第十一話
あれから、数ヶ月が過ぎた。
俺、田中一郎は、いつの間にか裏社会で「不死身の田中」という、実に不名誉なあだ名で呼ばれるようになっていた。相沢玄道が次から次へと持ってくる「厄介事」を、俺はただ「死ねるかもしれない」という一心で片っ端から片付けていった結果だ。
メキシコの麻薬カルテルが日本に持ち込んだ新型ドラッグの製造工場を、単身で乗り込み壊滅させた時も。「死ね!死ね!この化け物がぁ!」と叫ぶ構成員たちが撃ちまくる銃弾の雨の中を歩きながら、俺はただ「ああ、この程度か…」とあくびを噛み殺しただけだった。流れ弾の一つでも頭を貫いてくれれば儲けものだと思ったが、俺の頭蓋骨は鉛玉をことごとく弾き返した。
都心で計画されていた大規模な爆弾テロを阻止した時も。時限爆弾の解除方法など知る由もない俺は、タイムリミットがゼロになるのと同時に、爆弾を抱きしめてその爆心地に身を置いた。凄まじい轟音と熱波。周囲のビルが揺れ、アスファルトが捲れ上がるほどの威力だったが、俺は煤まみれになっただけで、またしてもピンピンしていた。俺の肉体は、至近距離での爆発すら、軽い打撲程度の衝撃に変換してしまうらしい。
挙げ句の果てには、暴走した政府系の新型無人戦闘兵器を無力化してくれ、などという無茶な依頼まで来た。レーザー兵器が空を焼き、ミサイルが雨のように降り注ぐ中、俺はただ、その兵器に向かって真っ直ぐ走り、分厚い装甲を素手で引き剥がし、内部の動力炉を引っこ抜いただけだ。兵器はスクラップになり、俺はと言えば、肩のワイシャツがまた少し破れただけだった。
どんな死地でも、どんな極限状況でも、俺は死ねない。その厳然たる事実が、積み重なる「武勇伝」と共に、俺の心を絶望の淵へと追いやっていく。俺が求めているのは名声でも金でもない。ただ確実な「死」と、その先の輝かしい異世界転生だけなのだ。
◇ ◇ ◇
相沢邸の一室。田中一郎がいつものように無傷で、しかし心だけは深く傷ついて帰還する。その姿を、相沢凛は静かに見つめていた。彼女は、もはやただ守られるだけの少女ではない。明晰な頭脳と相沢家の情報網を駆使し、作戦立案から事後処理までをこなす、田中の不可欠な「仕事のパートナー」となっていた。
「田中さん、お疲れ様です。今回の件の報告書、まとめておきました」
凛が差し出した資料に目をくれることもなく、田中はベッドにその巨体を投げ出した。「ああ…」という生返事だけが、重く部屋に響く。また死ねなかった。その無力感が、彼の全身から滲み出ていた。
凛には、分かっていた。
(この人は、また傷ついている…)
彼の「死にたい」という常軌を逸した願い。その根源が、誰にも理解されないという、あまりにも深い孤独と絶望にあることを。強すぎる力は彼を人間から引き剥がし、この世界でたった一人にしてしまった。彼の剥き出しの願望は、その裏返しにある魂の叫びなのだと、凛は理解していた。だから、自分だけは。
凛は彼の隣にそっと腰を下ろし、その背中に、決意を込めて手を置いた。
「あなたのその『死にたい』という願いは、きっと…誰にも分かってもらえない、という悲しみから来ているんですね。この世界に、たった一人でいるような…そんな孤独から」
「…うるさい」
背を向けたままの、拒絶の言葉。だが、凛は引かなかった。
(私が、彼の隣にいよう。決して、一人にはしない)
その誓いが、彼女の口から、はっきりと、そして震えながらも強い意志を持った言葉となって紡がれる。
「いいえ。私は、ここにいます。田中さん。あなたを決して一人にはしません。だから…だから、死にたいなんて、もう言わないでください」
それでも黙ったままの田中を見て、凛は何かを堪えるように唇をきつく結んだ。そして、名残惜しそうに一度だけ振り返ると、静かに部屋を出て行った。
◇◇◇
凛が部屋を出て行ってからもしばらく、俺はベッドに横たわったままだった。
一人にはしない、だと?
