第二話 被害者(?)の取り調べ
ストックが尽きるor作者が力尽きるまで毎日2話投稿します!
どれほどの時間、そうしていただろうか。無力感に苛まれ、ただベッドの上で天井のシミを数えるでもなくぼんやりと見つめていた、その時だった。
コンコン、と控えめなノックの音が、重苦しい静寂を破った。
「…どうぞ」
俺が力なく返事をすると、病室のドアが静かに開き、見覚えのある初老の男が入ってきた。事故現場にいた、鋭い目つきの刑事だ。後ろには若い制服警官も控えている。
「田中一郎さん、ですな。お加減はいかがですかな?」
男は穏やかな口調でそう言ったが、その目は笑っていなかった。むしろ、値踏みするような、あるいは何か得体の知れないものを見るような光を宿している。
「警視庁捜査一課の後藤と申します。本日は、先日の事故について、いくつかお話を伺いたく参りました」
「…刑事さんが、なんで俺に…? 俺は被害者のはずですが」
「ええ、もちろん、その観点からもお話を伺いますがね。なにぶん、少々…奇妙な事故でしたので」
後藤警部はそう言うと、傍らの若い警官に目配せし、記録の準備をさせた。
「まず、単刀直入にお伺いしますが、田中さん、あなたはなぜトラックと衝突してご無事だったのですかな?」
核心を突く質問。俺はため息をつきそうになるのをこらえ、できるだけ正直に答えることにした。どうせ理解されないだろうが。
「…鍛えたからです」
「鍛えた?」後藤警部の眉がピクリと動く。「具体的に、どのような?」
「異世界転生に備えて…3年間、あらゆる修行を」
「いせかい…てんせい…?」
後藤警部の顔に、あからさまな困惑の色が浮かんだ。隣の若い警官は、必死に表情を保とうとしているが、肩が小刻みに震えているのが見える。笑いをこらえているのだろう。失礼なやつだ。
「つまり、田中さんは、トラックに轢かれることによって、どこか別の世界へ行こうとしていた、と?」
「その通りです。それが俺の長年の夢であり、人生の目標なので」
俺は胸を張って(心の中でだけだが)答えた。後藤警部は、しばらくの間、俺の顔をじっと見つめていたが、やがて重々しく口を開いた。
「…分かりました。では、その『修行』とやらで、トラックと衝突しても無傷でいられるような『技』でも習得されたと?」
「技というか…肉体が鋼のように強靭になったというか…まあ、結果として死ねなかったわけですが」
「目撃者の証言によりますと、あなたはトラックが迫ってくるのを見て、逃げるどころか、むしろ歓迎するように立っていた、と。これは?」
「絶好の転生チャンスだと思いましたので」
俺の言葉に、後藤警部は額に手を当て、天を仰いだ。若い警官はついに吹き出し、慌てて咳払いでごまかしている。
「…田中さん、ふざけているのですかな? こちらは仕事で来ております」
後藤警部の声に、わずかに苛立ちが混じる。
「ふざけてなどいません! 俺は本気で異世界へ行きたいんです! そのために3年間、血の滲むような努力を…熊とも戦い、滝にも打たれ、自作の秘薬だって…!」
「熊…秘薬…」後藤警部は深いため息をつくと、気を取り直したように続けた。「…先日あなたを診察した骨川医師の所見では、『医学的に極めて稀なケース。これほどの衝撃で無傷なのは通常では考えられない』とのことでした。何か、ご自身の体について、心当たりは?」
「ですから、鍛えたんです。死ぬために」
「死ぬために鍛えて、結果死ねなかった、と…」
もはや、後藤警部の顔には諦観の色すら浮かんでいた。
「田中さん、あなたは何か特殊なボディアーマーのようなものを装着していたり、あるいは事故の瞬間に何か特殊な防御行動をとったりは?」
「いえ、普段着のワイシャツ一枚でしたし、防御など…むしろ全身全霊で衝撃を待ち望んでいました」
「……」
長い沈黙が病室を支配した。後藤警部は、何かを考え込むように顎に手をやっている。
やがて、彼は顔を上げた。
「…分かりました。本日のところはこれで結構です。ですが、田中さん、今後も何かと思い出すことがあるかもしれませんので、その際はまたご協力をお願いすることがあるかと」
「いつでもどうぞ。ただ、俺は早く退院して、次の転生チャンスを探しに行きたいのですが」
俺の言葉は、完全にスルーされた。
後藤警部と若い警官が病室を出ていくと、俺は再び一人になった。
(やはりダメか…。警察も、俺のこの苦しみと絶望を理解してくれるわけがない…)
そもそも、鍛えすぎてトラック程度では死ねないなんて話、誰が信じるというのだ。俺が信じたくないくらいだ。
後藤警部は、病室を出た後、若い警官にぽつりと言った。
「…アイツ、本気で言ってるのか、それとも頭のネジが数本飛んでるのか…あるいは、何かを隠すための芝居か…? だが、あのトラックの壊れ方は尋常じゃない。医者の話も本当なら…」
彼は、田中一郎という男の存在が、自分の長い刑事人生の中でも指折りの不可解な案件になることを予感していた。そして、なぜか放っておけないような、奇妙な胸騒ぎも感じていた。
俺はベッドに大の字になり、天井を見上げた。
(異世界への道は、かくも遠く、そして険しいものなのか…!)
次の「死ねる機会」は、一体いつ、どこで俺を待っているのだろうか。 どうすれば俺は、この忌々(いまいま)しい現実から解放され、念願の異世界へと旅立てるというのだ…!