誓約の初会
「お招きいただき、ありがとうございます」
ラファシアン=フォルスタート辺境伯が、補佐官のシエルを伴いマレグレン邸を訪れたのは、先触れ通り午刻を過ぎた頃だった。
先日の婚談の儀と同じく髪を上げ、正装に身を包んだその姿は、凛とした気品を纏いながらもどこか静謐で、目を引く美しさを湛えている。その麗しい姿のまま、淀みのない端正な所作で頭を垂れるラファシアンを、まず出迎えたのは兄フォルドエルだった。
「ようこそおいでくださいました、フォルスタート辺境伯。私はリュシエリアーナの兄、フォルドエル=マレグレンと申します」
フォルドエルは不快な色を微塵も見せることなく、むしろ好ましい客人を迎えるような朗らかな声を上げた。そのまま歩み寄り、親愛を示すように手を差し出す。
予想外の歓待ぶりに、ラファシアンは一瞬戸惑いの表情を浮かべたが、すぐに応えるように手を伸ばした。
「歓迎のお言葉、光栄に存じます、小公爵閣下」
「閣下などと堅苦しい敬称は不要ですよ、辺境伯。いずれは家族になるのですから」
「……! そ、それは……!」
思わぬ言葉に、ラファシアンは耳朶まで朱に染め、言葉を詰まらせる。
そんな彼の様子に、フォルドエルは意外そうに目を瞬かせた。
(……ここで顔を赤らめるのか。何とも、かわいらしい事だ)
この世界の価値観では『醜い』とされる銀髪ですら、陽光を浴びて神々しく輝いている。その圧倒的な美貌を持ちながら、些細な一言で湯気が立ちそうなほど真っ赤になる、その純粋さに、フォルドエルは相手が四つ年上であることを忘れそうになった。
(……噂とは、随分と印象が違うようだ)
フォルドエルは改めて、目前の壮麗な男を視界に入れる。
彼には『世界で最も醜悪な貴族』という事実無根の不名誉な烙印のほかに、社交界ではもう一つの噂が囁かれていた。
─────『決して笑うことのない、冷徹無比な氷の辺境伯』。
彼が得意とする氷魔法の性質と、辺境の地を幾度も魔獣や侵略者から守り抜いた功績から付いた二つ名だが、それ以上に、彼が笑うところを誰も見たことがないという事実が大きい。
稀に社交界に姿を見せても、その表情は常に硬く、言葉数は極端に少ない。令嬢たちから「醜い上に愛想もない」と、陰で心無い言葉を投げられていたことを、フォルドエルも耳にした覚えがある。
そんな彼がこれほど容易く狼狽え、顔を赤らめる姿を目の当たりにして、胸の奥に妙な高揚感が広がるのを自覚した。その感情に背を押されるように、彼はさらに言葉を重ねる。
「いや、それにしても……今日はいつにも増してお美しいですね」
「─────え?」
「幾度か教会でお姿を拝見し、麗しい御仁だとは思っておりましたが……正装に身を包まれると、なおさら神々しい」
「え……!?」
「あの妹が貴方を気に入るわけだ。リュシーは貴方の美しさを『猊下以上だ』と豪語しておりましたが……なるほど、得心がいきました」
あまりの直球な称賛に、ラファシアンは完全に言葉を失った。
これがただの揶揄いか、あるいは表面を取り繕うだけの世辞ならば、どうにか受け流せたかもしれない。だが、フォルドエルの瞳には一切の虚飾がない。それが理解できるからこそ、返す言葉が見つからないのだ。
それは、彼の妹であるリュシエリアーナとまったく同じ眼差しを、この兄も自分に向けていると悟ってしまったからだろう。
ラファシアンは答える代わりに、火が出そうなほど赤くなった顔を伏せた。
こうなることを半ば確信した上で正直な感想を述べたフォルドエルだったが、想定以上に恥じらい、面映ゆそうに視線を落とすその姿に、思わず愉悦に近い感情が湧き上がる。
(……これは、癖になりそうだ)
そんな不届きな思考を、背後で見守っていた父が咳払い一つで断ち切った。
「フォルドエル。家長である私を差し置いて、先に挨拶をするのではない」
