第十三話
田中達の突入する数刻前、警視庁は未曾有の混乱の渦中にあった。
数分前、警視庁のメインサーバーに、一本の動画ファイルが送り付けられたのだ。差出人は、Dr.骨川。それは、日本警察全体に対する、狂気に満ちた犯行予告だった。
『警視庁の諸君、ごきげんよう。私の名はDr.骨川。しがない研究者にして、全人類の救済者だ』
緊急招集された対策本部の巨大モニターに、神経質そうな男の顔が映し出される。その笑みは、自らの計画に酔いしれる支配者のそれだった。
『これから、とある『聖戦』の幕を開ける。その主役は、君たちもよく知るであろう男…『不死身の田中』こと、田中一郎君だ』
画面が切り替わり、映し出されたのは、先日壊滅した蛇塚組の組員たちの姿だった。彼らは皆、拘束されているにもかかわらず、その表情は苦痛とは無縁の、恍惚とした、この世のものとは思えぬほどの幸福感に満ちていた。
『ご覧の通り、私の『ゼロ・レクイエム』は、いかなる魂にも安息を与える。だが、これはただの序章に過ぎん。私は、彼のその強靭な魂が、私の装置によって至上の幸福の中で穏やかに『堕ちる』様を、君たちに見届けさせる。そして、それが終わった時こそ、全世界に向けた本格的な『救済』の始まりだ。楽しみにしているがいい』
その一方的な通告と共に映像は途絶え、対策本部は蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。
「なんだ今の映像は!悪趣味な悪戯か!」
「先日保護した組員たちのバイタルと一致します!彼らは今も、同じ表情で植物状態に…!」
「全世界だと!?奴は本気か!」
怒号と悲鳴が飛び交う。その喧騒の只中で、後藤誠警部だけが、鬼のような形相でモニターの残像を睨みつけ、固く拳を握りしめていた。
(田中君…奴は、あの日からお前を狙っていたのか…!)
トラック事故の後、病院で田中を診察した「骨川」という名の医師。あの時から、全ては仕組まれていたのだ。
「全員、静かにせんかッ!」
後藤の一喝が、混乱の極みにあった室内に響き渡る。
「奴の狙いは田中一郎だ!今、奴は廃病院にいる!相沢邸と田中一郎の周辺に配置している部隊に連絡!何が何でも現場に急行させろ!」
後藤は矢継ぎ早に指示を飛ばす。
「技術班!奴の発信源を特定しろ、1分やる!」
「SAT(特殊急襲部隊)の出動を要請しろ!相手は大規模テロリストだ、許可は俺が取る!」
部下たちが慌ただしく動き出す中、後藤は再びモニターに目を戻す。そこに映るのは、サーバーに残された骨川の歪んだ笑み。
(待っていろ、ドクター骨川…そして、田中君…)
後藤は奥歯を強く噛み締めた。
(お前を、国のおもちゃにも、狂人の生贄にもさせてたまるか…!)
法と秩序の番人として、そして一人の人間として、後藤の戦いもまた、始まろうとしていた。
◇ ◇ ◇
(最高だ…! これが、俺の求めていた全てだ…! 現実世界のクソみたいな日常など、もうどうでもいい…!)
俺の意識は、脳が焼き切れるような、甘美で強烈な至福の感覚にゆっくりと溶けていく。現実と幻想の境界はもはや曖昧になり、この永遠に続くかのような幸福の中で、俺は…穏やかに、消えてなくなるのだ…。
その、意識が完全に途絶える、まさにその瞬間だった。
天から、あるいは脳内に直接、あの神経質そうな男の声が、冷たく、そして愉悦に満ちて響き渡った。
『――最高のプレゼントだっただろう? 田中一郎君』
その声は、Dr.骨川のものだった。
『君のおかげで私の理論は完成した。行き場のない強大すぎるエロスは、その対象が偽りであると知った時、反転し、持ち主を内側から崩壊させる、完璧な自己破壊衝動へと変わるのだ』
『お礼に、完璧なる『死』を与えよう』
『これは幻想だ。そして――君のその願いは、決して叶わない』
その言葉は、無慈悲な楔となって、幸福の絶頂にあった俺の魂に打ち込まれた。
目の前で微笑んでいたエルフの顔が、女騎士の顔が、獣人の顔が、まるでノイズの走った映像のように歪んでいく。彼女たちの声が、意味をなさない甲高い音に変わる。白銀の聖剣は輝きを失い、美しい森は色褪せた書き割りのように見えた。
そうだ、これは、偽物だ。作り物だ。俺の、俺だけの、惨めで、滑稽な、願望の成れの果てだ。
強烈な幸福感は、その行き場を失い、瞬時にして、身を焼くような絶望と自己嫌悪の奔流へと反転した。
(ああ…そうか…俺は、結局…どこにも行けないのか…)
視界が急速に黒く染まっていく。ああ、こうやって、俺は、今度こそ本当に、無に帰るのか…。
――だが、その完全な闇が、俺の全てを飲み込む、その寸前。
「駄目…! 田中さんッ!」
◇ ◇ ◇
田中一郎という強大なエネルギー受容体が装置に接続されたことで、周囲への精神干渉波の出力が一時的に低下したのかもしれない。あるいは、ただの偶然か。いずれにせよ、相沢凛は、まるで冷水を浴びせられたかように正気を取り戻した。
そして彼女が目にしたのは、ゼロ・レクイエムの強化ガラスの中で微かに痙攣し、その瞳から光が消え、まるで魂が抜け落ちていくかのような田中の姿だった。全てを悟った凛は、絶叫した。
