表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
魔女と狼は月下で笑う  作者: 庄司 篁
実月 試験と転機
55/60

第53話 心に触れる

 エリーヌは馬車の扉が開くと、駆け出した。


 宣言通り、エリーヌは午後の授業をすべて受けた。

 クロエが早退したという話は、学校でそれなりに噂になっていた。

 そんな噂に、安堵と共に早く帰らねばという焦りを抱え、授業を受けた。

 サロン集会は用事を理由に欠席した。

 急ぎ馬車に乗り、今に至る。


「クロエ!」


 そう叫ぶようにして、扉を勢いよく開く。

 使用人たちが驚いた表情を浮かべて、こちらを見た。


 どことなく、屋敷の空気が重い。


「おかえりなさい、エリーヌ」

「お母様……」


 その声に、使用人たちは道を開ける。

 その先には、母が立っていた。


「随分と遅かったですね。早急に家に帰るよう、連絡したはずですが」


 彼女は、冷徹な表情を浮かべて、エリーヌを見ている。

 これは、子供を叱る時の彼女の表情だ。


「大変申し訳ありません」


 エリーヌは、深く頭を下げる。

 このことに対して、エリーヌは言い訳を持ち合わせていない。

 否、言い訳をするべきではない。

 遅れてしまったのなら。


「理由はクロエから聞いています。ですが、断ってでも帰ってくるべきでした」

「返す言葉も、ございません。おっしゃる通りで」


 手段を選び、派閥争いに影響のないよう立ち回るというのは、エリーヌの選択だ。

 責められるべきは、エリーヌ自身ただ一人だ。


 頭を上げず、ただ言葉を受け止めるエリーヌに、ジュリエンヌは深く息を吐いた。


「……こちらへいらっしゃい」


 そう言って屋敷の奥へと進む母に、エリーヌはついて行った。





***





 向かった先は、勿論モニカの部屋だった。

 正確に、残酷に言うなれば、モニカの部屋だった場所だ。


 部屋の中央。ベッドの中に、彼女はいた。


「……っ」


 エリーヌはその姿を見て、息を詰まらせた。

 人が死んでいる様というのを、エリーヌは見たことはない。

 否、見たことはある。祖母と乳母だ。

 しかし、どちらも幼い頃に見たせいか、印象というものがない。ぼんやりとしか、覚えていない。


 まるで、眠っているかのようだ。

 いつむくりと起き上がっても、驚かないほどに自然だった。

 しかし、生きている人にあるような、些細な動きが微塵もない。

 眠ったまま、時が停まってしまったかのような、そんな姿をしている。


「……」


 これが、死か。

 エリーヌは、初めてそれを理解した。

 そして、母が己をきっちりと叱った訳も、心から理解した。


「死の淵に立ってなお、娘の事を想っていました。母は母として、一人の人間として、彼女を心底尊敬しています」


 そう言って、母は片手で顔を覆う。


「……せっかく、腹を割って話せる友人ができたのに。こうも、早く」


 強い母が、こうもショックを受けているのを見るのもまた初めてだ。

 エリーヌはそんな母から目を逸らし、じっとベッドの上を見つめた。


 悲しみがあるかと問われれば、言葉を詰まらせてしまうだろう。

 出会ってさほど時のたっていない相手だ。話したのも、数回だけ。


 印象に残っているのは、休閑週の旅行の前、母に呼ばれて話をした時の姿だろうか。

 病人の姿をしていながら、どこか明朗快活で、クロエに似た凛々しさを持つ人だと、そう思った。

 つい最近のやせ細って弱々しい彼女を見てなお、彼女が元気に生きている姿をありありと想像できる。

 それが何故かは、考えなくても分かることだった。


「……お母様、クロエは?」


 エリーヌは、悲しみに暮れている母に聞いた。

 いつも、母の事について考え、エリーヌに教えてくれた、彼女の事を。