「ああ、申し訳ございません、父上。つい、彼の美しさに惹き寄せられてしまいました」
またしても赤面を誘う言葉を重ねる息子に、両親は揃ってげんなりとした溜息を落とした。
「……愚息が失礼をして申し訳ない、辺境伯」
「い、いえ……! 私の方こそ、非礼をお詫びいたします。……このような賛辞をいただく機会など滅多にございませんので、どのように返せばよいのか、つい戸惑ってしまい……」
赤らめた頬を隠すように口元を覆い、ラファシアンはたどたどしくも素直な心情を吐露する。その姿に、今度は公爵夫妻が目を丸くした。
(あらあら、まあ……! なんて初々しくて、可愛らしい方かしら)
(稀代の魔力を有すると聞いたが、殊勝で慎み深い、なかなかの好青年ではないか)
この世界の美醜観に照らせば、彼は確かに『醜い』部類に入る。
だが、目の前の青年が纏う清廉な空気は、決して蔑まれるべきものではない。むしろ、その謙虚な佇まいに、夫妻は自然と好感を抱いた。
二人は静かに視線を交わし、慈しむような笑みを湛える。
「ようこそおいでくださいました、フォルスタート辺境伯」
「改めて、心より歓迎いたします」
その温かな響きに、ラファシアンはやはり小さく戸惑いを滲ませた。
────冷ややかな視線で迎えられるのだろう。
そう覚悟して、この邸に足を踏み入れたのだ。
これまでに重ねた婚談は、実に十七回。
相手方の屋敷では、扉をくぐる前から凍てつく拒絶が待っていた。開かれた瞬間に突き刺さる、露骨な嫌悪の眼差し。それは令嬢本人のみならず、家族、果ては使用人の末端に至るまで、だ。
彼はその刃のような視線を、いつも静かに受け入れてきた。『醜悪な自分』を家族に迎えねばならない彼らの苦悩と屈辱を思えば、それは当然の報いなのだと、そう自らに言い聞かせ心を殺してきたのだ。
なのに、この邸に流れる穏やかな空気はどうだろうか。
それはまるで、自分をありのまま受け入れてくれたリュシエリアーナが纏う、凛として清々しい気配そのものだった。
(……私はまた、知らず知らずのうちに臆病な偏見を抱いていたのか)
わずかに自嘲めいた微笑を零し、ラファシアンは自分を『一人の人間』として迎え入れてくれたマレグレン家の人々に、これ以上ないほど丁寧な所作で頭を垂れた。
「こちらこそ……身に余るご厚情を賜り、感謝の言葉もございません」
その真摯な言葉を、公爵夫人は柔和な微笑みで受け止め、優しく声を掛ける。
「さあ、お顔をお上げになって。そろそろリュシエリアーナも、支度を終えてこちらへ来る頃でしょう」
「……それにしても、ずいぶんと遅いな、リュシエリアーナは」
「まあ、あなた。淑女の支度には時間がかかるものですよ。それに、大切なお客様がお見えになるとあって、ヴェルも随分と張り切っておりましたもの」
夫人が朗らかに夫を窘めた、その直後だった。
「辺境伯!」
高らかに名を呼ぶ声が、玄関広間に澄んで響き渡った。
吹き抜けの二階から、ドレスの裾をふわりと捌き、軽やかな足取りで階段を下りてくるリュシエリアーナの姿が、鮮やかに視界へ飛び込んでくる。
その神々しいまでの美しさに、ラファシアンは思わず息を呑んだ。
先日の婚談の儀で見せた清楚な純白の装いとは打って変わり、今日の彼女は淡い桃色のドレスを纏っている。凛とした佇まいに柔らかな彩りが重なり、驚くほど愛らしい情趣を添えていた。
夜の闇を溶かし込んだような漆黒の長髪は、後ろで緩やかにまとめ上げられ、左右の耳元から零れた一束が胸元を縁取っている。一段、また一段と踏みしめるたび、重なり合うレースの波と黒髪の房が同時に揺らめき、その艶やかさに目を逸らすことが難しい。
衣擦れの音が静かな広間に心地よく響く間、ラファシアンは釘付けになったように、ただ彼女の姿を追い続けていた。
(ほう……?)
