第49話 母親
エリーヌの部屋で本音を呟いたクロエは、それからしばらくして眠ってしまった。
エリーヌは彼女の邪魔にならないよう、部屋の隅で静かに勉強をしていた。
日が落ちて、暗くなったところで、クロエは目を開けた。
「……!? やっべ、寝てた!」
彼女は自分が眠っていたことに気が付き、飛び起きた。
「つか、ベッド、勝手に使っちまった! ごめん!!」
勢いよく誤ってくるクロエに、エリーヌは思わずくすくすと笑った。
「いいの、気にしないで。食事を運んでもらうよう頼んだから、此処で一緒に食べましょう?」
彼女にかける言葉は思いつかなかったが、彼女が一人で考え込んでしまう時間なら減らせるだろう。
そう思い、エリーヌは部屋で二人で食事を取ることにした。
「くそ、勉強してねぇ……」
「ずっと気を張っていて、疲れていたのよ。さ、席について」
順番に運ばれてくる料理を待ちながら、二人は席に着いた。
今日は肉料理だ。暑いので、スープは冷製のものになっている。
二人で、何気ない話題を語り合いながら、食事を食べた。
「そういや、当主様ってのは、こんなにも家にいないもんなんだな」
ふと、クロエがナイフで肉を切りながらそう言った。
その言葉に、エリーヌはニンジンのグラッセを口元まで運んだ手を止める。
「あ、いや、別に責めてるわけじゃない。不思議に思っただけだ」
クロエは俯くエリーヌを見て、慌ててそう訂正した。
「確かに、最近は帰って来られる頻度が少ないわね。……申し訳ないわ」
「いや、いいよ。てか、奥様にも謝られたし。私に謝られたところでな」
クロエはそう言って、頬を掻いた。
「一回、私たちが学校に行ってる間に、来てくれたらしいけどな」
「そうなの? 知らなかったわ」
確かにずっと、引っ掛かっていた。
彼はクロエたちが来てからというもの、家に帰ってきていない。
半年帰って来ないこともあるので、別段珍しいわけではないが。
しかし、臥せっているクロエの母の事を思うと、やはり気がかりではある。
それに、気になる。
どうして、病に臥せった女性を妻として迎えたのか。
その娘も同様、迎えたのか。
「ま、なんていったって、王室枢要の大臣、"宰相"なんて言われる人だから、忙しいんだろうけど」
クロエはそう言って、再び肉料理に向き合った。
「そうね……」
エリーヌはそう言いつつも、怪訝な表情のまま、料理に向き直るのだった。
***
時は少し遡り、エリーヌ達が学校に行っている正午、昼。
日差しが良い具合に翳り、外は過ごしやすい温度になった。
ちょうどいい。そう思い、ジュリエンヌは"彼女"の部屋に向かった。
「失礼、入りますよ」
ドアをノックした後そう言って、ジュリエンヌは部屋に入った。
「あら。起きていたのね」
ベッドの主、モニカは上体を起こして座っていた。
最近、目覚めている時間が短い彼女は、以前よりもかなり弱っている。
「ええ……さっき薬を飲んで、それが効いてきたみたい」
彼女はそう言いつつもゴホゴホと咳をしている。
毎日子供たちが学校に行っている間、予定がなければ二人で他愛のない話をしたり。あるいは、母親同士でしかできないような、愚痴を語り合ったり。
軽い口調で話ができるくらいに、彼女たちは親しくなった。
しかし、彼女の体調は悪くなる一方である。
「丁度いいわ。こんなものを頼んだのだけれど」
ジュリエンヌはそう言って、家令にあるものを持ってこさせた。
「……これは?」
「車椅子よ。上の息子が面白い渡来品を見つけたと言って、届けてくれたの。座ったまま移動できるわ」
そう言って、モニカの前に差し出す。
「もし、体調が落ち着いているのなら、少しだけ外に出てみるのはどうかと思って。今は気温もいいし、お医者様も良いと言ってくださったから」
そう言って、ジュリエンヌはモニカを連れて、部屋の外に出た。
***
モニカは、この屋敷に来てからほとんど部屋を出ていない。
手洗いか、定期的な入浴の時だけだ。
彼女は、外を走り回るのが好きだったと、クロエから聞いている。
彼女の欲を少しでも満たしてあげたいと、ジュリエンヌは考えていた。
