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元戦国剣士の公爵令嬢は、愛ではなく忠誠で辺境伯を護る  作者: 枢氷みをか


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婚談の儀・前編

(………気が重い)


 リュシエリアーナは、美しいドレスに包まれた肩をこれ以上ないほど深く落とした。

 胸の奥に澱のように溜まる鬱々とした気分とは裏腹に、窓の外に広がる空は皮肉なほど晴れ渡り、春の陽光を惜しげもなく大地へと降り注いでいる。


「……お嬢様、それほど深く吐き出されては、肺の中が空っぽになってしまいますよ」


 主のただならぬ沈鬱(ちんうつ)な様子を見かねて、専属侍女のヴェルが、呆れと気遣いの入り混じった声をかけた。


「……? 何の話だ?」

「ため息です。そう何度も零されては、幸せが逃げてしまわれますよ。せっかく今日は、新しい婚約者の方との婚談の儀でいらっしゃいますのに」


 だから憂鬱なのだ、とリュシエリアーナは内心で毒づく。

 今度は音を立てぬよう、静かに息を吐いた。


 教皇へ直談判をしてから、今日で三日目。

 婚談の儀を執り行うと言われた、運命の日だ。


 この三日間で、自分なりに覚悟を決めたつもりだったが、いざ当日を迎えてみれば、肩にのしかかる重圧は想像以上に重い。それは、相手がどのような人物であろうとも、男である以上、選択肢が最初から『断る』一択しか存在しないからに他ならない。


 相手が(ろく)でもない人物であれば、話は簡単だ。願い下げだと一蹴すれば、それで終わる。

 問題があるのは、相手が思いのほか『好漢』であった時だろう。

 どれほど好ましい人物であっても、結局は断りを入れるのだ。その罪悪感が、本来なら痛まなくていいはずの胸を、じくじくと疼かせる。拒まれる側の心情を想像するたび気持ちは沈み、憂鬱は深まるばかりだった。


(……彼であれば、これほど憂鬱になる事もなかっただろうにな)


 ふと脳裏をよぎるのは、人智を超えた美貌を持つ、彼の姿────。


 あれほどの美しさであれば、もはや性別など些末(さまつ)な問題だ。理屈では『男』だと理解していても、彼の美を前にすれば、性別という常識そのものが曖昧に溶けてしまう。


(……とはいえ、男色をどうこう言えるほどの常識が、そもそも私にあるのかさえ怪しいがな……)


 思って、自嘲気味な笑みを落とす。


 リュシエリアーナ───いや、彼女の中に眠る『彼』が生きた前世は、戦国の世。

 歴史の中でも、とりわけ男色文化が色濃く根付いていた時代だ。


 女人禁制の僧侶が稚児を抱き、武将が美しき能役者を寵愛する。

 武家社会においてそれは『衆道(しゅどう)』と呼ばれ、武士の嗜みとさえ言われた。単なる性的嗜好ではなく、主従の間で精神と肉体の絆を深める、峻厳(しゅんげん)なる文化として受け入れられていた時代だった。


 『男女の愛より、男同士の魂の結びつきこそが、より純粋で高貴である』

 そんな価値観が骨まで浸透した時代に育った彼───彼女にとって、男色そのものに嫌悪感はない。むしろ、日常の一風景として受け入れていても不思議ではなかった。


 それでもなお、彼女がこれほどまでに男を回避しようとするのは、他でもない。

 前世の彼が、『男に襲われる』という耐え難い屈辱を、実際に経験しているからだ。


 それは元服を一年後に控えた、十三の秋。

 いつものように熱を出して床に伏していた彼の寝所に、一人の男が忍び込んだ。病弱で体の発育が遅く、年の割に小さく細い彼の体が、男の歪んだ欲情を刺激したのだろう。

 熱にうなされながら目を覚ました時、視界に映ったのは、見知らぬ男の影と、押さえ込まれた自分の腕だった。そのまま手籠(てご)めにされそうになったものの、必死に枕元の脇差へと手を伸ばし、命からがら逃げ出したのだ。