何かを得心したように、短く息を吐いたのは兄のフォルドエルだ。
妹を見るラファシアンの熱を帯びたような眼差し──そこに宿る情熱の正体を瞬時に悟ったのは、自身が最愛の妻フィオーナに向けるものと、あまりにもよく似ていたからだろう。
そんな察しのいい兄とは対照的に、ラファシアンの熱い視線にさえ無頓着な『鈍感な妹』は、約束通り彼から一歩引いた位置で歩みを止めた。
「すまない、待たせてしまったか?」
わずかに弾んだ声と共に、ふわりと甘い香りを纏って現れた彼女。その輝くような笑顔に射すくめられ、ラファシアンは弾かれたように赤らめた顔を背けた。
「い……いえ! 私も、今しがた到着したところですので……!」
かろうじて言葉を絞り出したものの、ラファシアンの心中はもはや穏やかではない。
(…………まずい。彼女を正視できない)
鼓動が耳にうるさいほどに波打って、顔は熱を帯びたように火照っている。おそらく見苦しいほどに顔を赤らめている事が判るから、なおさら彼女の顔を見る事が難しくなった。
────知られてはいけないのだ。
自分の中に、彼女への恋心が、もはや疑いようもなく存在していることを。
(知られてしまえば、きっと彼女は契約婚の終わりを告げるはず……)
それだけは、断じて受け入れられない。
そんなラファシアンの葛藤など露知らず、リュシエリアーナは様子のおかしい彼の横顔に、わずかに眉根を寄せた。
女に耐性のないラファシアンの懇願通り、彼との間に一歩分の距離を置いている。よもや彼が目を逸らす原因が、美しく着飾った自分にあるなどと微塵も思っていないリュシエリアーナは、細めた目を鋭く兄へと流した。
「………兄上、もしや辺境伯に何か余計なことを吹き込まれたのか?」
「なぜ、何の迷いもなく俺だと決めてかかる?」
「この中で、無用な一言を口にされそうなのは、兄上しかおられぬだろう」
「……お前は実の兄を何だと思っているんだ」
半分当たりではあるが、最大の原因が妹自身にあると分かっているだけに、冤罪を着せられている感は拭えない。
理不尽極まりない、と渋面を取る兄を軽く一瞥した後、リュシエリアーナはラファシアンの背後に控える男に目を留めた。
「そちらは?」
「あ、ああ……! 私の補佐官を務めてくれている、侍従のシエルです」
ようやく呼吸を整えたラファシアンが答える。
主とマレグレン家のやり取りを微笑ましく眺めていたシエルは、唐突に矛先を向けられ、慌てて居住まいを正した。
「ご挨拶が遅れ、失礼いたしました。侍従のシエル=ド=ミシェルと申します。以後、お見知りおきを」
そう述べ、恭しく頭を垂れるシエルに、リュシエリアーナは気取らぬ笑みを返す。
「ああ。こちらこそ、よろしく頼む」
絶世の美女から凛とした潔い微笑を受け、シエルは跳ね上がった鼓動を必死に抑えた。視線を泳がせながら、どこかバツが悪そうに再度深く頭を下げる。
若者たちのそんな心の機微を、瞬時に察したのは母だけだった。
彼女は可笑しそうに目を細め、場を収めるように鈴を転がすような声で促す。
「さあ、いつまでも立ち話ではフォルスタート辺境伯に失礼だわ。応接室へまいりましょう」
**
「ご両親は、十日後の婚約発表には出席なさらないのだろうか?」
父が紅茶を手に取りながら問いかけたのは、侍女たちが給仕を終えて退出した直後だった。勧めるように掌で促され、ラファシアンも小さく会釈を返してカップを手に取る。
「いえ、待ちわびた婚約発表ですから。おそらく、何をおいても駆けつけるでしょう」
「だが……辺境伯領から王都までは、馬を飛ばしてもひと月の道程だろう。間に合わないのではないのか? 良ければ時期を後ろにずらしても、こちらは一向に構わんが」
