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公爵令嬢は辺境伯に愛ではなく忠誠を誓う ~元戦国剣豪(男)、美醜逆転世界で“醜い”と蔑まれる美貌の辺境伯を守る~  作者: 枢氷みをか


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シエル・ド・ミシェル

「待たせて、すまない」


 応接室の扉が開き、そう告げて姿を現したリュシエリアーナは、もはや先ほどの華やかなドレス姿ではなかった。


 街を散策するには、あの煌びやかな装いはあまりに不向きだ。動きづらい上に人目を引きすぎる。あれでは悠々と逍遥(しょうよう)するどころか、一歩進むたびに視線の檻に囚われてしまう──そう言い残し、『デート』という単語に内心をかき乱され、心中穏やかでないラファシアンを応接室に置いて、支度のため自室へ戻ったのは、ほんの十分ほど前のこと。


 再び現れた彼女は、初めて出会った時と同じ、凛とした騎士装束に身を包んでいる。


 そんな彼女の姿に、ラファシアンは一つ、名残惜しさと大きな安堵の混じった溜息をこぼした。

 彼女の麗しいドレス姿は眼福という他ないが、あまりに眩しすぎて隣にいるだけで心臓がもたない。今の彼女らしい装いの方が、自分の心臓をまだ労わってくれる。


 何より、あの美しく着飾った彼女の姿を、他の男の視線に晒すなど御免被りたい。


(……できればあの姿は、私だけの視界に留めておきたい)


 自覚した独占欲の強さに、彼は内心で苦笑する。


「ラファ様も着替えた方がいいな」

「……!」


 思案に(ふけ)っていたラファシアンは、慣れない愛称呼びをする彼女の声に、ふと我に返った。


「あ、ああ……! そ、そうですね。では、私も一度屋敷に戻って────」

「いや、それでは手間も時間もかかるだろう。兄上の服を借りるといい」

「! い、いえ……! そこまで甘えるわけには……!」

「私が付き合ってもらうのだから、遠慮する必要はない。ラファ様の方が兄上より少し背は高いが、体格にさほど違いはないようだから、十分いけるだろう」


 ラファシアンの体躯を吟味するように眺めながらそう告げた後、リュシエリアーナはわずかに残念そうに、微苦笑を浮かべた。


「……その美しい姿を解かせてしまうのは、いささか寂しい気もするがな」


 無自覚に殺し文句を吐き捨て、彼女はそのまま踵を返して扉へと向かう。

 その背を見送ることすらできず、ラファシアンは俯いて顔を手で覆った。当然、その顔は耳朶(じだ)も含めて、火を吹くように赤い。


(なぜ、ああいう事をさらりと言える……)


 彼女の直球すぎる言葉に、ラファシアンの心臓はもう疲労困憊である。

 出会ってからというもの、自分が想像以上に照れ屋である事を嫌でも思い知らされた。だが、それもこれも、彼女が歯の浮くような台詞を悪気なく口にするからに他ならない。


 彼女が裏表のない性格であると判るからこそ、その真っ直ぐな言葉は、なおさら堪らなく面映ゆいのだ。


「ラファ様、案内させるから着替えてきてくれ」


 己の言葉がラファシアンにとってどれほどの破壊力を秘めているのか、微塵も自覚のないリュシエリアーナは、部屋の外に控えていた侍女のヴェルに指示を出して、ラファシアンに声をかけた。


 戸惑いながら、わずかに躊躇うラファシアンを促すように、開かれた扉の向こうで、侍女は柔らかな微笑みと共に会釈をして、廊下の先を掌で示している。そこでようやく観念したように、どこか不安げな足取りで退出するラファシアンの背を、リュシエリアーナは苦笑と共に見送った。


(……まるで(まよ)い子のようだな)


