第十三話
瓦礫と粉塵が舞う崩壊した研究所の出口から、俺は気を失った凛を横抱きにして、一歩を踏み出した。背後では、叩き起こした黒服たちが、満身創痍ながらも俺に続いている。 その瞬間、俺たちの目の前に、無数の光が突きつけられた。
「動くな! 全員、武器を捨てて手を上げろ!」
拡声器を通した鋭い声。その声の主には見覚えがあった。待ち構えていたのは、あの後藤警部率いる警視庁の部隊だった。
後藤は、鬼のような形相で俺を睨みつけている。そりゃそうだろう。トラック事件で俺を異常者扱いし、相沢邸でも顔を合わせた、何かと因縁のある相手だ。その目には「今度こそこの化け物を捕らえる」とでも言いたげな、執念のような光が宿っていた。
だが、その後藤の視線が、俺の腕の中で静かに寝息を立てる凛に注がれた、その時だった。奴の険しい表情が、ほんの僅かに揺らいだのを俺は見逃さなかった。まるで、目の前の光景と、頭の中にある俺の情報が食い違って、処理が追いつかないといった顔だ。奴は一瞬だけ何かを言いよどむと、改めてマイクを握り直した。
やがて、覚悟を決めたように、奴は叫んだ。 「田中一郎…! 貴様、一体何者だ! この惨状と…腕の中の少女について、全て説明しろ!」
その声は厳しかったが、俺が予想していたような、問答無用の断罪の響きとはどこか違っていた。
「さあな。正義の味方をやっていたら、いつの間にかこうなっていた。それより、怪我人が大勢いる。救急車でも呼んだらどうだ?」
俺がそう言い返した、まさにその時だった。 重いエンジン音と共に、警察の包囲網の外側から、数台の黒いセダンが滑り込んできた。車から降りてきたのは、警察とは明らかに雰囲気の違う、冷たい目をしたスーツの男たちだった。
「ご苦労様です、警視庁の皆さん。ここから先は、我々内閣情報調査室が引き継ぎます」
リーダー格らしき男が、後藤警部に一枚の書類を見せる。後藤の顔が、みるみるうちに苦渋に満ちたものへと変わっていくのが見て取れた。
「田中一郎は、国家が管理すべき『戦略的災害兵器』と認定されました。彼の身柄は、速やかに我々に引き渡していただきたい」
内調の男の言葉は、感情の欠片もなかった。その視線は、俺を人間としてではなく、ただの「物体」として捉えている。
「兵器、だと…? ふざけるな!」
後藤が、先ほどとは比較にならないほどの怒声を上げた。
「俺の目には、少女を必死に庇う、ただの男にしか見えんぞ!」
内調の男は、後藤の熱弁を鼻で笑うように、やれやれと首を振った。その目は、まるで駄々をこねる子供を諭すかのように冷え切っていた。
「感傷ですか、警部。先日、我々の見解はお伝えしたはずです。彼は『兵器』。それ以上でも、それ以下でもありません。あなたの主観で、事実を捻じ曲げられては困る」
その言葉が、逆鱗に触れたのだろう。
「断る!」後藤は内調の男を真っ直ぐに睨みつけ、決然と言い放った。「彼は、今回のテロ事件における重要参考人であり、同時に被害者でもある! 我々が確保し、法に則って事情を聞く! 彼を、国の道具にも、あんたらの実験動物にもさせてたまるか!」
後藤のその言葉に、俺はなぜか、口の端が上がるのを止められなかった。
「…面白い。いいだろう、刑事さん。あんたのその心意気、買った」
結局、後藤警部の前代未聞の抵抗と、その裏で動いたであろう相沢玄道の政治力によって、俺は「事件に巻き込まれた協力者」という形で、内調の手から逃れることになった。公式記録には、Dr.骨川の研究所は事故で自爆し、俺は偶然居合わせた民間人として、警察の捜査に協力した、と記されたらしい。
◇ ◇ ◇
数日後、俺は相沢邸の広大な庭で、退屈を持て余していた。 会社は正式にクビになり、俺は晴れて無職の身だ。だが、死ねそうな気配はどこにもない。
「田中一郎君。君に、仕事の話がある」
背後から声をかけてきたのは、相沢玄道だった。
「仕事? 俺は死にたいんであって、就職したいわけじゃないんだが」
俺の返答に、玄道はふっと口の端を歪めた。
「口の減らん男だ。だが、君のおかげで、我々も長年の厄介事を一つ片付けられた。…もっとも、内調の犬どもを黙らせるのに、少々骨が折れたがな。君には、その分の働きはきっちりとしてもらうぞ」
その言葉には、水面下での厳しい交渉があったこと、そして俺という存在を囲い込むことの「コスト」が確かに滲んでいた。