 以来、彼は戦国時代には珍しく、武家の嗜みを一切拒絶し、女色にも溺れぬ硬派な剣豪として生涯を貫き通した。


(そんな私が、まさか別の世界で女子(おなご)に生まれ変わるとはな……)


 皮肉な運命に、再び自嘲の苦笑が漏れる。


(まあ、前世では数多の猛者を戦場で屈服させてきたのだ。今さら男が怖いなどと言うつもりはないが─────)


 それでも。

 嫌なものは、嫌なのである。


 もう一度、深く沈んだ嘆息を吐き出したところで、髪を整えていたヴェルが、空気を切り替えるように弾んだ声を上げた。


「さあ、できましたよ! いかがですか? お嬢さま」


 鬱屈した胸の内を吹き飛ばすかのような明朗な声音に促され、リュシエリアーナは渋々といった様子で鏡の中に視線を向けた。

 そこに映るのは、普段の自分とはあまりにもかけ離れた『高貴な令嬢』が、さも当然の顔で鎮座する姿─────。


「……まるで自分ではないようだ」


 あまりの変貌ぶりに思わず瞠目し、感嘆とも困惑ともつかぬ吐息と共に、ぽつりと独白が零れ落ちる。


 白磁のような肌には淡く頬紅が差され、大きな双眸(そうぼう)には艶やかな色香が宿る。口元は紅を控えめにすることで、上品さと愛らしさを絶妙な均衡で両立させていた。高く結い上げた髪は、うなじの線を強調して、大人びた香気を放っている。

 (まと)うドレスは、華美さを抑えつつも品格を損なわない、ヴェルの審美眼が光る逸品だ。口さえ開かなければ、鏡の中の存在は、天上の花と称されても差し支えない『絶世の美女』そのものだった。


「……女は化粧(けわい)で化けると聞くが、まさしくその通りだな」

「お嬢様……その、他人事のようなおっしゃりようはいかがなものかと……」


 身も蓋もない感想に、ヴェルは額に手を当て、深いため息をつく。


「今日はお嬢様の晴れ舞台ですから、精魂(せいこん)を込めてご準備をさせていただきました。お気に召しましたか?」

「…………晴れ舞台でもないし、そんなものは込めなくていい」


 まったくもって、迷惑な話である。

 見映えが良くなればなるほど、相手が執着してくる可能性が高くなるのだ。どうせ断るのなら、むしろ毒にも薬にもならぬ冴えない姿にしてくれる方がよほど都合がいい。


 そんな心情を隠しもせず、げんなりと目を細める主に、ヴェルは困ったように、しかしどこか柔らかな微苦笑を返した。


「……相手がどのような方であれ、こうして美しく装えば、少しは憂いも晴れましょう」

「!」


 その一言で、これがひとえに自分の心を(おもんばか)ってのことだったのだと察して、リュシエリアーナは思わず後ろを振り返った。そこには、慈しむような眼差しで微笑むヴェルの姿がある。


(……女子(おなご)という生き物は、そういうものなのか)


 リュシエリアーナはもう一度、鏡に映る自分を視界に収めた。

 美しく着飾った鏡の中の自分は、いつになく堂々としていて、気圧されるほどの凛とした佇まいを帯びている。それは、武人(もののふ)として生きてきた自分の芯が、装いの奥に確かに残っているからだろう。


(……確かに、悪い気はしない)


 くすりと喉を鳴らし、鏡越しにヴェルへと視線を投げた。


「気に入った」


 ようやく憂鬱一色だった表情に笑みが戻り、ヴェルは満足そうに小さく笑う。


「さあ、お嬢様。そろそろ教皇公邸へ向かわれませんと、遅れてしまいますよ」

「そうだな」


 促すように大きく扉を開くヴェルに背を押され、リュシエリアーナは重い腰を上げた。


 今から、教皇公邸へ向かう。

 いつもは徒歩で向かう事が慣例だが、着飾った身なりで街を闊歩するわけにはいくまい、と特別に馬車の使用が許可された。そうやって馬車に揺られる道中で、同じく今日、他の誰かと婚談の儀を行う彼とすれ違う事はあるだろうか。