「お心遣い、痛み入ります。ですが、その点につきましては、猊下より『転移の門』の使用をお許しいただいておりますので、ご心配には及びません」
その返答に、場にいた全員が等しく目を瞠った。
『転移の門』――それは教会の奥深くに鎮座する、唯一無二の古代魔道具だ。
あらゆる場所へと通じ、どれほどの距離を隔てようとも一瞬で移動することを可能にする、奇跡の門。
だが、その起動には教皇自身の膨大な魔力を要するため、使用が許されるのは国難に際した時か、あるいは教皇のごく限られた知己に限られる。
国宝にも等しいその門が開かれるという事実は、この婚談が教皇にとっていかに重きを置かれた案件であるかを、何より雄弁に物語っていた。
その厳かな事実に感嘆の吐息を漏らしつつ、公爵は安堵したようにゆっくりと頷いた。
「……そうか、ならば心配は無用であったな。ご両親が到着された折には、ぜひ改めてご挨拶をさせていただきたい」
「ありがとうございます。両親も喜ぶでしょう。必ず申し伝えます」
ふむ、と満足そうに紅茶をすする父の様子を見届けてから、ラファシアンの隣に座るリュシエリアーナが、静かに言葉を挟んだ。
「辺境伯のご両親は、どのような方だ?」
問われ、ラファシアンは少しだけ考える素振りを見せてから、穏やかに語り出す。
「そうですね……父は、至って温厚な人ですよ。道理をよく弁え、慈悲をもって領地を治める。誰よりも深く人の痛みを理解する事の出来る、優しい心の持ち主です。私は今まで、一度たりとも父が怒った姿を見た事がありません」
そこまで聞いて、リュシエリアーナは思わずくすりと喉を鳴らした。
「辺境伯は、お父上に似たのだな」
「そ、そうでしょうか……?」
困惑気味に首を傾げるラファシアンに、リュシエリアーナは深く得心したように頷く。
「では、母上殿はどのような方だ?」
「母は父とは対照的で、いささか豪快な女性です。正義感が強く、武道の心得もありますので、芯が非常に強い。『優しさだけでは領地は守れない』というのが母の口癖でして……父が二の足を踏むような場面でも、母が背を叩いて決断を促すことが多々ありました」
笑みを含ませながら、ラファシアンは続ける。
「父はいつも母に圧倒されておりましたが、『これほど頼もしい妻を娶れて幸せだ』と、ことあるごとに申しております」
「それは……! 私と気が合いそうだな……!」
母の人物像を聞き終えた瞬間、リュシエリアーナは思わず瞳を爛爛と輝かせる。
喜びを隠しもしない彼女とは対照的に、両親と兄はそろって苦笑を浮かべ、わずかに視線を逸らした。
(((道理でリュシーを好意的に受け入れたわけだ……)))
家族が内心で声を揃えたのは、ラファシアンがリュシエリアーナの素顔を知ってなお、興ざめする事も幻滅する事もなく、むしろ惹かれている理由にようやく合点がいったからだろうか。
淑女を演じることには随分と慣れてきてはいたが、それでも一生を偽ったまま過ごすことになる娘を、父は密かに不憫に思っていた。
だからだろう。素のままのリュシエリアーナを、何の躊躇いもなく受け入れてくれた辺境伯に対し、感謝にも似た温かな感情が、胸の奥にじわりと広がる。
「……御覧の通り、娘は勝ち気なうえに勇ましくてね」
静かに口火を切り、父は手にしていたカップを卓へと置いた。
「世間では『絶世の美女』などともて囃されてはいるが、なまじ剣の腕が立つだけに、親の私たちでさえ手に負えぬ男勝りな娘に育った。嫁いだ先で上手く立ち回れるものかと……正直なところ、心配していたのだが」