ちゃんちゃらおかしい。余計なお世話だ。俺は一人で死に、一人で転生する。それだけが俺の望みで、そこに他人の入り込む余地などない。
そう一蹴するはずなのに、凛が部屋から出て行ったはずなのに、背中に置かれた手のひらの熱が、まるで焼き印のように消えない。なんだ、この感覚は…? 鬱陶しい、邪魔だ、そう思う一方で、その温かさの残滓が、冷え切った心の一部をじわじわと侵食してくるような、今まで経験したことのない気色の悪さがあった。
孤独。
その言葉が、頭の中で反響する。俺は孤独など望んでいる。静かで完璧な、誰にも邪魔されない死を迎えるために。なのに、なぜあの言葉が、あの温もりが、こうも思考をかき乱す? 自分の確固たるはずの願いが、まるで足元から揺さぶられるような、ひどい船酔いにも似た感覚。
クソ。面倒なことになった。
俺の願いは「異世界ハーレム」。それは間違いない。それなのに今は凛の言葉が頭が離れない。これは、一体どういうことだ…?
◇ ◇ ◇
その頃、警視庁の一室では、後藤警部が苦虫を噛み潰したような顔で、目の前の男と対峙していた。男は、内閣情報調査室、通称「内調」の人間だった。
「後藤警部、ご理解いただきたい。例の『不死身の田中』…我々は、彼の存在を『戦略的災害兵器』と見なしています。一個人の手に余る、国家が管理すべき対象です。速やかに彼の身柄を確保し、我々に引き渡していただきたい」
「兵器、だと…? 馬鹿を言え、彼は人間だぞ!」
後藤が声を荒らげると、内調の男は冷たく言い放った。「法や秩序が通用しない存在を、我々はそう呼びます。これは、命令ですよ、後藤警部」
法と秩序を守る刑事としての矜持。そして、国家の非情な実利。その間で、後藤は激しく苦悩していた。(…奴を、国のおもちゃになどさせてたまるか。この件、俺のやり方で決着をつける…!) 後藤は、静かに拳を握りしめた。
◇ ◇ ◇
水面下での様々な思惑を嘲笑うかのように、新たな事件が起きた。相沢家と長年対立していた広域暴力団組織が、一夜にして壊滅したのだ。それも、極めて奇怪な形で。構成員たちは皆、外傷もなく、ただ魂だけを抜き取られたかのように、生きたまま抜け殻になっていたという。
凛は、相沢家のデータベースにアクセスし、凄まじい集中力で情報を分析していた。
「…この特異な脳波の残滓…田中さんがトラック事故の後に搬送された病院で、精密検査の際に記録されたデータと酷似している…!」
彼女の指が、キーボードの上で激しく踊る。やがて、彼女の動きがピタリと止まった。画面には、一つの計画名が映し出されていた。
『プロジェクト・ゼロ・レクイエム』
凛は、その計画の恐るべき全貌と、最終標的が誰であるかを知った。彼女はゆっくりと顔を上げ、ベッドの上で天井を眺めていた俺のほうを真っ直ぐに見つめた。その瞳には、恐怖と、怒りと、そして確固たる決意が宿っていた。
「田中さん。見つけました。あなたを狙う、本当の敵を」
その言葉に、俺は初めて体を起こした。
「ほう…そいつはどこにいる? 今度の奴は、核爆弾でも打ち込んでくれるのか?それとも異世界へのゲートをもった賢者様か?ついに神が俺を見つけてくれたのか?」
「彼のやり方は、もっと…陰湿で、根本的です。田中さん、あなたを最初に診察した医者のことを覚えていますか?」
「医者? ああ、トラックに轢かれた後の…やけに神経質そうな、骨川とかいう奴か」
「はい。そのDr.骨川こそが、全ての黒幕です」
