タイトル未定2025/09/28 00:50
愛、その言葉の意味が、ずっとわからなかった。
今も、まだ。
「佐々木さんって、かわいいですよね」
「そう?」
灰色のカーペットの敷かれた狭い廊下を、後輩の倉木とともに歩く。ちらり、ちらりと遠慮がちにばれないようにと向けてくる視線がわかりやすすぎて笑ってしまいそうになる。私の斜め上で頬を熱らせながらそう言う彼を、遠くの存在のように見ていた。
彼は勤める部署が違うものの、他部署への頼み事や連絡のたびに彼を経由していたらいつのまにか偶然すれ違ったら軽く話をする程度の仲になっていた。
不意にちりと脳を掠めるような、背中をべたりと触られるような執着にも似た視線を背後に感じた。
「…うれし」
気がつけば私は半歩彼に近づき、自分でもぞっとするほどどろりとした甘みを含んだ言葉を落としていた。
「えっ」
彼が動揺している。本当に殺伐とした現代社会に似合わないほど純粋だ。どれだけ親や周りに愛されて生きてきたんだろう。
彼の表情も確認しないまま、照れ隠しのように唇を引き結んで、「…なんてね」と冗談めかして言って小走りで立ち去った。
蛇のように纏わりついていた視線は、いつのまにかどこかへ行っていた。
しんしんと積もり行く雪を見つめていた。殴られて、ふらりとよろけた地面は固くて、それでも確かに柔らかな雪はそこにあった。
「他の奴と話すなよ。なに自分から近づいてんだよ。なんの話したんだよ」
伊佐は、なんだかとても被害者みたいな、お前のせいで傷ついたんだと言わんばかりの顔をしていた。殴りかかる時の恨みを煮詰めたような顔と同一人物とは思えなくて、フィルムを断ち切るように2つの記憶の連続性が抜け落ちていく。
「…俺をひとりにしないでくれ」
伊佐の妹から、伊佐は今まで4人ほどと伊佐の暴力で別れていると教えられた。自分が種蒔いた出来事のせいで孤独になった、それなのに被害者みたいな顔をして悲痛に呟いた彼に笑ってしまいたかった。
「するわけないよ」
言葉を発するたび、ひりひりと口が痛む。頭の中ではまだ雪が降り続けている。その先で確かにまだ色鮮やかな顔でこちらを見ている痛みや苦しさが脳裏をよぎり、でもそれだけだった。
縋るように、甘えるように赦しを乞うように。ただ、あなたなしでは生きていけないと、私はあなたより下等の存在なのだと伝えるように重苦しい身体を持ち上げる。地べたにしゃがみ込んだまま彼を見つめるしかできない私は、等しく餌をとりに行った親を待つ雛だった。
「あなたを愛してる」
雪に突如棒でも貫かれたかのような痛みが全身に渦巻いた。殴られた頬は熱さを孕んでいて握りしめた袖の先には無数のあざがある。
どうでもいい、全部全部どうでもいい。
「俺もだよ、殴ってごめんな」
肉食獣に食べられた小動物のような心地だ。簡単な謝罪で全てを済ませて、こんな苦しいだけの抱擁で全てが解決すると思っている、楽観的で無知で愚か。
「俺も愛してるよ」
これでよかったのか。こんな簡単でしょうもない言葉でよかったのか。こんなんで一時の平穏を手に入れられるのか。
私は、震えることしかできなかった幼少期に誇るように思った。
「あれ、そういえば佐々木さんっていつも長袖ですよね」
今日もすれ違った。相手が狙っているかなんてわかりはしないけど、倉木と廊下を歩くのは何度目だろうと思う。
「ま、そうだね」
「暑くないですか?外今日めっちゃ猛暑ですよ」
「まーね。私はむしろ室内のエアコンの方がきついかも」
「あー」
ほんの少しだけ彼の方に体重を傾ける。しんしんと雪が積もっていく。
伊佐の執着心の強さに、私が執着していることは確実だった。
雪の降り積もるような痛みの繰り返しで、私は今生きていた。