「いえ。決して、そのような事はございません」
憂いを滲ませた公爵の言葉を、ラファシアンは即座に、しかし静かな力を込めて否定する。
「ご息女は、峻厳な芯の強さと、他者を慈しむ柔らかな心を併せ持つ女性です。私は彼女の言葉に、幾度となく救われてきました」
「……!」
「ご息女の心がこれほど温かいのは、公爵ご夫妻が注がれた慈愛を、真っ直ぐに受け継がれているからでしょう」
穏やかだが、確かな熱を宿した声音でそう告げると、ラファシアンは隣に座るリュシエリアーナに柔らかな視線を向けた。
その慈しむような瞳で愛娘を見つめる辺境伯に、父は一瞬、言葉を失ったように目を見開き、やがて安堵と、わずかな寂寞とが混じり合った吐息を漏らす。
「……最後に、一つだけ問いたい」
「……はい。何なりと」
ラファシアンは自然と居住まいを正し、背中を伸ばした。
一拍の沈黙を置いてから、公爵は射抜くような鋭い眼差しと共に、重みのある声で告げる。
「娘を、幸せにする覚悟はあるか」
「!」
「何があろうとも、娘を泣かせるような真似はしないと誓えるか」
厳格な声ではっきりと問うたそれに、ラファシアンは一瞬の迷いもなく応じた。
「ご息女は、私が必ず幸せにいたします」
「……」
「たとえ誰であろうと、彼女から笑顔を奪うことは、断じて許しません」
凛とした瞳で父を真っ直ぐに見返すその揺るぎない姿に、リュシエリアーナは思わず息を呑んだ。
そこには、いつもの自信なげな『美しい青年』はいない。
堂々と胸を張り、一言一句に命を懸けるかのような確かな口調で断言する男がいる。
その表情に深く滲む、確固たる決意と覚悟。
(……凛々しい)
『美しい』でも、『綺麗』でもない。
初めて彼に向けて抱いたその感情に、リュシエリアーナは己の胸が騒ぐのを禁じ得なかった。
呆気に取られたようにラファシアンを見つめる娘をよそに、公爵夫妻はその誠意に満ちた断言を受け止め、互いに視線を交わして、表情をふわりと綻ばせる。
そうして、家長として、親として、深々と頭を垂れた。
「ふつつかな娘ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
その公爵夫妻の言葉に応えるように、ラファシアンもまた、深く頭を下げる。
静謐な空間を包むその余韻を、兄の朗らかな声が風を吹き込むように破った。
「さあ! 堅苦しい話はここまでです。あとは若い二人に任せましょう!」
「……お前というやつは。せっかくの雰囲気が台無しではないか」
「固いことは言いっこなしですよ、父上」
そもそもその台詞は若造が口にするものではない、と呆れ果てた父の渋面を軽く一蹴し、兄はいそいそと両親を部屋の外へ促す。半ば強引に両親を追い出し、自身もまた引き下がろうとしたその直前、フォルドエルはふと思い出したように妹を振り返った。
「ああ、そうだ。その『辺境伯』という色気のない呼び方は改めておけよ、リュシー」
それだけを言い残し、兄は両親を引き連れ、嵐のように去っていく。
残された二人は、唖然としたまま、ぴたりと閉ざされた扉を見つめていた。
張り詰めていた空気が糸を断たれたように弛緩し、部屋に静けさが戻る。
しばし呆けていたリュシエリアーナは、やがて深く、呆れ混じりの溜息を落とした。
「……まったく。兄上は相変わらず、緊張感というものがない」
独りごちてから、隣に座るラファシアンを振り返った。
「騒々しくて、すまなかったな」
「……! い、いえ。そのようなことは……」
慌てて首を振り、ラファシアンは穏やかな微笑みを向ける。
「……とても、温かいご家族ですね」