 彼の不安げな様子をそう例えて、リュシエリアーナは同じく部屋の外で控えていた侍従のシエルに声をかけた。


「ラファ様が戻るまで、私の話し相手になってもらえるか?」

「!」


 不意の誘いに目を見開いたものの、シエルは即座に恭しく(こうべ)を垂れ、了承の意を示す。

 とはいえ、婚前の令嬢と部屋に二人きりというのは外聞が悪い。シエルは扉を開放したまま、一歩だけ室内へと足を踏み入れた。


「座ったらどうだ?」


 ソファを指して促すリュシエリアーナに、シエルはやんわりと、だが明確に断りを入れる。


「ご厚情に感謝いたしますが、私はこちらで十分です」


 彼が立ち止まったのは、入り口からすぐの場所。リュシエリアーナが腰を下ろしたソファとは、きっちりと一定の距離を保った場所だ。


(なるほど……さすがはラファ様の補佐官だな)


 試したわけではないが、その挙動がシエルの優秀さを雄弁に語っていた。

 主の婚約者と過ちを犯さず、また世間の邪推を招かぬためならば、公爵令嬢の誘いであっても安易に甘受しないのが一つの正解だろう。

 だがシエルは拒絶を選ばなかった。主の意向に等しい『リュシエリアーナの要望』を汲みつつ、同時に守るべき一線を決して踏み越えない────。


 それは己の名誉以上に、婚前の令嬢であるリュシエリアーナの『清廉』を守るための、最大限の配慮だった。


 ラファシアンに通ずるその誠実さと生真面目さに、内心で感嘆の息を漏らす。


(……良き臣下を持っているな、ラファ様は)


 リュシエリアーナは満足げに目を細めると、本題へと切り出した。


「シエルはラファ様に仕えて長いのか?」

「二十年になります。ラファシアン様とは幼少の頃から共に育ちましたので」

「では、ラファ様の好みに詳しいだろうな」

「? それなりには」


 小首を傾げるシエルに、リュシエリアーナは満足げに頷く。


「次の夜会までに互いの色を贈り合うと兄から聞いたのだが、正直何を贈るべきか判断に迷っている。知恵を貸してもらえると助かるのだが」


 着替えを終えた後、リュシエリアーナは兄のもとを訪ね、一般的な贈答品を訊ねていた。

 返ってきた答えは、『エンゲージ・プローチ』だった。


 男からは瞳や髪の色を映したドレスを、女からは自身の色の宝石を散りばめた『エンゲージ・ブローチ』を贈るのが、通例だという。目立つ位置に飾るため真っ先に視界に入り、誰が見てもすぐにそれだと判るからだ。


「だが、必ずしも型通りである必要はない」


 そう続けた兄の顔を、リュシエリアーナは見返す。


「俺は通例通りフィオーナにドレスを贈ったが、彼女からはラペルピンとカフリンクス、それとスカーフ留めのクラバットピンの一式を贈られた」

「……………義姉上は存外、独占欲が強いのだな」


 襟元、袖口、さらにはスカーフ留めにまで自分の色を主張させたのだ。どこを向いても自分の色が目に入る仕様にするという事は、余計な虫が決して纏わりつかぬように、他の令嬢を牽制したと言っていい。


 半ば呆れた妹の言葉に、兄は恥ずかしげもなく目尻を下げた。


「そうだろ? 贈られた時は、もう天にも昇る心地で舞い上がったものだ」

(…………褒めたわけではないのだが)


 声に出しても良かったが、誰もが認める愛妻家の兄に何を言っても、暖簾(のれん)に腕押しだろうか。

 参考になったような、ならないような微妙な助言に、げんなりと踵を返す妹の背に、兄はさらに助言を投げる。


「深く考えるなよ、リュシー。要は相手が喜ぶ物なら何でもいいんだからな」


 それが一番の難題なのだ、と心中で嘆息を落とし、戻ってきた経緯があった。だからこそ、リュシエリアーナは主が不在の隙を突いて、敵情視察を敢行したのである。


 その問いに、シエルはわずかに思案した後、静かに、そして淡々と告げる。


「……お困りであれば、私がご用意いたしますよ」

「────え?」


 あまりにも静かな申し出に、リュシエリアーナは思わず目を見開いた。

 次に続いた言葉は、さらに予想の斜め上をいく。


「あの『醜悪な主』に似合う品を探すなど、至難の業でしょう。ご婚約いただけただけでも御の字だというのに、それ以上のご苦労をおかけするわけにはまいりません」

「何を─────」


 胸の奥が、ざらりと軋んだ。

 腹の底から沸々と湧き上がる、煮えたぎるような感情は一体何だろうか。


「どのみち女性から物を贈られた経験など一度もございませんので、何を贈られても喜ぶでしょう。わざわざ、あの醜い主のために悩まれる必要はございません。それほどの価値がある男ではない」


