第3話
見たこともない部屋で寝込みながら、前日の自分の所業を振り返ったあの日から、数日が経った。
そして今、俺はいかつい父と母に連れられ、市場を歩いている。
起き上がってみると、父やおばちゃんの顔がやたらと上にあることに気づき、食事のときに自分の手が小さいのにも気づいた。走るとすぐ転ぶし、息も上がる。どうやら俺の身体は幼児に戻ってしまったらしい。
決定的だったのは、中庭の水たまりで見た自分の姿だった。こういうのをなろう小説では異世界転生というのだろうが、まさか本当になるとはな・・・。
もちろん、まだ大人のような口調は出せずに舌っ足らずな声しか出ない。けれど前世の知識は失わないよう、毎日思い出しては反芻している。今はあえて文字にするわけにもいかない。下手に目立ちすぎると、生贄にされかねないからな。
少なくとも、この世界がアステカ文明に近い何かだという当たりはついてきた。
やたら長い名前の多神教、カラフルな羽飾り、遠くに見える階段ピラミッド。そして決め手は車輪を見かけず、刃物は黒曜石らしいこと。
マヤかアステカか、いずれにせよ元いた地球に近い並行世界みたいだ。魔法やエルフ、ドワーフがいないのは少し残念だと思った。
市場の活況は、いつかテレビで見た光景と大差ない。町の中心らしきところに多くの露店が並び、人と荷物がひっきりなしに行き交っていた。
ただ、売られているのはカラフルな布や陶器、宝石類、それにトウモロコシばかりで、デジタル機器や土産物の類は一切見当たらない。
そんな雑踏を興味津々に見渡していた俺だったが、最初に気づいたのは目より鼻だった。
ある店先から漂ってくる、どこかで嗅いだことのある匂い――酒蔵かワイナリーのような、いわゆる発酵臭。
パン種の発酵にも似ているが、この世界では主食はパンじゃなくてトルティーヤに近いものなのだ。となれば答えは一つ。そう、これは酒の匂いだ!
気づいた瞬間、あの日階段から転げ落ちて以来、わずか数日しか経っていないはずなのに、まるで数百年も経ったような飢餓感に襲われた。
酒だ、酒が飲みたい。
もちろん、5歳児に酒を飲ませてくれる大人なんているわけがない。
それに金銭や交換の手段だって持たない子どもが、単独で酒を入手できるとも思えない。
でも、俺には目論見がある。5歳児の「いたずら」くらいなら、さすがに即死刑になったり手首を落とされたりはしない・・・はずだ。
それだけのリスクを負ってでも、酒には価値がある。俺の身体がそう叫んでいるのだから仕方ない。
そうして両親が知り合いと話し込んでいる隙を見て、発酵臭の漂う壺に手を突っ込み、その液体を少しすすってみた。
饐えたような酸味に、わずかな甘み――どこか物足りないが、間違いなくアルコールだ。テキーラはおろかビールにも及ばないが、この味と香りこそ俺が欲していたもの!
じんわりと酩酊感が広がり、軽く頭がくらくらしてくる。小さい身体だから耐性が低いのだろう。もう一口、もう一口だけ・・・と思ったところで、
殴り飛ばされた。
現代の日本なら幼児虐待で大問題だろうが、神に生きた心臓を捧げるような社会では、そんな概念は通用しない。
父は容赦なかった。たっぷり殴られたあげく、唐辛子の煙を吸わされて土の床に丸一日転がされる頃には、酩酊感なんてとっくに飛んでいた。
もちろん痛いし苦しい。だがそれ以上に、俺の中で酒造りへの情熱に火がついた瞬間でもあった。
二日酔いよりはるかに苛酷な代償だったが、5歳児の身に刻まれたこの経験は、のちの人生を大きく変えることになる・・・たぶん。