第十二話
薄暗いコントロールルーム。壁一面に並ぶ無数のモニターが、青白い光を放っている。その一つが、打ち捨てられた総合病院の外周を監視するカメラの映像を映し出し、数台の黒塗りのセダンが静かに停止するのを捉えた。
中心のコンソールに深く腰掛けた男――Dr.骨川は、その映像を食い入るように見つめ、神経質そうな細い指で、自身の顎をゆっくりと撫でた。その唇には、歪んだ、しかし歓喜に満ちた笑みが浮かんでいる。
(来る…来るぞ。我が愛しのモルモット、最高のサンプル、田中一郎君が!)
骨川の脳裏には、数ヶ月前の邂逅が鮮明に蘇る。トラックと衝突しても無傷だった男。その異常なまでの生命力、そして何より、その瞳の奥に宿る「異世界転生してハーレムを築きたい」という、常軌を逸した強烈な欲望。あれこそが、彼が長年追い求めてきたパズルの、最後のピースだったのだ。
(君のその、あまりにも強靭すぎるエロス――生の欲望と、それがこの現実世界では決して満たされぬという絶望的な『矛盾』。それこそが、私の理論を完成させ、全人類を苦痛から解放する『ゼロ・レクイエム』を起動させるための、唯一無二の鍵なのだ)
彼はコンソールを優雅に操作し、巨大なカプセル状の装置――『ゼロ・レクイエム』の最終起動シーケンスが、寸分の狂いもなく進行していることを確認する。内部構造、エネルギー循環、精神干渉波の出力調整、全てが完璧だ。この装置は、対象者の最も深い欲望を具現化した完璧な精神世界を構築し、至上の幸福感を与える。そして、その幸福が偽りであるという認識との狭間で、対象者の魂は自ら進んで『無』への回帰を選択するのだ。
(ククク…素晴らしい。君は、人生で最も幸せな瞬間に、穏やかに、そして確実に『死』という救済を得る。もはや苦痛も、絶望も、矛盾もない、完全なる調和の世界へ。それこそが、この醜く歪んだ現実から全人類を解放する唯一の道なのだ)
モニターの中で、田中一郎が車から降り立ち、周囲を睥睨する姿が映る。その隣には、彼に寄り添うように立つ少女――相沢凛の姿も。
(おっと、相沢のお嬢さんまでご一緒とは。まあいい、彼女もまた、この世界の不条理に苦む哀れな魂の一人。ついでに救済して差し上げよう。さあ、おいで、田中君。君のために最高の舞台を用意した。君の魂が放つ、最後の輝きを、この私にじっくりと見せておくれ)
骨川は、恍惚とした表情で両手を広げ、これから始まるであろう「聖戦」の開幕を、静かに待ちわびるのであった。
◇ ◇ ◇
廃病院へと向かう黒塗りのセダンの後部座席。重苦しい沈黙が車内を支配していた。俺、田中一郎は窓の外を流れる景色を眺め、これから始まるであろう「死ねるかもしれない戦い」に思いを馳せている。隣に座る相沢凛は、膝の上で固く手を握りしめ、何事か深く考え込んでいるようだった。
やがて、運転席との間にあるインターフォンから、相沢玄道の冷静だが硬質な声が響いた。
「いいか、田中。Dr.骨川は常軌を逸した男だが、知能は極めて高い。我々の動きを読み、何重にも罠を張っている可能性が高いと見るべきだ。だが、奴の計算もそこまでだ。お前のその理不尽な『力』の前では、どんな小細工も赤子の手をひねるに等しい。先陣を切れ、田中一郎。奴の企みを、その手で握り潰せ」
玄道からの最後の通信を一方的に切り、俺はゴキリと首の骨を鳴らした。雑音じみた命令よりも、これから起こるかもしれない「何か」への期待の方が、よほど心地よかった。
その時、隣の凛が、意を決したように口を開いた。
