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幕間 鳥かごの少女

田中さんと別れたあの夜、私は久しぶりに自分の部屋のベッドで深く呼吸ができたような気がした。豪華で、広すぎるこの部屋は、いつからか私にとって鳥籠でしかなかったけれど、あの人のことを考えると、ほんの少しだけ、その鉄格子が緩むような錯覚を覚えた。


田中一郎さん。

トラックに轢かれてもピンピンしていて、チンピラを瞬く間に叩きのめし、スナイパーの弾丸を胸で受け止めても「期待外れだ」とぼやく人。そして、真顔で「異世界転生してハーレムを築き魔王を倒すために死にたい」と公言する人。

普通じゃない。常識なんてものさしでは到底測れない。

でも、だからこそ――。

お父様や、家の人間たち、そして私を取り巻く全てが嘘と体裁で塗り固められているように感じるこの世界で、田中さんの剥き出しの欲望と、常軌を逸した行動は、なぜか私にとって、とても「本物」で、眩しく見えたのだ。

「死にたい」と願う彼の隣にいると、皮肉なことに、私はほんの少しだけ「生きたい」と思えるのかもしれない。そんな淡い期待すら抱いてしまうほどに。


翌朝、食卓で顔を合わせたお父様は、新聞から顔も上げずに「昨日はどこをほっつき歩いていた?お前にはお前の立場というものがあるのだぞ」とだけ言った。いつものことだ。私の行動は常に監視され、報告されている。私が何を感じ、何を考えているかなど、お父様にとっては取るに足りらないことなのだろう。家の体面と利益、それが全ての価値基準。何を言っても無駄だということは、もうずっと前から知っている。この家では、私の感情に価値などないのだから。食卓に並ぶ豪勢な料理は、まるで砂を噛むように味気なかった。


学校へ向かう道すがらも、背中にまとわりつくような視線を感じていた。気のせいではない。この感覚には慣れている。でも、今日はいつもよりその視線が鋭く、数が多い気がした。田中さんと接触したことが、もう彼らに伝わっているのだろうか。私の胸は、嫌な予感で早鐘を打っていた。


その予感は、最悪の形で的中した。

いつも通る、少し人通りの少ない路地に入った瞬間だった。前と後ろから、黒いスーツを着た複数の男たちが、音もなく現れて私の退路を塞いだ。先日田中さんが倒してくれたチンピラたちとは明らかに違う。無駄のない動き、感情の読めない冷たい瞳。彼らは、訓練されたプロだ。

「相沢凛さん、ですね。少しご足労願います」

一人が事務的な口調で言った。抵抗する間もなく、腕を掴まれ、引きずられるように黒いセダンへと押し込まれそうになる。

(駄目…!このまま連れて行かれたら…!)

恐怖で体が竦む。でも、ここで諦めたら、私は本当に「家の道具」として、あるいは「厄介払い」の対象として、闇に葬られてしまうかもしれない。

私は、最後の力を振り絞って、掴まれた腕に思い切り噛みついた。男が短く呻き、一瞬だけ力が緩む。その隙に、私はバッグの中に隠し持っていた小さな催涙スプレーを、近くにいた別の男の顔に噴射した。

「ぐあっ!」

悲鳴と混乱。私はその一瞬の隙を突いて、全力で駆け出した。背後から怒号と追いかける足音が迫る。心臓が張り裂けそうだ。でも、足を止めるわけにはいかない。


街の雑踏に紛れ込み、何度も角を曲がり、どれだけ走っただろうか。息も絶え絶えに路地裏に身を隠し、荒い呼吸を繰り返しながら、私は迫りくる絶望に打ち震えていた。

家も安全ではないかもしれない。お父様は、私を守ってはくれないだろう。警察? あの人たちも、どこまで信用できるか…。

脳裏に浮かんだのは、田中さんの姿だった。あの圧倒的なまでの力。常識を超えた存在。

(田中さんなら…あの人なら、こんな奴ら、きっと…!)

でも、どうやって? 彼は「死にたい」のだ。私の個人的な問題に、彼を巻き込んでいいのだろうか。ただ助けを求めるだけでは、あの人は動いてくれないかもしれない。

ふと、チンピラを倒した後の彼の言葉が蘇る。「ここで騒ぎを起こせば警察沙汰になって、何かこう、いい感じに死ねるかと思ったんだが…期待外れだった」。スナイパーに狙われた後も「もっとこう…ドカンと一撃で魂ごと異世界に送ってくれるような威力はなかった。期待外れもいいところだ」と本気で悔しがっていた。

そうよ、あの人はいつも、もっと強烈な刺激や、自分を殺してくれるかもしれない「強敵」や「危険な状況」を求めている。

(それなら…もし私の抱えるこの問題が、彼にとってそういう「チャンス」になるのなら…? 私が彼に、彼が望むような状況を提供できるとしたら…?)

そう思うことで、私はかろうじて罪悪感を押し殺し、一つの賭けに出ることを決意した。これは取引。私だって、ただ助けを乞うだけじゃない。彼にとっても「メリット」があるはずだ。


私は、震える手でスマートフォンを取り出し、ある番号に電話をかけた。それは、父の秘書でありながら、幼い頃から私を何かと気にかけてくれていた、数少ない信頼できる人物だった。

「…私です。お願いがあります。田中一郎という男性の情報を、至急調べてください。先日、交通事故に遭ったはずです。そして、おそらく…普段から、常人がしないような鍛錬をしている人物です」

電話の向こうで、彼は一瞬言葉を失ったようだったが、すぐに「…承知いたしました。お嬢様、ご無事で」とだけ答えてくれた。


彼からの情報とそしてあの衝撃的な事故の後、必死にネットの情報を漁る中で見つけた「#トラッククラッシャー」という不名誉な(でも私にとっては希望の光だった)ハッシュタグの情報…それらを繋ぎ合わせ、田中さんがよく鍛錬に使いそうな場所をいくつか割り出したもちろん、こんなことをしているのは、お父様には絶対に知られてはいけない。でも、もう後戻りはできなかった。


そして私は、多摩川の河川敷で、信じられない光景を目にした。

1トンのコンクリートブロックを振り回す、田中さんの姿を。

(やっぱり…この人しかいない)

私は、震える足に力を込め、彼の方へと歩き出した。

これが正しい選択なのかは分からない。でも、もう、私には彼しか頼れる人がいなかったのだ。

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