その眼差しに、リュシエリアーナもくすりと喉を鳴らした。
「そうだろう? 私の自慢の家族だ」
顔を見合わせ、しばらく笑みを交わした後、リュシエリアーナは空になったラファシアンのカップに紅茶を注ぎながら、柔らかな声音で続けた。
「……感謝する、辺境伯」
「? 礼をいただくようなことは何も……」
「先ほど断言してくれただろう? 私を幸せにすると」
「……っ!」
不意を突かれ、ラファシアンの顔が火に翳したかのように一気に赤く染まる。
まさか改めて言及されるとは思ってもみなかった。思い返せば、あれは真に添い遂げる男が口にするべき誓いの言葉だ。
だが、これはあくまで『契約婚』。本当に契りを交わすわけではない。
それなのに、あんなにも深く『妻を娶る覚悟』を宿した言葉を吐いてしまったのだと思うと、面映ゆくて堪らない。
ラファシアンは、耳朶まで朱に染まった顔を隠すように口元を手で覆い、必死に弁明を探す。
「あ、あれは……! その、場を収めるための……!」
「判っている。私のために演じてくれたのだろう?」
「え……っ!?」
「そうだとしても、素直に嬉しかった」
「─────……!」
頬に赤みを残したまま弾かれるように顔を上げれば、面映ゆさと喜びがないまぜになったような微かな微笑みを浮かべて俯く彼女がいた。普段の凛々しさが影を潜め、一瞬だけ零れ落ちた『女の顔』──そのあまりの愛らしさに、ラファシアンは息をすることさえ忘れ、ただ目を奪われた。
「不覚にも……本当に嫁ぐような心持ちになった」
「……」
「嫁に行くというのは、これほどまでに幸福な心地を運んでくれるものなのだな。一生、私には縁のない感情だと思っていた」
ほんの一拍、言葉を選ぶように間を置いてから、彼女は小さく息を吐く。
「……一度でも、それを経験させてくれたことに感謝する、辺境伯」
脳裏に浮かぶのは、かつて政略結婚で嫁いでいった姉の後ろ姿。
(……姉上もあの日、このような幸せを胸に抱いて、旅立ったのだろうか)
だとしたら、たとえ家門のための婚儀であっても、少しは報われただろうか。
憂いが晴れたように、仄かな微笑を浮かべる彼女の横顔がなおさら愛おしく思えて、ラファシアンは途端にその姿を正視し続けることが難しくなった。
火照った顔を慌てて背け、口元を掌で覆う。
演じたわけではないが……と、心中で彼女の言葉を否定しながらも、それをそのまま口にする勇気も、代わりの洒落た言い回しも見当たらない。熱を帯びた思考は千々に乱れ、言葉を紡ぐことさえままならなかった。
口を開いては閉じる不格好な沈黙を数度繰り返し、やがてラファシアンは、絞り出すように声を漏らす。
「…………………恐縮です」
無自覚に『女の顔』を覗かせていたことなど露知らず、リュシエリアーナは彼の精一杯の返答に、たまらず失笑を漏らした。余裕のない彼なりの、精一杯の『誠実』なのだと判るからこそ、なおさら微笑ましい。
耳朶まで赤く染め、未だ顔を背けたままのラファシアンを、リュシエリアーナは改めて視界に収める。
『契約婚』を持ち出したのは、他ならぬ自分だ。互いに利があると説いたが、実際には明らかに自分が得るものの方が大きい。
それでも彼は契約婚に同意してくれただけではなく、あまりにも紳士的に、婚約者としての役割を果たそうとしてくれている。
その献身が有難く、同時に申し訳ない。
(……せめて、彼に相応の恩返しがしたい)
夜会までに贈り物が必要だというのなら、彼が心から喜ぶ品を贈りたい。
問題は────何を贈るか、だ。
迷った時は、己に置き換えて考えるのが兵法の常道。
(私であれば……やはり『刀』、か?)
