第52話 鍵は錠に、小鳥は外に
混みあった食堂で、クロエはいつものようにアンナとソフィと一緒に食事を取った。
先ほど、廊下を駆けていたエリーヌとばったり遭遇するというハプニングがあったが、どうにか切り抜けた。
というよりは、急いでいる様子のエリーヌに半ば無理やり話を切られたと言う方が正しいだろう。
彼女はやたらと視線をこちらに向け、何かを訴えようとしていたが、何かあったのだろうか。
そのことが胸に引っ掛かりつつも、表情には出さないよう努め、食事後に雑談をしている時だった。
「あの。クロエ様でしょうか」
背後から、聞きなれないようで聞きなれた声が聞こえてきて、クロエは振り返った。
「え? ……ああ、そうだけど」
振り返るとそこにいたのは、先ほどエリーヌが急いで探していたカミーユだった。
「廊下にありました、落とし物でございます」
彼女はそう言って、『クロエさんへ』と書かれた手紙を渡してきた。
「お、おう。ありがとう……?」
身に覚えのない落とし物に、クロエは首を傾げる。
だが、なんとなく嫌な予感もした。
ここにきて彼女が訪ねてきて、尚且つエリーヌが焦っていたその理由に、はっきりはしないが心当たりがあるような気がする。
「そういえば、さっきあんたのこと探してたわよ。あのシャントルイユのお嬢様が」
アンナのその言葉に、カミーユは驚いたような表情をする。
「左様ですか。実は、わたくしも探しているのです。どちらに行かれましたか?」
「あんたが昇降口の方に行くのが見えたから、昇降口の方ってクロエが言っちゃったわ」
「ありがとうございます。それでは」
そう言って去って行くカミーユを目で見送る。
「どうしたのかしらね」
「なにかあったの?」
「それが、さっきここに来る前に、あのお嬢様に会って――」
アンナとソフィがそんな会話をしている中、クロエはこっそりと手紙を開く。
(ッ!!)
その内容を見て、クロエは目を見開いた。
「それで――」
「わりぃ、アンナ。私、今日は午後の授業を休む」
クロエは努めて無表情にそう言った。
「え!? 何よ急に」
「ちょっと、体調が悪い」
「さっきまで元気だったじゃない!」
「我慢してた」
言い訳を考える暇は無かった。
クロエはそそくさと立ち上がる。
「だ、大丈夫?」
ソフィも心配そうに見上げてくる。
アンナは訝し気だったが、クロエのその顔を見て思わず表情を変えた。
「大丈夫だ。じゃあな」
演技をするまでもなく、苦しそうな表情を浮かべて、クロエはすぐさまその場を後にした。
「なによもう……今日はみんなせっかちね」
残されたアンナが、ぽつんと呟いた。
***
荷物を纏め昇降口に向かうと、先程落とし物と言って、大事な手紙を届けに来たカミーユが立っていた。
「……」
彼女はクロエの方を一瞥すると、荷物を持って学校の外へと向かった。
その後を追うために、クロエは守衛室の前に行く。
「すみません。早退届をお願いします」
そう言って生徒手帳を見せ、早退届を書き、クロエは外に駆け出した。
校門から出、学校の影となっている場所で馬車を見つけた。
「どうぞ」
カミーユに案内され、クロエは馬車に飛び乗る。
馬車はすぐに走り出し、学校から離れて行った。
「エリーヌ様は、学校にお残りになるそうです」
「ああ。私から、奥様に言っておくから大丈夫だ」
馬車の中で、カミーユとそれだけ会話をして、あとは黙って到着を待った。
今日ほど、馬車が到着するまでの時間を長く思ったことはない。
エリーヌは、自分の事を思って行動してくれているようだ。
きっと何かの手違いで、自分の所に連絡が届かないトラブルがあったのだろう。それに対処してくれたのだ。
いつも世話をかけて申し訳ないと、心の中で彼女に礼を言った。
「着きました。さあ」
到着した場所の扉が開くと同時に、クロエは馬車から降りる。
廊下を走るなと注意したのに、今度は自分が走ることになってしまった。
玄関ではすでに、何人かの使用人が立って待っていた。
「母さんは!?」
「お部屋に。お急ぎください」