「……きれいね」
家令に車椅子を押されながら、モニカは気だるげに屋敷の庭の景色を見ていた。
前にあった僅かながらの活発さが、今の彼女にはない。
だが、久しぶりの外を楽しんでくれているのは伝わった。
「自慢の庭よ。あちらの方に行ってみましょう」
こうして、庭の中をぐるりと回り、中央にあるガゼボでお茶を飲むことにした。
ジュリエンヌは紅茶、モニカは今紅茶を飲めないので、体に優しく白湯を用意した。
「……」
モニカは、じっと庭を眺めている。
夏に咲く花々が、絨毯のように覆っている庭だ。
「……昔」
ぽつりと、彼女は語りだした。
「娘が小さい頃。花畑に行きたいとせがまれたことがあったの」
滔々と、ゆっくりと、モニカは語る。
「でもそんなものどこにあるか分からないから、タンポポの綿毛を家の前でたくさん吹いて、タンポポの花畑を作ろうとしたの」
ジュリエンヌは彼女の語り口に、静かに耳を傾ける。
「そうしたら、とてつもない量のタンポポが咲いちゃって。でも綺麗で、二人で笑って駆けまわったわ」
庭の花を見つめる彼女には、今咲いている花々とは、違う花畑が見えているようだった。
「毎年春になると、バカみたいに咲くようになっちゃった。あの子、『そろそろ別の花が見たいんじゃないか』、なんて言っちゃって」
そう言って、モニカは笑った。
一頻り笑ったのち、彼女は呼吸を整えるように、深く息を吐いた。
「本当は、もう一度くらい、あの花畑を見たかったんだけど……無理そうね」
ジュリエンヌはハッと息を飲み、持っていたティーカップを置いてモニカを見た。
視線を受けたモニカは、ゆっくりとその視線を返す。
「ねえ、ジュリエンヌさん。今生に一度のお願いがあるのだけど。いい?」
「……勿論。わたくしが叶えられることなら、何でも」
すべてを悟った言葉に、ジュリエンヌは悲しい表情を浮かべながら、頷いた。
「私が死んだ後も、どうか娘をお願いできるかしら」
そう言ってゆっくりと頭を下げようとするモニカに、ジュリエンヌは思わず立ち上がった。
「そんなこと! お願いなどされなくても、勿論叶えるつもりでしたのよ」
それでもなお頭を下げるモニカの手をとるため、ジュリエンヌは彼女の横に駆け寄る。
「あの子は、私とは違って、真っ当な道を歩んでほしいの。あの場所に戻ったら、そんなことできないから」
「貴女は、彼女をあそこまで立派に育て上げた人よ。それだけで胸を張れる」
ジュリエンヌは、ゆっくりとモニカの肩を抱いた。
「何があっても、あの子のことはわたくしが面倒を見ます」
そうして、モニカの手を強く握る。
「ッ……!」
頭を下げたままの彼女の目には、大粒の涙が浮かんでいた。
「……分かっています。いいえ、わたくし以外の誰が分かりましょう。あの子を置いて逝く貴女の気持ちを」
家令は、空気を読んでいつの間にか去って行った。
今この場には、母親二人しかいない。
「決して、誰にも渡しません。だからどうか、すべてをここに吐き出して。今日あの子が帰ってきたら、満面の笑みで迎えられるように」
ジュリエンヌの言葉に、モニカはついに涙を溢した。
「わ、私……」
彼女は手で顔を覆う。
「どうして、どうして私なの……ッ!? まだあの子が巣立つのだって、見ていないのにッ!!」
彼女の慟哭は、静かな庭に響き渡った。
「もしかしたら、いつか誰かと結婚して、幸せに……っ誰かと笑っているところだって、皴が増えたところだって、見たかった……ッ!!」
溢れて止まらない涙を全て受け止めるように、ジュリエンヌは彼女の肩を抱き続けた。
***
モニカが落ち着いたところで、体調を考慮して、彼女をベッドへと連れ帰した。
本音を吐き出して、疲れただろうと、挨拶もほどほどにして立ち去ろうとした。
「……ねえ、ジュリエンヌさん」
ベッドに横たわって寝る態勢に入ったモニカに呼び止められ、ジュリエンヌは振り返る。
「あの子たちね。何か面白いことをしてるみたいよ」
悪戯っぽく笑ういつもの彼女が戻ってきて、ジュリエンヌもまた笑った。




