120話 向日葵畑の向こうへ
ハイエルフの男は故郷を目指していた。
男は先の大戦で多くの、大きいものを失った。
住んでいた大切な町。
大事にしていた家族。
かけがえのない友。
戦争は男の幸せなものをことごとく奪った。
戦火が男の幸せを焼き尽くした。
男は全てを失った。
そして深い絶望に苦しんだ末に、遠い記憶を思い出した。
小さい頃に暮らしていた村落。
そこで小さかった少年達が向日葵畑で遊んでいた記憶。
無邪気に幼馴染達と鬼ごっこをしていた記憶。
それは遠い過去。
幾千の歳月が過ぎ去っていた。
村から出て、いったいどれだけの時が流れたのか、男は覚えていない。
だが全てを無くした今、無性に故郷が懐かしくなった。
小さな村だ、もう誰も住んでいないだろう。
きっと草木が生い茂って跡形もなくなっているだろう。
だがあの頃に、無邪気に笑い合った幼馴染は今どうしているだろうか。
誇りまみれになった身体を小川で洗ってくれた母を思い出す。
魔法書を夜遅くまで読み耽っていたら、よく叱られたな。
父はまるでドワーフかのように頑固だった。
黙々と釣りをしていた背中を思い出す。
故郷に帰りたい。
あの向日葵畑はまだあるのだろうか。
そこにあの頃の風景の断片は残っているだろうか。
ハイエルフの男は故郷へ帰る旅をしていた。
凍てつく冬を何度も超えながら、険しい雪山を登る。
水一つない砂漠の広原を辛い渇きに耐えながらも歩き続けた。
旅に出てから何年経ったのだろうか。
遠いだけが記憶を頼りだった。
もう地図にすらない場所。
あてもない旅路であった。
そこに辿り着いても何もないことは自覚していた。
いったい故郷に何故向かっているのか、男は答えを出せないでいた。
ただ懐かしくなったからだけではない。
あの日の夏の薫り、ひぐらしの鳴き声、記憶のなかで無邪気に笑っていた自分に会いたかった。
もう取り戻せないことはわかっている。
けど会いに行かなければいけないと思った。
向日葵畑を駆けている自分に向き合わなければならない。
長い時を生きて、本当の自分の宝物がそこにはあると気付いたのだ。
果てしなく続く地平線の先を男は歩み続けた。
着ていた服もボロボロになっていた。
靴は何度も履き替えた。
男は諦めなかった。
東の果てにある険しい山脈の麓に、流れるように辿り着いた。
もう村は残っていなかった。
山林に覆われていた。
それを目の前にして、渇いた笑みを浮かべる。
そこは確かに男の故郷だった。
残機の念に駆られる。
いつも手遅れだな、俺は……。
そこにひぐらしの鳴き声が耳に障る。
相変わらず五月蝿い虫の鳴き声だ……。
……相変わらず?
男は顔を上げ、ひぐらしが鳴く先へと足を運ぶ。
高く生い茂る野草を掻き分けながら、音の咲へと向かう。
男の目の前には一輪の向日葵の花が咲いていた。
だが、男には向日葵畑が映っていた。
無邪気に笑う小さな自分がいた。
思わず男は泣き崩れた。
遅くなってごめんなぁ……。
ひぐらしが譚詩曲を奏でていた。
大事に、大事に一輪の向日葵に震える手を伸ばした。
刹那、男の目の前の光景は豪雷によって焼き尽くされた。
そして遅れてやってくる鼓膜を破るような轟音。
眼前の光景が、郷愁の想いが、幼き頃のかけがえのない記憶が、割れたガラスのようにガラガラと音を立てて崩れ落ちた。
燃え盛る炎が大地を、全てを焦土に変えている。
男は心が真っ白になった。
大地を抉りながら、空からミュラーが飛び降りた。
「探したぞ、バリオス。仲間の仇、そして真理の欠片を頂く」
ミュラーによってかけがえのないものを奪われたバリオスは憤怒に震えていた。
そして低い、低い声で殺意の籠った言葉を漏らす。
「……ブチ殺す……」
向日葵の花は散っていた。




