消えた願いごと
「この装置に手をかざし、願いを言ってください」
科学者が誇らしげに説明する。新しく発明されたこの機械は、どんな願いも一つだけ叶えることができるという。
発表会場は大いに沸いた。
「病気を治す」
「お金持ちになる」
――人々は次々と願いを口にし、その装置が本物か試そうと躍起になった。
だが、僕の願いは決まっていた。「世界平和」。
この願いが叶えば、全ての争いが終わるはずだ。
いよいよ順番が来た。僕は胸を張り、装置の前に立った。そしてゆっくりと手をかざし、力強く言った。
「世界平和を願います!」
しかし、装置はピクリとも動かない。それどころか、画面に文字が浮かび上がった。
「その願いはすでに使用されています」
僕は驚き、科学者に詰め寄った。
「どういうことですか?誰かがもう『世界平和』を願ったんですか?」
科学者は困ったように答える。
「願い事の記録は残らない仕組みになっています。誰が何を願ったのかは、装置にもわからないんです」
僕は納得できなかった。
「それじゃあ、本当に『世界平和』が叶っているのか、どうやって確認するんです?」
科学者は沈黙した。
その夜、僕は眠れなかった。
もし誰かが本当に世界平和を願っていたのなら、なぜ今も戦争や争いが続いているのか?
翌朝、僕は答えを探すため、装置の開発者に直接会いに行った。
開発者は老齢の科学者だった。彼は僕の質問を聞くと、苦笑して言った。
「たぶん君が考えている通りだよ。その願いは『叶っていない』んだ」
「でも、なぜですか?装置は願いを叶えるはずでしょう?」
科学者はゆっくりと答えた。
「問題は、願いの内容だ。この装置はあくまで『願いを具体的に実現する』ものだ。だが、『世界平和』のような抽象的で広範な願いには、装置がどう動くべきか判断できないんだよ」
「じゃあ、世界平和を願った人の願いは…?」
「おそらく無効化されたんだ。装置は何もせず、そのまま願いを消してしまった」
僕は失望しながらも考えた。
ならば、もっと具体的な願い僕は考えた。装置が具体的な願いしか叶えられないのなら、平和につながる小さな願いを一つ一つ実現すればいいのではないか、と。
翌日、再び装置の前に立った。今度の願いはこうだ。
「全ての銃を消してください。」
装置はしばらく唸りを上げた後、冷たい文字を浮かび上がらせた。
「その願いはすでに使用されています」
まただ。まさかこれも誰かが願ったのか?
僕は別の願いを試した。
「全ての戦争を止めてください。」
しかし結果は同じだった。
「その願いはすでに使用されています」
僕は混乱し始めた。一体、誰がこのような願いをし、なぜ何も変わっていないのか?
その夜、僕は開発者に再び会いに行った。彼は静かに紅茶を飲みながら、僕の話を聞いた後、ため息をついた。
「おそらく、その願いを叶える前提条件が満たされていないんだろう。」
「どういうことですか?」
「例えば、全ての銃を消すと願った人がいたとする。でも、それを実現するには、まず銃を使う人々の間にある敵意や憎しみを取り除かないと意味がないだろう?装置はその矛盾を検知して、願いを実行できなかったのかもしれない。」
「じゃあ、結局何も変わらないってことですか?」
科学者は静かにうなずいた。
「そうだ。願い事が複雑であればあるほど、その根本的な問題を解決する具体的な手段が求められる。この装置は、万能ではない。」
僕はその言葉に失望しつつも、もう一度挑戦してみようと決意した。今度こそ叶う具体的な願いを考えるんだ。
翌日、装置の前に立った僕は、大きく息を吸い込み、手をかざした。
「この世の全ての人間に、他者を思いやる心を与えてください。」
静寂が訪れ、装置は唸りを上げ始めた。そして、またしても表示されたあの文字。
「その願いはすでに使用されています」
僕は膝から崩れ落ちた。結局、どんな願いもすでに誰かが試していて、何も変わらない。平和への道は遠い。
帰り道、僕は深い絶望を抱えて歩いていた。だが、その時ふと気づいた。もし装置が誰かの願いを叶えていたとしたら、それはほんの小さな変化を起こしているのではないか、と。
例えば、今日見かけた親子の笑顔。昨日助けてくれたあの人の親切心。もしかすると、それが願いの結果なのかもしれない。
世界は一気に変わらない。でも、誰かが願った小さな変化が、ゆっくりと積み重なっているのかもしれない――そう信じたくなった。
僕はまた装置の前に立ち、手をかざした。
「明日も、この世界がほんの少しでも優しくなりますように。」
装置は静かに動作し、ついに表示が現れた。
「願いを受理しました。」
僕は笑顔でその場を後にした。世界はきっと変わる。少しずつでも。