 先ほどまでの礼節正しい彼と、本当に同一人物なのだろうか────そう疑いたくなるほど、シエルは平然と主を貶める言葉を重ねていく。

 その声音は冷静で、整然としている。だからこそ余計に、蔑みの響きが耳について仕方がない。


 リュシエリアーナは、己の中に確固たる怒りが存在する事を自覚した。

 感情に突き動かされるように、拳を固く握りしめる。


「あの主ならば、何を贈られようとも己の醜さなど忘れて、みっともないほど顔を赤らめる事でしょう」


 その一言に含まれたかすかな嘲りが、決定打となった。

 リュシエリアーナの堪忍袋の緒が、音を立てて断ち切れる。


「今すぐ、その言葉を撤回しろ……っ!! ラファ様は、貴様ごときが愚弄してよい相手ではない!!」


 ソファから勢いよく立ち上がると同時に、傍らに置いていた刀を抜き放つ。

 鋭い金属音が、室内の空気を裂いた。


 切っ先をシエルへと突きつける彼女の表情は、静かながらも苛烈な怒りを湛え、鋭い眼光からは隠しようのない殺気が放たれていた。

 今すぐその首を()ねたい衝動を理性で辛うじて抑え込み、震える声音で言葉を継ぐ。


「ラファ様は醜悪などではない! その心根は誰よりも優しく、清らかだ! 己を差し置いて他人のために心を痛められる者が、この世にどれほど居ると思う! 理不尽な痛罵(つうば)を浴びせられながらも、なお相手の心情を思いやれる器を持つ者が、他に居るか! ……二十年も傍に在りながら、ラファ様の高潔さに気づけぬ愚か者に、補佐官を名乗る資格などない!!」


 怒涛のごとく叩きつけた激情が、室内に重く落ちる。

 刃を突きつけられたシエルは微動だにせず、彼女の激しい視線を正面から受け止めていた。


 二人の間に、張り詰めた沈黙が流れたのは、ほんの一瞬。

 やがて、シエルはおもむろに、その顔を和ませた。


「……ええ、私も全く同感です」

「!」


 心底嬉しそうに目を細めたシエルの表情に、リュシエリアーナは一気に毒気を抜かれた。

 呆然と立ち尽くす彼女へ、シエルは申し訳なさそうな、それでいて満足げな笑みを浮かべ、恭しく(こうべ)を垂れる。


「……試すような真似をいたしましたこと、深くお詫び申し上げます。いかようにも罰していただいて構いません。ですが……どうしても、確かめておかねばならなかったのです。公女殿下が心から、ラファシアン様を受け入れてくださっているのかを」

「!」

「我が主は幼い頃より『醜い』と蔑まれ続け、そのお心には深い諦観が刻まれておいででした」


 彼の実父である先代辺境伯も髪色は薄かったが、夫人に恵まれ、睦まじい夫婦仲だった。その両親の姿を瞳に宿すたび、ラファシアンの胸には微笑ましさと同時に、深い寂寞(せきりょう)が広がっていたという。

 ────自分には決して、あのような伴侶は現れないだろう、と。


「……先ほど公女殿下が仰せの通り、ラファシアン様のお心は清らかで美しいはずです。それは長く傍に仕えた私が、誰よりも理解しております。ですが、その本質を理解してくださるご令嬢は、ついぞ現れませんでした。皆、外見の醜さにばかり目を奪われ、肝心の器を見ようともなさらない。そんな時に、貴女が現れたのです」


 そう言って、沈んだ顔から一転、歓喜に輝く瞳を彼女に向ける。


「先ほどの公女殿下のお言葉に、私は確信いたしました。公女殿下は主の外見に惑わされることなく、お心を見てくださっているのだと……!」


(………………すまぬ。私は、その『美しい外見』にこそ真っ先に惹かれた口だ)