「田中さん。改めて警告します。Dr.骨川の『ゼロ・レクイエム』は、単なる物理的な罠や兵器ではありません。彼の報告書とこれまでのデータから分析する限り、対象者の最も深い欲望――トラウマや願望を読み取り、それを元にした極めてリアルな精神世界を構築し、魂そのものを捕縛する装置です」
凛の声は、いつになく真剣で、微かな震えを帯びていた。
「田中さんの…その、『異世界へ行きたい』というあまりにも強烈な願いは、彼にとって最高のターゲットとなり得ます。どうか、決して油断しないでください。そして…もし、万が一、あの装置の影響を感じたら、抵抗せずに、すぐに退避を…」
彼女の言葉は、俺への純粋な心配から発せられているのが痛いほど伝わってきた。だが、俺の心は別の方向を向いている。
「本当に異世界転生できるなら俺はそれでいいんだがな。どんなもんか今から楽しみだ。」
俺の独り言に、隣で凛が息を呑む気配がした。彼女は俺のワイシャツの袖を、祈るように小さく、しかし爪が食い込むほど強く握りしめた。その震える指先に込められた言葉にならない想いを、俺は気づかないふりをして、正面を見据えた。
やがて車は目的地の廃病院に到着した。その陰鬱な空気が漂うエントランスに、俺は数名の黒服戦闘員、そして凛と共に降り立つ。凛から渡された資料によれば、この廃病院こそが、Dr.骨川がその歪んだ理想を実現せんとするための聖域であり、実験場であるらしい。
重い鉄の扉を、まるでダンボールでも蹴破るかのように容易く破壊し、俺は内部へと突入した。カビと薬品の入り混じった異様な臭いが鼻をつく。予想に反して、そこは不気味なほど静寂に包まれていた…かに思えた。
ガシャリ、ガシャリ!
突如、俺たちが足を踏み入れた薄暗い廊下の天井から、複数の銃口が音もなく現れ、赤いレーザーサイトの光が俺たちを捉えた! 自動迎撃システムか。
「伏せろ!」
黒服の一人が叫び、戦闘員たちが咄嗟に身を隠そうとする。凛も小さく悲鳴を上げ、俺の背後に隠れようとした。だが、その必要はなかった。
ダダダダダダッ!
やかましい発砲音と共に、鉛玉の雨が俺めがけて降り注ぐ。しかし、それらは全て、俺の肉体に当たるや否や、まるでBB弾が硬い壁に当たったかのように、カンカンと虚しい音を立てて弾け飛び、床に散らばった。
「な…なんだと…!?」
「銃弾が…効いていない…?」
黒服たちが、信じられないものを見る目で俺の背中を見つめている。彼らは相沢家の精鋭であり、数々の修羅場を経験してきたはずだが、目の前の光景は明らかに彼らの常識を超えていた。
「ちっ、豆鉄砲か。もっとこう、一撃で骨まで砕けるようなやつはないのか」
俺は億劫そうに呟くと、天井の銃口群に向かって、近くに転がっていた鉄パイプを槍のように投げつけた。
ギュンッ! という風切り音と共に、鉄パイプは正確に銃座の一つを貫き、火花を散らして沈黙させる。返す刀で、壁を蹴って跳躍し、残りの銃座を素手で次々と破壊していく。それはもはや戦闘ではなく、ただの作業だった。数秒後には、廊下には沈黙と、壊れた機械の残骸だけが残された。
「…あれが、噂に聞く『不死身の田中』の力か…常軌を逸している…」
黒服の一人が、呆然と呟く。他の者たちも、言葉を失い、目の前の現実を受け止めきれないといった表情だ。凛は俺を見て呆れた表情をしながらもどこか心配そうな目をしていた。
「こんなもので時間を食っている場合か。さっさと行くぞ」
俺は彼らを促し、再び施設の奥へと進む。凛が手元の端末で必死に何かを探り、俺たちを先導する。彼女のナビゲートに従い、迷路のような薄暗い廊下を抜け、施設の最深部である巨大な手術室のようなホールへとたどり着いた瞬間だった。
ガシャアァァンッッ!!
