第九話
相沢邸での最初の「仕事」を終えてから数日。俺、田中一郎は、相沢玄道から特に新たな指示もなく、相変わ沢邸の一室を与えられ、退屈な日々を過ごしていた。もちろん、その間も俺は自主的なトレーニング(という名の死に場所探し)に余念がなかったが、屋敷の厳重なセキュリティと、どこからともなく現れる黒服たちの監視の目は、俺の自由な「死ねる活動」を著しく制限していた。
(このままでは、飼い殺しならぬ「生かさず殺さず」状態だ…! 玄道の奴、俺に『死ねるかもしれない状況』を提供すると言った舌の根も乾かぬうちに、この体たらくとは!)
そんな不満を胸に、俺が屋敷のトレーニングルームで自重の10倍ほどのバーベルを持ち上げ、天井に叩きつけようとしていた(もちろん、頑丈な天井なので無駄な行為だが)まさにその時、執事のじいやが静かに入室してきた。
「田中様、お客様がお見えです。警視庁の…後藤様と仰る方が」
「後藤…? ああ、あの時の刑事か。何の用だ?」
俺の脳裏に、あの鋭い目つきの初老の刑事の顔が浮かんだ。トラック事件の時に、やたらと俺の「無事だった理由」を詮索してきた男だ。
応接室に通されると、そこには相変わらずくたびれたスーツを着た後藤警部が、険しい表情でソファに腰掛けていた。彼の前には、相沢玄道が悠然と座り、紫煙をくゆらせている。なんとも絵になる悪の親玉とベテラン刑事の対峙だが、俺にはどうでもいい。
「田中一郎君、だったかな。久しぶりだな」
後藤警部は、俺の姿を認めると、わずかに眉をひそめた。
「刑事さんが、こんな場所に何の用です? 俺はただの居候ですよ。そろそろ次の死に場所を探しに行きたいんですがね」
「居候、ね。その割には、随分と物騒な噂が君の周りには絶えないようだが」
後藤警部の言葉には棘があった。
「先日、管内で暴力団組員が多数、再起不能に近い形で発見されるという事件があってね。負傷者たちの証言がまた面白い。『とんでもない化け物に一瞬でやられた』だの、『人間じゃなかった』だの…まるでB級ホラー映画のようだ」
後藤警部は、じろりと俺を一瞥した。
「そして、その事件の少し前、この相沢邸の周辺でも、不審な車両の出入りや、何やら揉め事があったような通報がいくつか寄せられている。何か心当たりは?」
「さあ? 俺は毎日、強くなるための修行と、どうすれば効率よく死ねるかの研究で忙しいんでね。チンピラの喧嘩なんぞに構っている暇はないですよ」
俺はしらを切った。玄道との契約もある手前、余計なことを喋るつもりはない。
「田中君、君があのトラック事故で無傷だった件、そして先日、白昼堂々スナイパーに狙撃されながらもピンピンしていたという目撃情報もある。君のその異常なまでの頑丈さと、今回の事件。何か関係があると考えるのが、刑事の勘というものだ」
後藤警部の追求は鋭い。スナイパーの件まで掴んでいるとは、さすがベテランといったところか。
「勘ですか。結構ですね。ですが、俺は被害者ですよ? それとも、俺が犯人だとでも?」
「今のところはな。だが、君はあまりにも『普通』ではない。そして、この相沢邸もまた、『普通』ではない空気に満ちている」
後藤警部の視線が、玄道に向けられた。
玄道は、まるで他人事のように葉巻を燻らせていたが、ここで初めて口を開いた。
「後藤警部殿、我が家が何やら事件に関与しているとでも仰りたいのかな? それは心外だ。我々は常に法を遵守し、社会貢献に努めている善良な市民ですよ。この田中君も、娘の友人で、しばらく我が家に滞在しているだけの好青年だ」
その言葉のどこに真実があるというのか。俺は思わず吹き出しそうになった。
「好青年、ねえ…」後藤警部は明らかに納得していない様子だったが、玄道の醸し出す威圧感に、それ以上踏み込むのを躊躇っているようにも見えた。「田中君、君に一つだけ忠告しておく。君のその力は、使い方を誤れば、君自身を破滅させることになる。そして、君が今足を踏み入れている世界は、一度入ったら容易には抜け出せない、底なしの沼のような場所かもしれんぞ」
それは、刑事としての警告か、あるいは個人的な老婆心か。
「破滅、ですか。大歓迎ですよ。それが俺の望む『最高の死』に繋がるならね」
俺の返答に、後藤警部は深いため息をつき、諦めたように立ち上がった。
「…今日のところはこれで失礼する。だが、我々は君と、この屋敷の動向を注視させてもらう」
そう言い残し、後藤警部は応接室を後にした。
「ふん、嗅ぎ回る犬というのは厄介なものだな」
玄道は、後藤警部の背中を見送ると、つまらなそうに呟いた。
「旦那、あの刑事、何か掴んでるんですかね?」
「多少はな。だが、心配するな。警察ごときに、我が相沢家の牙城を崩すことはできんよ。それよりも田中一郎、お前に新たな『仕事』を頼みたい」
玄道の目が、再びあの冷酷な支配者のそれに変わった。
「次の獲物は、蛇塚組の背後にいる、もっと大きな組織だ。奴らは、我が家の『事業』にとって、少々目障りでね。徹底的に叩き潰し、その過程で、奴らの持つ『情報』をいくつか手に入れてきてもらいたい」
「情報? 俺はスパイじゃないんだが」
「案ずるな。お前はただ、暴れてくれればいい。情報の回収は、別の者が行う。お前の役目は、奴らの戦力を削ぎ、混乱を引き起こし、我々の『専門家』が動きやすい状況を作り出すことだ」
玄道の言葉は、俺の闘争本能を再び刺激した。
(なるほど、陽動兼破壊工作か。悪くない。派手にやれば、その分、死ねるチャンスも増えるかもしれん…!)
「いいだろう。その仕事、引き受けた。ただし、報酬は期待させてもらうぞ。俺を満足させるだけの『危険』と『スリル』、そして『死ねるかもしれない最高の舞台』をな」
「無論だ。期待以上のものを用意してやろう」
玄道は、不気味な笑みを浮かべた。
こうして、俺は再び、血と硝煙の匂いがするであろう戦場へと送り出されることになった。後藤警部の忠告など、俺の耳には届いていない。俺の心は、ただひたすらに、次なる「死」への期待に満ち溢れていた。
そして、その頃、警視庁の一室では、後藤警部が部下に指示を出していた。
「相沢邸と田中一郎の監視を強化しろ。あの男は、間違いなく何か大きな事件の渦中にいる。そして、我々が手出しできない『何か』が、あの屋敷には潜んでいる…」
彼の長年の刑事の勘が、かつてないほどの危険な警鐘を鳴らしていた。