 あまりに純粋な賞賛に気まずさを覚え、リュシエリアーナはそっと視線を逸らした。

 今では彼の清廉な心根も好ましく思っているが、発端は間違いなくあの麗しい容貌だ。そんな下心があるだけに、シエルの(まばゆ)いばかりの眼差しが、今はいたたまれない。


「先ほどの非礼はお詫びいたします。どのような罰でも甘んじて受けましょう。ですがどうか……我が主を、末永くよろしくお願いいたします」


 その声音に滲むのは、忠義というより、祈りに近い切実さだった。

 リュシエリアーナは、しばし無言で彼を見つめ、やがて突きつけていた刀を静かに鞘へと収める。

 かすかな金属音が、ようやく緊張の終わりを告げた。


「顔を上げてくれ、シエル。ラファ様をこれほどまでに想う忠臣を、私が罰せられるはずもない」

「! では─────」

「シエル? どうした、何かあったのか?」


 その声に、二人は同時に振り返った。

 着替えを終え戻ってきたラファシアンが、室内に漂う妙な空気を察したのだろう。わずかに眉を寄せ、不思議そうにこちらを見ている。


 思いのほか早い帰還に、リュシエリアーナは小さく肩をすくめてみせた。


「……どうやら、時間切れらしい」


 主の好みを聞き出す『敵情視察』が未完に終わったことを察し、シエルは申し訳なさそうに、控えめに苦笑する。


「……? 何かあったのですか?」

「いや、こちらの話だ。それよりも────」


 小首を傾げるラファシアンに、リュシエリアーナはくすりと笑みをこぼし、ゆっくりと歩み寄る。


 彼の服装は、兄の持ち物の中でも比較的控えめなものを選ばせた。それでも、彼が普段纏っている実用本位で味気ない装いに比べれば、幾分か華やいで見える。それを覆い隠すべく、自分と揃いのフード付きの外套を用意させたのは、他でもない彼女自身だ。


 フードを背に流したままの彼の、目と鼻の先で、リュシエリアーナは足を止める、見上げる自分を戸惑い混じりに見下ろすラファシアンの白銀の髪へ、彼女は何気なく手を伸ばした。


「髪を下ろしてしまったのだな」

「!?」


 指先が、さらりと糸のような銀を掬う。

 その躊躇(ちゅうちょ)なく白銀の糸に触れる彼女の仕草に、ラファシアンのみならず、背後で見守るシエルまでもが驚きに目を見開いた。


「そ、その……! 普段は下ろしているので、どうにも落ち着かず……」

「そうか。私も下ろしている方がラファ様らしくて好きだが、そのままだとフードの隙間から髪が覗いてしまうだろう?」

「!」


 その言葉に、頬を染めていたラファシアンの表情が大きく強張る。


「そ、それは………私の、この薄い髪色を……人目に晒したくはない、ということでしょうか……?」


 自嘲を滲ませた問いかけだった。長く刷り込まれてきた劣等の意識が、無意識のうちに顔を出す。

 だが、リュシエリアーナは間髪入れずに首を振った。


「勘違いしないでくれ。私はラファ様の、白銀に輝くこの美しい髪が好きだ。湖面に跳ねる陽光のようで、ラファ様の心と同じく温かみがある。この静謐(せいひつ)な輝きこそが、ラファ様の美しさを極限にまで──────」

「も、もう十分です……! 理解いたしましたから……!」


 際限なく紡がれそうな賛辞に、ラファシアンは慌てて声を上げた。これ以上続けられては、正直に言って身がもたない。


 湯気が立ちそうなほど顔を赤らめる彼を(たの)しげに眺め、リュシエリアーナは微笑みを浮かべた。


「……ラファ様の、髪色を隠さず堂々と振舞う心意気は好ましいが、今日は我慢してもらえるか? 少し、試したい事がある」

「? 試したい事……ですか?」

「私の知識欲を満たすための些細な試みだ。あまり気にしないでくれ」


 そう言いながら、彼女は迷いなく手を伸ばし、ラファシアンの頭へフードを被せる。白銀の髪が内側へと収まりきらず、やわらかく縁にかかる。それを整えるため、リュシエリアーナはつま先立ちになって彼の前髪に手を伸ばした。