それも名工が鍛え上げた業物でも贈られれば、小躍りせんばかりに喜ぶだろう。
とはいえ、彼の真骨頂は強大な魔力に由来する魔法だ。腰に剣を差してはいるものの、おそらくあれは魔法の間合いを詰められた際の護身用に過ぎない。武人に贈るような銘刀は、彼の領分ではないだろう。
(そもそも王宮で催される夜会や舞踏会に、獲物の携帯は許されていないからな……)
互いの色を身に纏うという儀礼から考えても、武器の類は問答無用で却下だ。
護身用の短刀も、同じ理由で除外。
武具など問題外。
兵法書─────貰ってどうする。
結論。
(…………私を基準にするのは、大きな間違いだな)
自嘲めいた嘆息を深く落としたところで、リュシエリアーナの耳に控えめな呼び声が届いた。
「……公女殿下? その……何かご不快な事でも……?」
視界に入ったラファシアンは、これ以上ないほど不安げな瞳を向けている。二人きりの沈黙の中で、険しい表情のまま思案に耽っていた彼女の姿を、自分への不快の表れだと誤解したのだろう。
我に返り、リュシエリアーナは慌てて首を振った。
「ああ、いや……! そうではない、辺境は─────」
そこまで言いかけて、先ほど兄が残した言葉が、鮮烈に脳裏を過った。
─────『その『辺境伯』という色気のない呼び方は改めておけよ、リュシー』
唐突に口を閉ざした彼女を、ラファシアンはなおも訝しげに見つめている。
「公女殿下?」
その彼が口にする、あまりに余所余所しい敬称。
「……確かに、兄上の言われる事も一理あるな」
「?」
「婚約者同士でいつまでも『辺境伯』や『公女殿下』では、いかにも他人行儀だろう」
「え……!?」
「もっと親しい呼び名の方が、婚約者らしくていい」
例えば─────。
「ラファ様、と呼ぶのはどうだろう?」
「!」
唐突な愛称呼びの直撃を受け、ラファシアンの中でようやく鎮火しかけていた含羞が再燃した。
耳朶に響くその甘い響きは、至福そのものだ。
だが、これでは正直、心臓が持ちそうにない。
湯気が立ちそうなほど顔を赤らめ、再び視線を彷徨わせながら、ラファシアンはしどろもどろに声を絞り出した。
「そ、そこは……その…………『ラファシアン』、でいいのでは……?」
実に勿体ないが、自分の心臓を労わるのであれば、これが一番身の丈に合っているだろう。
そんな彼の切実な防衛本能など、リュシエリアーナはどこ吹く風で、あっさりと一蹴する。
「私は長い名を呼ぶのが苦手だからな。できれば我慢してほしい」
何せ、かつて生きた日ノ本では、短い名が当たり前だった。
それに比べ、この地の名は無駄に長く、舌を噛みそうなほどにややこしい。己の名を名乗るのさえ一苦労だというのに、今後幾度となく口にするであろう相手の名を、いちいち滞りなく告げる自信はない。
「私のことは、普通に『リュシー』と呼んでくれれば─────」
「『リュシエリアーナ嬢』でお願いします……!」
断じて、普通ではない。
いきなりの愛称呼びなど、今の自分にはあまりにも、あまりにも難易度が高すぎる。
彼女の言葉を遮り、切実なまでに懇願するラファシアンの様子に、リュシエリアーナは軽く目を瞬かせた。彼が今どのような心境に追い込まれているのか、即座に察しがついて愉悦に近い笑いが込み上げたが、何とか喉を鳴らす程度に留める。
女に耐性のない彼をこれ以上苛めてしまっては、さすがに酷というものだ。
苦笑と共に承諾しながら、リュシエリアーナは先ほどから棚上げにしていた『贈り物』の難問を思い出す。
『身に着ける物』を吟味するのであれば、それを纏う本人を伴って探すのが最善だ。
できれば、意図を悟られぬよう、自然な形で偵察を行うのが望ましい。
ふむ、と内心で頷き、リュシエリアーナは次なる一手へと駒を進める準備を整える。
「……早速だが、ラファ様。この後、時間は空いているか?」
「……! え、ええ……! 特に急ぎの用はありませんが……」
不慣れな呼び名に、その都度頬を赤く染めながら四苦八苦するラファシアンを真っ直ぐに見据え、リュシエリアーナは一点の曇りもない満面の笑みを向けた。
「ならば、私とデートとやらをせぬか?」
その一言が、ラファシアンの顔面を爆発せんばかりに赤らめさせ、心臓をかつてないほど激しく跳ね上がらせたことは、言うまでもない。




