デート・二編
「相変わらず、見事なものだ……!」
アル・シャン通りに足を踏み入れたリュシエリアーナは、思わず感嘆の吐息を漏らした。
彼女の視線が奪われているのは、煌びやかな装飾ではない。この通りには、かつて暮らした日ノ本には決して存在しなかった、魔法の粋が集められているのだ。
ここでは、たとえ外が嵐であろうとも、雨風が吹き込むことはない。高位魔導師たちの多重結界が、アル・シャン通りだけを永遠の春の陽気に留めているからだ。頭上を仰げば、そこには常に雲一つない瑠璃色の空が広がっている。
石畳には足音や馬車の轍の音を消す『無音の静謐魔法』が定着され、通りに流れる音楽を遮るものはなく、柔らかな旋律だけが静かに空間を満たしていた。
店舗の魔法硝子には、見る者の望みを映し出す『魅了の幻影』が施されている。通りを歩く貴族がふと足を止めれば、硝子の向こうの宝飾品は、その者の瞳の色や今日の装いに最も似合う形へと、密やかに、そして完璧にその輝きを変化させるのだ。
そして、何より特筆すべきは夜の姿だろう。
陽光が王都の尖塔の向こうに沈み、空が深い群青に染まる頃、石造りの街灯に埋め込まれた魔晶石が一斉に目を覚まし、辺りは温かな琥珀色の光に包まれる。魔法で精製された光の粉が、まるで意思を持つ蛍のようにゆったりと大気を漂い、貴族たちのシルクの外套や宝石に反射して、通り全体を万華鏡のような煌めきで満たしていく。
店を出た上客たちの傍らには、守護精霊のような『浮遊灯』がふわりと寄り添う。主人の歩調に合わせて影を払い、馬車までの道のりを静かに照らしてくれるのだ。
その淡い光の列は、まるで地上に降りた天の川のように、どこまでも贅を尽くした夜の静寂を彩っていた。
神聖国随一の繁栄を誇るアル・シャン通りは、現世の喧騒から切り離された『魔法の楽園』────それは戦に明け暮れた血なまぐさい前世では、夢に見る事さえ叶わなかった理想郷そのものだった。
童心に帰ったかのように瞳を輝かせるリュシエリアーナを、ラファシアンは驚きと、そして隠しきれない愛おしさが入り交じった眼差しで見つめていた。
「アル・シャン通りには、よく来られるのですか?」
「ああ、この通りを歩くのが好きでな。まるで御伽の国に迷い込んだようだろう?」
いつもの凛とした佇まいから一転、瞳を燦々と輝かせる彼女の姿は、年相応の少女そのものだ。そのあまりの無防備さに、ラファシアンは胸の鼓動が早まるのを抑えられない。
わずかに頬を染めて静かに視線を逸らしながら、彼ははしゃいでいる彼女に、精一杯落ち着いた声を出して尋ねた。
「……では、贔屓にしている店などがここに?」
「いや、ないな」
「?」
「言っただろう、歩くのが好きだと。私はこの通りの、非現実的な空間そのものが好きなのだ」
そう言ってから、ふと思い出したように続ける。
「ああ、だが。馴染みの店と言えば、この先にある魔道具の店にはよく顔を出すな。道具の仕掛けを見るのは、兵法を読み解くようで面白い」
その返答に、ラファシアンは思わずくすりと笑う。
「つまり、魔法そのものに興味がおありなのですね」
「ああ、私は魔法が使えないからな」
さらりと言ってのけた返答に、ラファシアンは目を瞬いた。
「……公女殿下は────」
「『リュシー』だ」
「……………リュシエリアーナ嬢は」
しれっと愛称を強いる彼女に困ったような笑顔を送りつつ、ラファシアンは言葉を継ぐ。
「────リュシエリアーナ嬢は、魔法を使うことができないのですか? 失礼ながら、お見受けした魔力量は常人よりも遥かに多いようですが」
「らしいな。だが、使い方がいまいち判らぬのだ」
魔法を行使する力は本来、産声とともに備わる本能のようなものだ。呼吸をするように、この世界の人間は当たり前に魔力を操る。
だが、リュシエリアーナは二歳の時、前世の記憶と引き換えに、その感覚を綺麗さっぱり失っていた。高名な魔導師たちは『大病による感覚の欠落』と結論づけたが、彼女自身は真の理由を確信している。