荷物を投げるように預けて、屋敷の中へと入ると、今か今かと待っていたであろう、この家の女主人がいた。
「クロエ!」
彼女たちの様子で分かるが、母はまだ生きているようだ。
だが、刻一刻を争うのだろう。
「エリーヌは、どうしたのですか?」
「私の代わりに、授業を受けるよう、私が頼みました」
端的にそう言って、彼女と共に、母の部屋へ飛び込む。
「母さん!」
部屋には、母を診る医者と、使用人と、ベッドに横たわってうつろな目でこちらを見た母がいた。
「母さん! 母さん!!」
ベッドに駆け寄り、叫ぶように声を掛けると、彼女はうっすらと笑った。
「クロ、エ」
そう言って、やせ細って骨と皮ばかりになった手を伸ばし、自分の頬に触れてきた。
その所作に、その表情に、クロエは全てを悟る。
「母さん……母さん、待って。あたし、まだ、母さんに恩返しができてない!」
その手を掴み、ベッドに乗り上げる勢いで、クロエは母にそう訴えた。
「学校だって、卒業してない!! いつか、二人で旅でもしようって約束も、果たしてない! だから……」
彼女の両目から、ぽたぽたと涙が落ち、布団に染みを作る。
「だ、だから、まだ、いかないで……」
そこに、派閥でリーダーとして先頭に立つ少女の顔や、大人や友人の顔色を窺う少女の顔はない。
ただ、子供の表情があるだけだった。
親を想う、子供の顔が、あるだけだった。
「……っ」
ジュリエンヌは、堪らずに口を押える。
周りの従者たちも、涙を堪えていた。
「お、お願い。母さん以外に、何だっていらないから、だから……」
「クロエ」
モニカは、クロエの涙をぬぐうように、頬を撫でた。
「いい? あんたはこれから、自由になるの。母さんも、あそこの連中もいない、自由な世界で生きられる」
「そんなもの……!」
いらない、と吐き捨てようとした言葉を飲み込み、母の言葉を待った。
「……母さんがそこに、クロエを連れて行きたかった。でも気付いたの。私がいたら、そこは、クロエにとっての自由の世界じゃないって」
自分を見つめているようで、どこか遠くを見つめて、彼女は滔々と最後の言葉を紡ぐ。
「だから、いつかはきっと、離れ離れにならないといけなかったの。遠からずいつか」
「だからって、それが今で良い理由にはならない!」
クロエは、母の手を強く、強く握った。
世界の全てを憎むような眼で、母を見つめて。
「もう少し、もう少しだけ待ってくれよ! あたし、頑張って首席になろうって、母さんのために頑張ってんだよッ!」
喉が焼き切れんばかりの勢いで、クロエは叫ぶ。
彼女の悲痛な叫びに、モニカは目から一筋の涙を流した。
「そんな楽しそうなこと言われると、行きたくなくなっちゃうじゃない……」
声を震わせて、モニカはクロエの手を握り返す。
「本当に……あなたは、いい子。どうして、わたしなんかの所に来てくれたの?」
彼女の呼吸が、段々と浅くなる。
医者は立ち上がり、治癒魔術をかけるが、もはや効き目がないと悟った表情を浮かべる。
「本当に……貧乏で、ごめんね。かわいい服だって、欲しいものは何でも……買ってあげたかったのに」
「だから、だからいらないって……!」
クロエの脳裏に、走馬灯のように彼女との思い出が駆け巡る。
嫌な思い出なんて、一欠けらもない。
貧乏だろうが何だろうが、関係なかった。
いつも楽しそうに笑ってくれて。
自分の成すことを褒めてくれて。
何か贈れば、子供のようにはしゃいで喜んでくれて。
「いらない……もう、十分だよ、母さん」
クロエはそう言って、母の額に自分の額を当てた。
誰にも聞かれず、ただ母だけに聞かれたい言葉があったからだ。
それを聞いた母は、嬉しそうに笑顔を浮かべて、同じ言葉を返してくれた。
そうして、静かに、ゆっくりと、目を閉じていく。
「ありがとう……どうか……しあ、わせに……」
その言葉が途切れると、クロエの握っている母の手は、段々と重みを増した。
「先生ッ!」
ジュリエンヌが、ベッドに駆け寄り、医者に叫ぶ。
医者は、ゆっくりと首を振った。
モニカは、深い深い眠りへとおちていった。