けたたましい金属音と共に、俺たちの背後の通路が、まるで巨大な獣の顎のように、分厚い耐爆シャッターで完全に封鎖されたのだ。同時に、ホールの中心に鎮座する、棺桶にも似た巨大なカプセル――『ゼロ・レクイエム』が、禍々しい紫色の光を放ち始めた。その光から、まるで水面に広がる波紋のように、目には見えない何かがゆっくりと、しかし確実に広がってくるのを感じた。
「ぐ…っ…あ……あぁ……」
今度は黒服たちが、先ほどの銃撃戦での緊張感とは全く異なる様子で、一人、また一人とその場に崩れ落ちる。その表情に苦痛の色は一切ない。むしろ、この世の至福を味わっているかのような、恍惚とした笑みを浮かべていた。彼らは、この不可視の精神攻撃には抗えなかったようだ。
「田中…さん……私…なんだか、すごく…幸せな…気分……」
凛もまた、ふらりと膝をつき、焦点の定まらない虚ろな目で宙を見つめている。その頬はほんのり赤く染まり、口元には微かな笑みが浮かんでいた。
『ようこそ、田中一郎君。そして、相沢のお嬢さん…はもう夢の中か。ここが私のささやかなる理想郷――魂の安息地、ゼロ・レクイエムだ』
壁に埋め込まれたスピーカーから、あの神経質そうな、しかし今は愉悦に満ちたDr.骨川の声が響き渡る。まるで劇場で観客を迎える支配人のように、その声はねっとりと、そして確信に満ちていた。
「ほざけ。こんな子供騙しのまやかしで、この俺を殺せるとでも思っているのか!」
俺は怒声と共に、『ゼロ・レクイエム』本体へと疾走し、渾身の右ストレートを叩き込んだ。いつもの俺ならば、この程度の機械、いや、戦車ですら一撃でスクラップにできるはずだ。しかし、ゴッという鈍い衝撃と共に俺の拳が装置の表面にめり込んだ瞬間、感じたのはこれまでにない違和感だった。いつものように鋼鉄を紙屑のようにたやすく破壊する、あの圧倒的なパワーが、まるで霧散するように湧いてこないのだ。
『フフフ…無駄だよ、田中君』骨川の声は、スピーカー越しにも明らかな嘲笑を含んでいた。『君もまた、ゼロ・レクイエムの影響を色濃く受け始めているのだ。君のその規格外の力の源泉…そのあまりに巨大で純粋な「異世界に行きたい」という欲望と、それが「絶対に叶わない」という冷厳な現実との間に生じる、巨大なエネルギー的『矛盾』。それこそが君を不死身たらしめていた。だが、この装置はその『矛盾』そのものを中和し、調律する。君の願いが『叶うかもしれない』という、ほんの僅かな希望の光そのものが、皮肉にも君を弱体化させているのだよ』
『考えてもみたまえ。君が本当に、心の底から「この世界はクソで、異世界こそが至高」と信じ、「必ず転生できる」と確信したなら、君の魂はもはやこの現実に留まる理由を失う。そうだろう?』
ホールの壁上部に設置された大型モニターが不意に点灯し、そこにDr.骨川の歪んだ笑みを浮かべた顔が映し出された。彼は、まるで舞台役者のように芝居がかった仕草で、モニターの向こうから俺たちを見下ろしている。その目は、獲物を弄ぶ蛇のように冷たく、それでいて狂信者のように熱っぽく輝いていた。
『だが、救済の道は残されているよ、田中君。君が自らあの装置の中核に身を捧げ、その全てのエネルギーを一身に受け止めるならば…後ろにいる哀れな子羊たちは、この甘美な悪夢から解放されるだろう。そして君は…そう、君は本当に、君の魂が焦がれてやまない、あの輝かしい異世界へと旅立てるのだ。さあ、選びたまえ。名もなき英雄として仲間を救い、そのついでに長年の夢を叶えてみるというのは、なかなかどうして、悪くない取引ではないかね? 死にたがりの君にとっては、最高の選択だろう?』
骨川は、俺の最も深い願望を的確に突き、甘言を弄して誘惑する。