────前世の日ノ本には、そもそも魔法という概念も道理も全く存在しない。
呼吸と同じと言われても、武士として生きた記憶が、その『得体の知れない感覚』を異物として拒絶してしまう。刀を振り、型を体に覚え込ませるのとは、明らかに勝手が違った。
「何というか、こう……曖昧だろう? 感覚的なことを説かれても、私には理解ができぬし、それを実際に行えと言われてもやりようがない」
そう言って、彼女は軽く息を吐く。
「……まあ、魔法が使えなくとも、特に不自由はないからな」
強がるように笑ってみせるものの、ここを通るたび、ふと思うのだ。
自分には届かない力だからこそ、このアル・シャン通りの不可思議な光景は、いっそう美しく、誇り高く見えるのだろう、と。
わずかに自嘲を含んだ笑みを風に散らし、リュシエリアーナは吹っ切れたように足を進めた。
「さあ、行こう。ラファ様」
「え、ええ……」
どこか、聞いてはいけないことを聞いてしまったような気まずさを覚えながら、ラファシアンは彼女の背中を追う。
「……それで、寄る店は決まっているのですか?」
「いや……特に決まってはいない。手当たり次第に探すつもりなのだが……」
ちらりと伺うような視線を向けるリュシエリアーナに、ラファシアンは柔らかく微笑んだ。
「ご心配なく。最後までお付き合いいたしますよ」
「……恩に着る」
謝意を伝えつつ、少しだけ面映ゆそうに喉を鳴らして、リュシエリアーナは店の魔法硝子へと目を向けた。
このアル・シャン通りでは、探し物を見つけるのはそう難しくない。魔法硝子に施された『魅了の幻影』が、店内の在庫からその者が今欲している物を映し出してくれるからだ。都合のいいことに、その光景を隣のラファシアンに悟られる心配もない。見えるのはあくまで自分の『心』が求めた品だけ。彼が覗き込めば、また別の物が映し出される。
(ラファ様に似合うものがあればいいが……)
リュシエリアーナは手当たり次第に、店先の魔法硝子を覗き込んでいく。そこに映し出されたのは、エンゲージ・ブローチにカフリンクス、ラペルピン、そして懐中時計に、指輪────どれもが贈り物としては申し分のない品だ。だが不思議なことに、どれも『これだ』という確信には至らない。
(……決め手に欠けるな)
いや、そもそも二度の人生を通して、贈り物などしたことがないのだ。それどころか、誰かに贈り物をすること自体、これまで考えたことすらなかった。
そんな自分が『正解』だの『相応しい』だのと判断したところで、その感覚が本当に正しいのかどうかさえ怪しい。
(名刀を選ぶようにはいかぬか……)
思わずげんなりと、重い溜息が零れ落ちる。
その様子を後ろから見守っていたラファシアンが、遠慮がちに声をかけた。
「よろしければ、私も探すのを手伝いましょうか? お探しの物を教えていただければ二人で探せますし、見つけるのも早いでしょう」
「……………………いや、申し出は有難いが、何を探しているのか正直、自分でも判らぬのだ」
肩を落としながら答える声には、もはや諦めの色すら滲んでいた。
いっそ、この場で匙を投げ出してしまいたい気分である。
小首を傾げてこちらを見つめる彼を尻目に、リュシエリアーナは痛む頭を押さえながら、無意識に視線を彷徨わせた。
その時────。
ふと、視界の端に映り込んだ魔法硝子が、他とは違う『光』を湛えていることに気づく。
そこに映し出されていたのは────イヤーカフだった。
身体に傷をつけることを厭うという考えは、どうやら前世の日ノ本も、この神聖国も同じらしい。入れ墨はおろか、耳に穴を穿つピアスなどは以ての外だ。
そのため神聖国の神殿騎士にとって、イヤーカフを片耳に着ける行為は、単なる装飾ではなく、古くから続く儀式的な意味合いを持っていた。
右に着ければ、『守られる者』として神の恩寵を。
左に着ければ、『守る者』として、国や民を守り抜く覚悟の証となる。
(……そういえば)
ふと、以前耳にした話を思い出す。