 再び脳裏に彼の姿よみがえって、リュシエリアーナは小さく(かぶり)を振った。


(……思っても、詮ないことだ)


 彼は彼の、そして自分は自分の婚約者と顔を合わせる、ただそれだけの事。

 どれほど思考を巡らせようと、この事実が覆ることはない。


 部屋を出る直前、リュシエリアーナは無意識のうちに、祈るようなため息を零していた。


(……本当に、彼の婚約者が羨ましい)


**


(……気が重いな)


 ラファシアンは教皇公邸の一室の前で、深々と嘆息した。

 アランに案内されて辿り着いたこの扉の向こうでは、すでに婚約相手である公爵令嬢が、自分の到着を待っている。


 ラファシアンは再び落としたため息と共に、襟元を軽く緩めた。

 その装いは、普段の地味なシャツにバックロングベストではない。婚談の儀である以上、正装は当然のことだと理解している。───理解してはいるが、それにしても過剰ではないか、とどうしても思ってしまう。


 詰襟の燕尾ジャケットは、まだいい。白磁のような布地に、黒や赤、金の刺繍で装飾を施されていて、内心では華やかすぎると感じつつも、正装というのはこういうものだと、理屈では納得できる。

 左肩にかかるペリースも、大目に見よう。白の燕尾に対して、黒を基調としたベルベットが華美な装いを落ち着かせ、同時に引き締めている。───ただ、そこにもやはり金糸の刺繍があるのが、どうにも落ち着かない。


 そして極めつけは、普段は無造作に下ろしている襟足の長い銀髪を丁寧に整え、前髪を潔く上げたその髪型だった。


 婚談の儀なのだから、身を整えるのは当然だろう。

 粗末な格好で婚談の儀に(のぞ)めば、相手は侮られたと受け取る。この装いが、相手に対する敬意を払う事になるのだと、認識しているつもりだ。だからこそ、慣れない前髪の感触に額が落ち着かなくとも、黙って耐えているのだ。


 だが─────。


(……醜い私がこれほど着飾れば、逆に滑稽に映るだけだろうに……)


 三度目のため息が、ほとんど無意識に零れ落ちた。

 華美になり過ぎないものを、とシエルに念を押したはずが、蓋を開けてみればこの有様だ。第一印象が大事なのだと一切の反論を封じられ、半ば強引に仕立て上げられた。


 時間に追われ、そのまま教皇公邸へ向かったものの───いざ扉の前に立った今、情けないことに足が(すく)んでいる。


(……嘲笑されるか、あるいは呆れられるか……)


 どう見ても、服に着られている事は明白だろう。その滑稽さを痛いほど自覚しているだけに、扉を開いた瞬間の相手の反応を直視する勇気が、どうしても湧かない。

 思って、ラファシアンは小さく(かぶり)を振った。


(………いや、決めつけはよくない。猊下からお叱りを受けたばかりではないか)


 これまでの人生、異性から向けられる視線は決まって冷ややかなものだった。それゆえに思考がどうしても後ろ向きに傾く。


 (はや)る動悸を鎮めるように深く息を吸い、ラファシアンは何とはなしに廊下の先へと視線を流した。

 延々と続く廊下には、重厚な扉が等間隔で並んでいる。一介の貴族の屋敷など軽々と凌駕するその規模が、教皇一人の居住地だというのだから、改めてその権威の大きさを思い知らされる。


 ラファシアンは、その扉の一つ一つを、吟味するように眺めた。


(………この部屋のどこかで、彼女も今頃─────)


 思考が(よぎ)った瞬間、それを即座に、そして乱暴に打ち消す。


(考えても、仕方のないことだ……)


