第六話 少女の誘惑
相沢凛と別れた翌日から、俺、田中一郎の日常は、より一層「死」への渇望を増していた。スナイパーの狙撃すら、俺の鋼の肉体には蚊が刺した程度のダメージしか与えられなかったという事実は、俺の絶望をさらに深いものへと叩き落とした。
(こうなったら、物理的な衝撃に頼るだけではダメだ…もっとこう、内側から崩壊させるような、あるいは概念的な死が必要なのでは…?)
そんな哲学的な問いにまで思考が及び始めた俺は、とりあえず手当たり次第、死ねそうな場所や状況に身を投じることにした。例えば、
・都内有数の心霊スポットと名高い廃病院に深夜単身で乗り込み、悪霊に取り殺されることを期待したが、なぜか悪霊の方が俺の覇気に恐れをなして逃げ出し、逆に除霊に成功してしまう。
・猛毒を持つことで知られる外来種の巨大グモを自宅で飼育し、噛まれるのを待ったが、グモの方が俺のプロテイン臭にやられたのか数日で衰弱死。俺は丁重に弔った。
・「100%死ねる!」とネットで噂の、素人が絶対に手を出してはいけない禁断のレシピ(内容は察してほしい)の料理を自作し、完食したが、翌日、腹の調子が絶好調になっただけだった。どうやら俺の消化器官も超人レベルに進化しているらしい。
「だあああああ! なんでだよぉぉぉぉっ!」
俺の悲痛な叫びが、多摩川の河川敷に虚しく響き渡る。いつものように1トンのコンクリートブロックを両手に持ち、それを振り回しながら奇声を上げるという常軌を逸したトレーニング(という名の死に場所模索)の最中だった。道行く人々は蜘蛛の子を散らすように逃げていく。もはや日常風景だ。
そんな八方塞がりな状況に、もはや笑うしかない俺の前に、ふいに影が差した。
「…田中さん、ですよね?」
息を切らせ、少し怯えたような、しかしどこか切羽詰まった表情で立っていたのは、数日前に別れたばかりの女子高生、相沢凛だった。彼女はいつもの制服姿ではなく、動きやすそうなシンプルな私服を着ている。しかし、その顔には疲労の色が濃く、目の下にはうっすらと隈ができていた。
「相沢さんか。どうした、こんなところで。またチンピラか? それとも、スナイパーのお仲間がお礼参りにでも来たか?」
俺がコンクリートブロックを地面にドスンと置きながら尋ねると、彼女はふるふると首を横に振った。
「いえ、そうではなくて…田中さんに、お願いがあって来たんです」
その声は真剣だった。
「お願い? 俺にか? 死にたい男に頼むことなんて、介錯くらいしか思いつかんが」
「…お願いです。助けてください、田中さん」
凛は深々と頭を下げた。その小さな肩が、小刻みに震えている。
「また狙われたのか?」
「はい…今朝、学校へ行く途中に…。前回とは違う連中でした。もっと…組織的で、容赦のない感じの…」
彼女の声には、隠しきれない恐怖が滲んでいた。
「それで、どうやってここが?」
「田中さんのことは…少し、調べさせていただきました。あの事故のことや、田中さんが普段、こういう場所で鍛錬されているという噂も…すみません、勝手なことをして」
彼女は申し訳なさそうに言ったが、その瞳の奥には強い意志が感じられた。噂だけで俺の行動パターンを特定するとは、なかなか大したものだ。これが彼女の言う「私の家は、少しだけ…その、色々なことに詳しいですから」という言葉の片鱗なのだろうか。
「ふむ…それで、俺にどうしろと?」
「私を…私を、守ってほしいんです。いえ、正確には、私と一緒に来てほしい場所があるんです。そこに、今の状況を解決できるかもしれない手がかりが…あるはずなんです」
「守る、ねえ…。俺は人を守るために鍛えたわけじゃないんだがな。むしろ、俺を殺してくれるような強敵との出会いを求めている」
俺がそう言うと、凛は顔を上げた。その瞳は潤んでいたが、決して懇願だけの色ではなかった。
「わかっています。田中さんが、普通の人とは違う目的でその力を得たことも…そして、常に『死』を望んでいることも。でも…」
彼女は一度言葉を切り、まっすぐに俺の目を見た。
「でも、今の私には、田中さんのその『普通ではない力』が必要なんです。もし、私が今抱えている問題を解決できれば…もしかしたら、田中さんの望むような『手強い相手』や『危険な状況』が、もっとたくさん現れるかもしれません」
(ほう…?)
俺の眉がピクリと動いた。危険な状況が、もっとたくさん…? それはつまり、俺の異世界転生チャンスが増えるということか…?
この女子高生、なかなかどうして、俺のツボを心得ている。
「それに…もし田中さんが私を守ってくださるなら、その対価として、私の家が持つ情報網や力を、田中さんの『目的』のために使うこともできます。例えば…世界中のあらゆる『危険な場所』や『伝説の怪物』、あるいは『確実に死ねると言われている方法』のリストとか…」
彼女は、少し悪戯っぽく、しかし真剣な眼差しでそう付け加えた。
その言葉は、干天の慈雨のように、俺の渇ききった心に染み渡った。
「…いいだろう、相沢さん。その話、乗った」
俺はニヤリと笑った。無論、彼女を守るという殊勝な心からではない。彼女の言葉が提示した、輝かしい「死ねるかもしれない未来」への期待からだ。
「本当ですか!?」
凛の顔がパッと明るくなる。
「ただし、勘違いするな。俺はあくまで、俺自身の目的のために動く。お前を守るのは、そのついでだ。そして、もし途中で俺が死ねそうなチャンスを見つけたら、お前を放り出してでもそっちを優先する。それでもいいか?」
「…はい。覚悟の上です、田中さん」
凛は力強く頷いた。その顔には、もはや怯えの色はなかった。むしろ、どこか吹っ切れたような、あるいは危険な賭けに身を投じる共犯者のような、そんな表情が浮かんでいた。
「よし、決まりだ。それで、どこへ行けばいい? 俺を殺してくれそうな奴らがうじゃうじゃいるような、素敵な場所なんだろうな?」
俺が期待に胸を膨らませて尋ねると、凛は少し困ったように微笑んで、こう言った。
「…まずは、私の家です。お父様に、田中さんを紹介します」
(…家? 親に挨拶? なんだか、とてつもなく死から遠そうな響きだな…)
俺の期待は、早くも少しだけ萎みかけたが、それでも彼女の言葉の端々に感じられる「普通ではない」家の気配に、新たな死のフラグが立つ可能性を、俺はまだ捨ててはいなかった。
そして俺は、この女子高生と共に、彼女の「普通ではない家」へと足を踏み入れることになる。それが、俺の想像を遥かに超える、新たな「死ねない戦い」の始まりになるとも知らずに…