)さえも─────。


 自分は天秤にかけたのだ。

 この世界の未来と、彼女という光を。


 そして、迷うことなく世界を切り捨て、彼女を選んだ。


 彼女は、自分がようやく手に入れた唯一無二の光。

 他の男に奪われるくらいなら、世界が滅ぶ未来の方が、まだましだ。

 たとえ二人の間にあるものが、どのような関係性であろうとも、彼女が傍にいてくれるのなら、それでいい。


(─────それを、死んでも彼女にだけは悟らせてはならない)


 ラファシアンは、祈りのような、あるいは呪いのような固い決意を宿した瞳で、不思議そうに見返すリュシエリアーナを、真っ直ぐに見据えた。


「その提案、謹んでお受けいたしましょう」

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