 今、向き合うべきは目の前の令嬢だ。

 これから『婚談』を行おうという時に、別の女性を思い浮かべるなど、不誠実にも程がある。


 ラファシアンは脳裏に焼き付いた彼女の残像を必死に振り払い、決別するように目の前の扉を二度叩いた。

 一拍置いて、


「どうぞ」


 思いのほか落ち着いた、涼やかな返事が返ってくる。

 本来であれば、令嬢側の侍女が取次ぎ、部屋の中まで案内してくれるものだが、今回に限りそれはない。


 扉越しに鼓膜を震わせたその声に、わずかな既視感───既聴感を覚えたが、それを深く気に留める余裕もなく、ラファシアンは丁寧な所作で扉を押し開いた。


「失礼いたします」


 無意識に視線が床へと落ちたのは、自分に向けられているであろう「嫌悪」や「落胆」を直視する勇気が、まだ持てなかったからだろうか。

 ラファシアンはそのまま、深々と(こうべ)を垂れた。


「……ラファシアン=フォルスタート辺境伯にございます。本日、この場にお越しいただけたこと、心より光栄に存じます。不躾ながら、まずはご挨拶を─────」


 口上を述べながら、ゆっくりと顔を上げる。

 意を決して、自身の瞳に『婚約者』の姿を映した。


 ────刹那。


 そこにいた人物を認識した途端、ラファシアンは呼吸することさえ忘れ、完全に硬直した。


 白磁の肌をなぞるような純白のドレスに身を纏い、美しく結い上げられた黒髪を誇る彼女。

 過去二度出会った時の、騎士のような実用的な装いとは、あまりに違う。

 だが、纏う気高い空気も、射抜くような双眸(そうぼう)も、そして凛とした中に宿る温かい印象も、間違いなく彼女だった。


 あまりの変貌ぶりに見惚れ、思考が停止して固まったのも束の間、ラファシアンは弾かれたように我に返った。


「す、すまない……! 部屋を間違えた……!」


 裏返った声で叫び、ラファシアンは這々(ほうほう)(てい)で部屋を飛び出した。

 閉じた扉に背を預け、早鐘を打つ鼓動を抑えようと深呼吸するが、顔の熱は一向に引かない。それどころか、全身が熱を帯びたように脈打っている。


 ラファシアンはアランが去った方向へ逃げるように歩き出しながら、その胸中では疑念が渦を巻いていた。


(……おかしい。なぜあの部屋に彼女が……? アラン殿が案内を誤ったのか? ────あの、精緻(せいち)を極めるアラン殿が?)


 教皇の補佐であるアランの有能さは、身をもって知っている。その彼が、婚談の儀という重要な局面で、これほど初歩的な手違いを犯すだろうか。


(……いや、これほど部屋が並んでいるのだ。案内を誤ることも、あるいは……)


 では、本来の婚約相手であるマレグレン公爵令嬢は、一体どこで待っているのだろう。


 本来なら、そこに思考が至るはずだった。

 だが、ラファシアンの脳裏は、先ほど視界を埋め尽くした彼女の姿で、完全に占領されていた。


 耳朶(じだ)までもが、火を吹くように熱い。もう二度と会えぬと自分に言い聞かせ、無理やり幕を引いたはずの想いが、思わぬ再会によって鮮やかに燃え上がっている。


(………美しかった)


 誰に見られるでもないのに、赤らんだ顔を隠すように掌で口元を覆い、思わず感嘆を漏らす。


 フードを被っていた時でさえ、彼女を(ひそ)かに愛らしいと思っていた。だが、正装に身を包んだ彼女の輝きは、その比ではない。陶器のような素肌に差された頬紅。凛とした目元はどこか妖艶で、艶やかに光る唇が視線を奪う。

 そして、白のドレスとはあまりに対照的な、あの夜の闇を溶かしたような黒髪が─────。


 その瞬間、ラファシアンの足が、ぴたりと止まった。


 混濁していた思考の波が、一気に凪ぐ。

 緩慢な動きで、今しがた背を向けてきた扉を振り返った。


「─────黒髪?」

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