俺は忌々しげに舌を打ち、傍らで幸せそうな、どこか幼い寝顔で立ち尽くす凛を一瞥した。面倒なことこの上ない。俺はただ死にたいだけなのに、なぜこうも他人の事情に巻き込まれねばならんのだ。凛もこの程度の精神攻撃でやられやがって。「ひとりにはしない」とか言ってたのは嘘だったのかよ。だが、このクソみたいな状況を打開するには、この狂った医者の茶番に乗るしかないのも事実。そして何より――俺の魂の奥底が、その『救済』という名の、これまでとは全く質の異なる『死』の可能性を試してみろと、けたたましく警鐘を鳴らし、同時に歓喜の叫びを上げていた。
「…面白い。実に面白いじゃねえか、ドクター骨川。お前の言う『救済』とやらが、本物の天国か、あるいはただの地獄か、この俺がその身で味わってやるよ」
俺は覚悟を決め、まるで断頭台へ向かう罪人のように、しかしその表情には不敵な笑みを浮かべ、ゼロ・レクイエムへとゆっくりと、一歩一歩踏みしめるように歩み寄った。
ついに、俺の指先がゼロ・レクイエムの冷たい金属表面に触れた。するとカプセルが開き俺を強化ガラスで包み込む。
その瞬間、俺の世界は眩いばかりの純白の光に塗りつぶされた。あらゆる音も、感覚も消え失せ、ただ無限の光の中に漂っているような、奇妙な浮遊感だけがあった。
――どれほどの時間が過ぎたのか。
ふと気がつくと、俺は鬱蒼とした、しかしどこか神々しい雰囲気さえ漂う森の中に立っていた。木々の葉の間からは柔らかな陽光が差し込み、小鳥のさえずりが耳に心地よい。そして、右手には、まるで最初から俺の体の一部であったかのようにしっくりと馴染む、白銀に輝く聖剣が握られていた。その剣からは、凄まじいまでの魔力が脈動しているのが感じ取れる。
「マスター! ご無事でしたか! 心配いたしましたわ!」
鈴を転がすような愛らしい声と共に、金色の長い髪を風に揺らし、透き通るような翠色の瞳を持つ、尖った耳のエルフの美少女が、胸を揺らしながら俺に駆け寄ってくる。その豊満な胸は薄手の緑の衣服の上からでも明らかで、彼女の真剣な表情とは裏腹に、俺の視線を釘付けにする。
「イチロー様、ご命令を。このわたくし、シルヴィアが、この剣に懸けて、いかなる敵も切り伏せてご覧にいれましょう」
背後からは、凛とした、それでいてどこか色香を感じさせる声がした。振り返れば、月光を思わせる銀色の髪をポニーテールにし、騎士団のものと思われる美しい装飾の施された鎧に身を包んだ、抜群のプロポーションを誇る女騎士が、恭しく片膝をついている。その大きな瞳は俺だけを真っ直ぐに見つめ、絶対の忠誠を誓っているかのようだ。
「にゃにゃーん! いちろー様、だっこー!」
不意に、腰のあたりに柔らかな感触と共に、甘えた声がした。見下ろせば、ふわふわの猫耳と愛らしい尻尾を生やした、快活そうな獣人の少女が、大きな瞳をウルウルさせながら俺の足にじゃれついている。その無防備な姿は、庇護欲を激しくかき立てる。
エルフ、女騎士、獣人。それぞれタイプの違う、しかし誰もが絶世の美貌とスタイルを誇る少女たち。そして、彼女たちは皆、俺を「マスター」「イチロー様」と呼び、絶対の信頼と好意を寄せている。
そうだ。これだ。これこそが、俺が3年間、いや、物心ついた頃から血反吐を吐くような思いで求め続けてきた、理想の世界の光景なのだ。
俺はチート能力を秘めたこの聖剣を振るい、立ちはだかる魔物どもを一瞬で薙ぎ払い、彼女たちの熱い喝采を浴びる。夜になれば、俺のために用意された豪華な城で盛大な宴が開かれ、俺の周りには、俺だけを慕い、俺のためならどんなことでもしてくれるであろう、夢にまで見たハーレムが築かれていくのだ。
(最高だ…! これが、俺の求めていた全てだ…! 現実世界のクソみたいな日常など、もうどうでもいい…!)
俺の意識は、脳が焼き切れるような、甘美で強烈な至福の感覚にゆっくりと溶けていく。このまま、この永遠に続くかのような幸福の中で、俺は…消えてなくなるのだ…。