一時期、神殿騎士の間で流行ったのだ。伴侶、あるいは想い人から贈られたイヤーカフを、左耳に着けるという風習が。
それは単なる贈り物ではない。
左耳にそれを帯びるということは、即ち『貴女を生涯守り抜く』という不退転の決意表明だ。
リュシエリアーナは、わずかに思案してから店の看板を仰ぎ見る。
幸いにも、ここは紳士専門店ではない。男女どちらの品も扱う店ならば、ラファシアンに怪しまれることなく、自然に品定めができるだろう。
「ラファ様。この店に入ってもいいか?」
「ええ、もちろんです」
快諾を得て、リュシエリアーナは店の扉に手をかける。
だが────。
「!」
鍵がかかっているのだろうか。押しても引いてもびくともしない扉に四苦八苦していると、見かねたラファシアンが静かに歩み寄ってきた。
次の瞬間、背後から影が落ちる。
覆いかぶさるような体勢で、彼はそっと手を伸ばし、扉の取っ手を握る彼女の手の上に自分の大きな手を重ねた。
「……っ!」
背中越しに伝わる体温と、鼻腔をくすぐる彼の清廉な香りが間近に迫る。気付けば、自分の身体はラファシアンの腕の内にすっぽりと収まっていた。その事実を意識した途端、リュシエリアーナの胸が不意に大きく跳ねた。
瞬間、先ほどまで微動だにしなかった扉が、まるで嘘のように、音もなく静かに開く。
「……このアル・シャン通りにある店はすべて、扉に微量の魔力を流す事で開く仕組みになっています」
「……え?」
「防犯上の仕様です。ここは高級店が軒を連ねていますからね。魔力を介することで開閉に間を置きつつ、悪意ある魔力を弾く結界の役割も兼ねているのです」
耳元で、穏やかな声が落ちてくる。
「……まあ、魔法に精通する者ならば容易く通れますから、あくまで牽制に過ぎませんが」
「そ……そうか……」
上の空で返事をしながらも、リュシエリアーナの意識は別のところに向いていた。
いまだ密着したままの、この距離だ。彼が言葉を発するたび、耳元に熱い吐息がふわりとかかる。甘く清廉な香りを帯びたその息吹に、頬がじわりと熱を帯び、鼓動は制御不能なほど速くなっていく。
(……ラファ様は、これほどまでに体が大きかったのか)
その浮世離れした美貌と、柔らかな物腰のせいでつい忘れがちになるが、ラファシアンは紛れもなく男なのだ。魂はさておき、身体が女である自分など、こうして簡単に腕の中へと収まってしまう。
「……これからは店に入りたい時、私に声をかけてください。私が開けますので」
そう言って、至近距離で春の陽だまりのような微笑みを向けられる。
その瞬間、リュシエリアーナの心中はもはや穏やかではなかった。
いつもなら照れ屋のラファシアンの方が先に顔を赤くするのだが、今日に限っては妙に落ち着いている。それは、おそらく彼にとって、ただ『手助けをした』というだけの行為なのだろう。
────自分の美貌に無自覚な男ほど、恐ろしいものはない。
その破壊力は、計り知れないのだから。
「わ、わかった……! 心得た!」
赤くなった顔を悟られぬよう俯きながら、リュシエリアーナは逃げるように店内へ足を踏み入れる。
そして、誰にも見えぬよう小さく深呼吸を繰り返した。
(……ラファ様はあれで、なかなかの優男の素質があるな)
無意識ゆえの無慈悲なまでの優しさが、また憎らしい。
ちなみに『優男』という言葉は、今でこそ弱々しい男を指すこともあるが、戦国時代では『風流を解し、容姿端麗で女性に優しい男』という極めて格の高い称賛の言葉である。
内心の動揺をそんな言葉でどうにか覆い隠し、リュシエリアーナは一つ深く息を吐いた。
ようやく人心地ついたところで、改めて店内をぐるりと見回す。
煌びやかな内装を誇る店が多いアル・シャン通りの中にあって、この店はどこか趣が違っていた。
王都の喧騒を忘れさせるような、清潔な白壁と落ち着いた茶褐色の木材が調和した空間───華美ではないが、温もりと品格を兼ね備えたその雰囲気は、訪れる者の心を自然と静めてくれる。