「私の娘、凛の専属護衛。そして、我が相沢家の『厄介事』を処理する、特別顧問だ。君のその力、飼い殺しにするには惜しい。どうだね?」
俺はしばらく考え、やがてため息をついた。
「…まあ、退屈はしなさそうだな。いいだろう、その話、乗った」
こうして俺は、正式に相沢家に雇われることになった。それは、俺が望んだ異世界転生とは似ても似つかない、しかし、もう一つの、新しい日常の始まりだった。
◇ ◇ ◇
その翌日の昼下がりだった。執事が、俺に客人が来ていると告げた。応接室に向かうと、そこには見知った顔が、しかしどこか見慣れない雰囲気で立っていた。
「…後藤警部。いや、元・警部、と言うべきか」
そこにいたのは、あの後藤だった。だが、いつも着ていたくたびれたスーツとは違う、さらにくたびれたジャケットを羽織っている。何より、あの鬼刑事めいた鋭い眼光が、今は少しだけ和らいで、ただの疲れた中年男のそれに変わっていた。
「まあ、そんなところだ」後藤は自嘲気味に笑った。「上の連中と、少しばかり『取引』をしてな。あんたは、Dr.骨川のテロ計画に巻き込まれた『協力者』として処理された。これで一件落着だ。内調も、これ以上は手を出せん」
「司法取引か。ずいぶんと高くついたみたいだな、あんたにとっては」
俺がそう言うと、後藤は肩をすくめた。 「おかげで所轄の資料室係に降格だ。現場を追いかけるより、ホコリを追いかける毎日さ。だが、まあいい。あんたを国の実験動物にされるよりは、千倍マシだ」
後藤は、俺の目を真っ直ぐに見た。 「勘違いするなよ、田中。あんたを信じたわけじゃない。俺はただ、あの時、あんたが少女を庇う『人間』に見えた。だから、法の下で裁かれるべきだと思っただけだ。刑事として、な」
「……」
「二度と、あんな馬鹿げた騒ぎを起こすな。大人しくしてろ」
そう言い残して、背を向けた後藤に、俺は思わず声をかけていた。
「あんたの正義も、大概、常軌を逸してると思うがな」
振り返った後藤は、一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐにフッと息を吐くように笑った。 「…うるさい、馬鹿者」 今度こそ本当に背を向け、後藤は応接室から出て行った。
◇ ◇ ◇
「ああ…今日も死ねなかった…。平和すぎて筋肉が腐っちまう…」
俺が庭の真ん中で、巨大な庭石を持ち上げながら嘆いていると、凛が呆れたような顔で、お茶のセットを運んできた。さっきの後藤とのやり取りで、少しばかりささくれていた心が、奇妙に落ち着いていくのを感じる。
「あら、田中さん。まだそんなこと言ってるんですか? その庭石、お父様が気に入ってたものですから、壊さないでくださいね」
彼女はすっかり元気を取り戻し、以前のような影は、その表情から消えていた。
「うるさい。これは死ぬための神聖な儀式だ」
俺がそう言って庭石を放り投げようとすると、凛はくすりと笑って言った。
「でも、少しだけ…楽しそうですよ、田中さん」
その言葉に、俺は動きを止めた。 楽しそう? この俺が? まさか。俺はただ、今日も死ねなかったことに絶望しているだけだ。
だが、俺の顔を見て、凛は悪戯っぽく笑みを深めた。
「『異世界ハーレム』もいいですけど、たまにはこの世界の『日常』も、悪くないでしょう?」
俺は何も言い返せず、ただバツが悪そうに、空を見上げた。 青く、どこまでも広がる空。そこには、エルフも、女騎士も、獣人もいない。あるのは、忌々しいほど平和な現実と、俺の隣で楽しそうに笑っている、この生意気な女子高生だけだ。
死ねない。 その事実は変わらない。だが、不思議と、以前のような焦燥感はなかった。
俺の、どうしようもなく馬鹿げた「死ねる日」を探す旅は、これからも続いていくのだろう。 だが、その隣に、こいつがいるのなら。
「…まあ、たまにはな」
そう小さく呟いた俺の顔を、凛が覗き込んで、嬉しそうに微笑んだ。 その笑顔が、なぜか、どんな異世界の光景よりも眩しく見えたのは、きっと気のせいだろう。
これにて完結です!
初めての執筆で至らない点も多々あったと思いますがご愛読いただきありがとうございました。
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