彼女は装置に駆け寄り、強化ガラスを血が滲むような勢いで叩きながら必死に叫んだ。
「田中さん、戻ってきて! そんなの嘘よ! あなたのいない世界なんて、私、嫌だから! お願いだから、また『死にたい』って言って! あの憎たらしい顔で、また私を困らせてよッ!」
◇ ◇ ◇
意識が、思考が、存在そのものが、底なしの闇へと沈んでいく。
冷たく、静かで、安らかな、完全なる『無』。俺が心のどこかで求め続けていた、究極の救済。
――だが、その心地よい静寂を、劈く声があった。
『――戻ってきて!』
何かの音。いや、声だ。遠くで、誰かが俺の名を呼んでいる。うるさい。邪魔をするな。俺は、やっと、楽になれるんだ。
『――お願いだから、また『死にたい』って言って!』
その叫びが、俺の消えかけた意識の芯に、小さな火を灯した。
そうだ、この声は…凛の声だ。
脳裏に、あの温もりが蘇る。俺の背中に置かれた、手のひらの熱。孤独だったはずの俺の背中に、確かに存在した温もり。
自分でも持て余していた、あの気色の悪い感覚。
あれが何だったのか、今、初めて理解した。
そうだ。俺は、最強になってこの世界からさっさと異世界に転生したいだけだった。なのに、いつからだ。あの忌々しい日常が、あの生意気な女子高生のいる現実が、こんなにも…
(…帰りたい、と)
俺の人生そのものであったはずの、『異世界に行きたい』という願い。
そして、今、自覚してしまった、『凛のいる現実に帰りたい』という、どうしようもない願い。
二つの願いが、俺の中で互いを引き裂き合う。
それは、Dr.骨川の理論が想定した、生の欲望の自己破壊衝動への反転ではなかった。
田中一郎という男の中に生まれたのは、あまりにも巨大な二つの「生の欲望」そのもの。行き場を失った二つの願いは、彼の魂の中で破滅的な正面衝突を起こしたのだ。
『ゼロ・レクイエム』は、まるで断末魔の叫びを上げるように、甲高い警告音を発しながら激しく振動し始めた。制御盤からは火花が散り、モニターには意味不明のエラーコードが乱舞する。
モニターの向こうで、Dr.骨川が初めて狼狽の色を浮かべ、細い指で必死にコンソールを操作する。
『馬鹿な! ありえない! エネルギーがタナトスへと反転しないだと!? むしろ、エロスの奔流が無限に、指数関数的に増幅していく! このままでは装置が…いや、この空間そのものが臨界点を突破してしまう!』
彼の額には脂汗が滲み、その表情は恐怖に引きつっていた。だが、次の瞬間、まるで天啓を得たかのように、彼は全ての動きを止め、凍りついたように田中が囚われているカプセルを見つめた。そして、ゆっくりと、その顔に狂気に満ちた、しかしどこか純粋な探求者のような恍惚の笑みが広がった。
『ククク…フフフ…ハハハハハ! そうか、そうだったのか!「生きたい」という強烈な願いもまた、純粋なエロス! 一つの理想郷への渇望と、もう一つの現実(凛のいる日常)への渇望! 二つの巨大すぎるエロスが、彼の魂の中で衝突し、互いを喰らい合い、そして無限に増殖しているのだ! 強すぎるエロスは物理世界を改変する! 私の理論は…私の仮説は、やはり、間違ってはいなかったのだァァァッ! 見ろ、この美しき魂の爆発を! これぞ究極の救済、究極の死、そして究極の生だ!』
骨川は両手を天に突き上げ、まるで神の奇跡を目の当たりにした預言者のように、歓喜と狂乱の叫びを上げた。その目には、もはや恐怖はなく、ただ自らの理論が証明されたことへの絶対的な悦びだけが宿っていた。
骨川の狂った高笑いが断末-魔の叫びに変わるのと、『ゼロ・レクイエム』が閃光と共に全てを飲み込む大爆発を起こすのは、ほぼ同時だった。モニターは一瞬で砂嵐となり、ブラックアウトした。
衝撃と閃光。俺は、薄れゆく意識の中で、爆風に吹き飛ばされる凛の体を、咄嗟に抱き寄せていた。
どれくらい経っただろうか。
俺が目を覚ますと、そこは崩壊しつつある研究所だった。天井からは火の粉と瓦礫が降り注いでいる。腕の中には、気を失った凛が静かな寝息を立てていた。
俺は、死ねなかった。
だが、不思議と、いつものような絶望はなかった。
周囲を見渡せば、爆発に巻き込まれた黒服たちが、あちこちに転がっている。
「ちっ、面倒な…」
俺は舌打ち一つすると、気絶した凛を片腕でしっかりと抱え直した。そして、近くに倒れていた黒服の頬を、軽く(俺にとっては)平手で叩いた。
パァン!という乾いた音が響き、叩かれた男は「ぐぶっ!?」と奇妙な声を上げて飛び起きた。
「いつまで寝てる。死んでないならさっさと立て」
俺は次々と黒服たちを叩き起こしていく。彼らは何が起きたか分からないまま、しかし目の前の俺の異常なまでの冷静さと、崩れゆく惨状に、慌てて立ち上がった。
俺は生き残った者たちを一瞥し、低く告げた。
「帰るぞ」
そして、凛を抱えたまま、瓦礫の山をものともせず、出口へと向かって歩き始めた。
死ぬのは、もう少しだけ、先でもいいのかもしれない。そんな、らしくない考えが、頭の片隅をよぎった。