その上品な室内には、宝飾品やスカーフといった細工物が、まるで主を待つかのように整然と並べられていた。
リュシエリアーナはそれらを吟味するように、ゆっくりと棚に沿って視線を走らせていく。
そして、目当ての棚に差しかかったところで、ふと背後の気配を探った。
ラファシアンは、こうした店に慣れていないのだろう。少し離れた場所で、何かを熱心に、それでいて遠慮がちに眺めている。
その様子に胸を撫で下ろし、リュシエリアーナは再び意識をイヤーカフの並びへと戻した。
その瞬間だった。
視界の端で、一つの細工物がふと光を放つ。
思わず足を止めたリュシエリアーナの視線は、次の瞬間、その一点に釘付けになっていた。
────聖銀で鍛えられたイヤーカフ。
その表面には魔法陣を象った精緻な彫金が施され、その中心には、まるで夜空の星が瞬くような濃紺のタンザナイトが散りばめられている。それはまさしく、彼の瞳と同じ色だ。
さらに、銀の鎖が静かに垂れ、その先にはパライバトルマリンで形作られた小さな雪の結晶と、その傍らで、雫型のパープルスピネルが、彼女自身の瞳と同じ紫の輝きを湛えて、静かに、だが確かな存在感を放っていた。
(……まるでラファ様そのもののようだ)
本来、贈り物は己の色だけを宿すのが習わしだ。
だが、この品は違う。彼の髪と瞳の色、そして彼が得意とする氷の魔法。それらすべてを体現するかのような造形の中に、そっと寄り添う自分の色。
さらには、彼が魔法を紡ぐ際に浮かび上がる魔法陣に酷似した文様まで刻まれているのだ。
ラファシアンの色に、自分の色が寄り添うイヤーカフ────これほどまでに、彼への贈り物として相応しい品が、他にあるだろうか。
「お探しの物は見つかりましたか?」
「!」
その完成度にすっかり魅入っていたところへ、背後から不意に声をかけられた。リュシエリアーナは思わずびくりと肩を震わせる。
「あ、ああ……! い、いやっ!! 残念ながら私の望む物はないようだ……! 他の店に行ってみよう……!」
「? ……そうですか?」
慌てて店外へと促す彼女を不思議そうに見やりながらも、ラファシアンは特に疑うことなく歩き出した。
リュシエリアーナも続いて店を出ようと足を踏み出し、そして扉をくぐる直前、先ほどのイヤーカフをもう一度だけ視線で追った。
(……あとで何か口実を作って買いに来るか)
彼に悟られるわけにはいかないのだ。
できればこれは、彼に渡すその瞬間まで秘匿にしたい。
そんなリュシエリアーナの思惑など露知らず、ラファシアンは考え込むように俯いた彼女の顔を、そっと覗き込んだ。
「次はどの店に寄りますか?」
「いや、もう店に寄る必要はない」
「? 探し物は諦めるのですか?」
「! ……ああ、いや! あちこち見て回ったから少し疲れただろう? 喫茶店にでも寄って休憩しないか?」
つい本音が漏れたのを、慌てて『疲労』のせいにして取り繕う。
だがその提案に、ラファシアンは目に見えて表情を曇らせた。
「……いえ。喫茶店は────」
「? 甘いものは苦手か?」
「い、いえ……! 甘いものは好きですが…………醜い私が店に入ると、皆慌てて逃げるので。営業妨害だと訴えられたことがありまして」
「!」
「醜い私の顔を見ながらの食事など、到底耐えられないのでしょう」
自嘲気味に苦笑し、恥じ入るように視線を落とすラファシアンを、彼女はじっと見据えた。
「それは………不愉快極まりないな」
「────え?」
低く響いた声音には、隠しようのない不機嫌と、明確な怒りが滲んでいた。唖然とする彼を見返す彼女の眉間には、深い皺が刻まれている。
「人を馬鹿にするのも大概にしろと言ってやりたい気分だ。……行くぞ、ラファ様」
「! い、行くって……どこへ……!?」
おもむろに彼の手を掴み、リュシエリアーナは力強く踏み出した。その足取りは、まるで敵陣へ斬り込む武士のように、微塵の迷いもない。
狼狽して引きずられるラファシアンを振り返り、リュシエリアーナはきっぱりと言い放つ。
「無論、喫茶店だ」