凛は手元のタブレットを操作し、俺に向けた。
「Dr.骨川は、苦痛に満ちたこの現実から全人類を解放し、個々の欲望が完全に満たされる夢の中…内的宇宙へと導くことこそが『救済』だと信じているんです。彼がその理論を完成させるための唯一無二のサンプルが、田中さん、あなただった」
「なんだそいつはラノベの悪役みたいなやつだな。そんなことが現実に起こると思うのか?」
俺は凛の言葉を一笑に付した。
「田中さん真剣に聞いてください!Dr.骨川の仮説はこうです。『強すぎるエロス(生の欲望)は、物理世界を改変する』。そして、あなたの『異世界転生してハーレムを築きたい』という強烈な欲望こそが、その不死身の肉体を生み出す力の源泉だと、彼は結論付けました」
凛は続けた。
「同時に、あなたの無意識は理解している。『異世界転生など、現実にはあり得ない』と。この『絶対に叶えたい夢』と『絶対に叶わない現実』の巨大な矛盾こそが、あなたの力の正体なんです」
俺は、初めて自分の力の根源を、他人の口から聞かされた。
(…なるほどな。俺の異世界転生とかいう下らない妄想が、物理法則を捻じ曲げるほどのエネルギーを生み、この化け物じみた身体を作っている、と。馬鹿馬鹿しい。まるで出来の悪いラノベの設定だ。だが、面白い。実に面白いじゃねえか、Dr.骨川。俺の存在をそこまで解き明かしたその執念、少し気に入った)
「そして、Dr.骨川は、その矛盾を逆手に取って、あなたを殺すための装置を完成させました。精神共鳴炉『ゼロ・レクイエム』です。」
タブレットには、巨大なカプセルのような装置の設計図が表示された。
「この装置は、あなたの望む完璧な異世界ハーレムを幻として見せ、至上の幸福を体験させます。ですが、それと同時に、その幸福が偽物であるという事実をあなたの魂に直接叩き込む」
「行き場を失った絶対的な幸福感は、その瞬間に反転し、自己破壊衝動を誘発する。あなたは、人生で最も幸せな瞬間に、自ら進んで、穏やかな『死』を選ぶことになるのです」
俺は、思わず笑みを漏らした。
(そうか。俺のどうしようもない欲望が、俺をこの世界に縛り付けていたのなら話は早い。その欲望の果てに、俺を殺すための『解答』が用意されているというのか。上等だ。神か悪魔か知らんが、ずっと待っていたぞ。俺は、お前のような救世主が現れるのを!)
「…ククク。面白い。最高の幸福の中で死ねる、だと? そんな都合のいい話があるなら、ぜひ体験してみたいものだ!」
「田中さん!」
凛が悲鳴のような声を上げた。
「目を覚ましてください! それは救済なんかじゃありません! あなたは異世界になど行けず、ただ無に帰るだけなんですよ!」
その時、書斎のドアが静かに開き、相沢玄道が姿を現した。
「…くだらん。田中一郎は、我が相沢家の『力』だ。得体の知れないカルト教祖の妄想のために、みすみす手放すつもりはない。田中一郎、貴様の仕事だ。そのふざけた『救済計画』とやらを、根こそぎ叩き潰してこい」
玄道の命令。凛の悲痛な叫び。そして、俺の心に芽生えた、新たな好奇心。
「いいだろう」
俺は立ち上がり、獰猛な笑みを浮かべた。
「その『救済』とやらが、本物かどうか、この身で確かめさせてもらう。行こうぜ、凛。俺を殺してくれるかもしれない救世主様に、挨拶しに行くとしよう」
俺の「死ねない」日常は、ついに、その終わりを懸けた最終局面へと、突入しようとしていた。