「自室にいるわ。でも、今は一人にさせてあげなさい」


 そう気遣う母の言葉はもっともだ。

 だがエリーヌは、居ても立ってもいられなかった。

 今すぐに、彼女に会うべきだと、心のどこかが騒めいている。


「分かっています。遅れて帰ってきてしまったことの謝罪だけ、させてください」


 そう言って、部屋を後にした。





***





 急ぎ、クロエの自室の前に向かったエリーヌは、扉の前で佇んだ。

 ノックをしようと扉の前に拳を作るも、叩くことなく止まってしまった。


 衝動的に飛び出してきたはいいものの、いったい自分はなんと声を掛けて良いのだろうか。

 何を、どうしてあげるのか良いのだろうか。


 彼女の母の死を目前にして、悲しみに暮れることもできなかった自分が、彼女の心に寄り添えるはずがない。

 思考は巡るばかりで収拾がつかない。

 そんな自分に、唇を噛んだ。


「すぅ……」


 息を深く吸い、呼吸を整える。

 高鳴る心臓を何とか抑え、意を決して扉を叩く。


「……クロエ? 入ってもいい?」


 三度ノックをして、部屋の向こうにそう声を掛ける。

 だが、返事は返ってこない。


「……クロエ?」


 エリーヌの心中は、緊張から心配へと変わる。

 心を痛めた彼女が、何か危険なことをしてしまっていないか、そんな心配だ。


 焦燥に駆られ、思わず扉を勢いよく開ける。


 彼女は、椅子に座って窓の外を見ていた。

 橙の夕日が沈み、宵闇が覆いかぶさる様を、彼女はただ見つめていた。

 その表情、姿は、逆光により影になって見えない。


「クロエ?」


 そう呼びかけても、彼女は振り返ってくれない。

 やはり、一人にしてあげるべきだろうか。

 そう思いつつも、口を開く。


「あの、ごめんなさい。もっと、早く帰ってくるべきだったのに、遅れてしまって……」


 そう言って、彼女に一歩近づく。

 しかし、返事は返ってこない。

 ただ、彼女にはまだ、呼吸の小さな動きがあった。

 それが確認できたところで、もういいか、とエリーヌは踵を返した。


「……今日は、ゆっくり休んで」


 そう言って、部屋を出て行こうとした。


「……!」


 扉の前に立ったところで、腕を掴まれた。


「あ」


 そうして、覆いかぶさるようにして、肩と腰を抱き寄せられた。


「……」


 ただ、黙ってそうしているクロエの手を、エリーヌはそっと撫でる。

 どこか冷たくて、それでいて熱を帯びたその体に触れた。


「……ずっと」


 耳元で、囁く声が聞こえる。


「ずっと、一緒に居られると思ってたんだ」


 強く、強く、身体を掴まれる。

 震えて、どこかかすれた声が、エリーヌの耳朶を打つ。


「まだ、まだその時は来ないって。時間が少ないことが分かってても、どこかでずっと……そう、思ってたんだ。」


 次第に彼女の腕の力は抜け、するすると離れて行った。


 そうして崩れ落ちる彼女の体を留めるように、エリーヌは膝をついた彼女の頭を、己の胸に抱き寄せた。


「どうして……どうして母さんなんだよ……!! 母さん、何も悪いことなんてしてないのに!!」


 ボロボロと涙を流して、クロエは慟哭する。


「ずっと、一生懸命働いてただけなのに……! どうして母さんを連れてくんだよ、神様……ッ!」


 エリーヌは腕に力を籠める。

 絶対に離すまいと、その意思を表すように。


「うッ……ああああ……!」


 涙腺を刺すような彼女の泣き声が、心に響いてくる。

 その傍らで、こうしてしがみついてくれる彼女がいることに、どこか悦んでいる自分をひた隠しにして。

 クロエが泣き止むまで、エリーヌはずっとその腕を離さなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