「! そ、それは私が自分で──────」

「いいから。……それにしても、ラファ様は本当に背が高いな。少しかがんでもらえるか?」

「────……」


 火照った顔でわずかに躊躇った後、ラファシアンは観念したように腰を落とし、前かがみになった。

 次の瞬間、互いの距離が一気に縮まる。

 これまで無意識に保っていた間合いが消え、視界いっぱいに彼女の顔が映った。長い睫毛の影、淡く色づいた唇、真剣に髪を整える指先の感触。すべてが、逃げ場なく目前にある。


(……………近い)


 それも、彼女の吐息が己の頬を掠めるほどの距離だ。

 これだけ近いと、早鐘のように打つ心臓の音が、彼女の耳にまで届いてしまうのではないかと気が気ではない。


 そんな翻弄される内心など露知らず、ただ無心に銀髪をフードの内側へ収めている彼女を、ラファシアンは恐る恐る視界の端に捉えた。


(………私の傍に寄れるだけではなく、こうして触れることさえ(いと)わないのか)


 『世界で最も醜悪な貴族』────そう蔑まれる自分に歩み寄ってくれるだけでも奇跡に近い。

 少なくとも他の令嬢は、同じ空気を吸っているだけでも悪寒が走ると、あからさまに嫌悪を露わにした。まるで汚泥でも見るような彼女たちの冷ややかな瞳を見る限り、もし誤って肌が触れようものなら、悲鳴の一つでも上がったに違いないと、想像するまでもなく理解している。


 そんな醜悪な自分に、彼女は何の躊躇いもなく当然のことのように触れている。それも嫌々ではない。指先には柔らかな温もりがあり、どこか楽しげで、慈しむように髪を整えてくれているのだ。


(………有り難い。……本当に)


 胸の奥に、じわりと熱が広がる。それは誇張でも自己暗示でもなく、確かに存在する幸福だった。奇跡のような慈愛に、彼は心の内で深く、静かに感謝を捧げる。

 やがて整え終えたらしいリュシエリアーナが、満足げに声を弾ませた。


「できた……! これでもう、髪は見えないだろう」

「あ……ありがとうございます」


 礼を述べながらも、視線は定まらない。深く被ったフードが顔を隠しているとはいえ、おそらく耳朶(じだ)まで朱に染まっていることだろう。

 そんな彼を見上げ、リュシエリアーナは小さく笑う。その無邪気な微笑みに促されるようにして、二人はようやく屋敷の外へと足を踏み出した。


**


「では、私は一足先に馬車で屋敷へ戻っております」

「ああ、頼む。シエル」


 マレグレン邸の門前に控えていた馬車の前で、シエルは深々と(こうべ)を垂れた。フードを深く被り、並んで街路へと歩み出す二人の背を、静かに見送る。

 その後ろ姿を、シエルはどこか感慨深げに眺めていた。


(……まさか、ラファシアン様に躊躇いもなく触れられるご令嬢が現れるとは)


 脳裏に焼きついて離れないのは、先ほどの光景だ。近づき、手を伸ばし、何のわだかまりもなく主に触れていたあの姿。


 リュシエリアーナが主の心根を尊んでいることは、もはや疑いようがない。だが、精神の高潔さを愛でることと、世に言う『醜悪な姿』への忌避を乗り越えることは、本来まったく別の次元の話である。

 この嫌悪感は、いわば生存本能に刻まれた『生理的拒絶』に近い。どれほど理性が「差別は良くない」と説いたところで、脳が、体が、勝手に拒絶反応を示してしまうのだ。それは個人の意志で制御できる範疇を超えている。


 だというのに、彼女は迷いなく主に触れた。


(……公女殿下には本当に、ラファシアン様が『美しく』見えているという事か)


 彼女が主へ注ぐ言葉は、社交辞令でも同情でもない。すべてが魂の底から紡がれた、嘘偽りのない真実なのだ。


 その事実に、シエルはようやく深く胸を撫で下ろした。

 小さくなっていく二人の背に送った安堵の溜息には、彼が二十年もの間、主のために抱え続けてきた絶望と杞憂が、ようやく溶け始めた気配が滲んでいた。

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