第43話 海の色
砂浜に波が打つ音と、隆々と立つ岩々。打ち揚げられた海藻と、小さなトンネルをつくっている崖。
寂然として物言わぬ風景が心地よい。
しばらくの間、二人で無言で歩いた。砂浜はずっと続いているわけではなく、岩によってその先の道は閉ざされている。
その手前の浜は広く、高く上がった太陽に照らされ、海は青々と輝いていた。
海風にあたり、ただ輝く水面のその先を見つめるクロエを見て、エリーヌは静かに靴と靴下を脱ぐ。
薄桃色のワンピースをはためかせながら、靴下の入った靴を片手に、波打ち際へと歩みを進める。
「ちょ……」
「貴女もどう? ひゃっ、冷たい」
引く波を追いかけ、追ってくる波から逃げるエリーヌを見て、クロエもたまらず靴を脱いだ。
長いズボンを捲るのに苦戦しつつも、エリーヌを追いかけて波に足を踏み入れた。
「本当だ、冷てぇ」
二人は人目がないのをいいことに、砂浜を走り回った。
歩くヤドカリの後を追ったり、波打ち際で水を掛け合った。
「ははっ。……お前、本当に名家のお嬢様かよ」
エリーヌによって海水を掛けられたクロエは、そう言って袖で顔を拭った。
海の水のしょっぱいことに、驚いた表情をする。
「あら。とっくにわたくしの本性には気づいているものだと思っていたけれど」
エリーヌはそう言って、波の来ない砂浜に座り込んだ。
「そういやそうだったな。お前は思ったよりお転婆なんだった」
クロエはそう言いつつ、エリーヌの横に座った。
「はーあ……」
クロエは、輝く雲を見て、深く溜息を吐いた。
その青い瞳には海が映り輝いているが、彼女の表情はほんのわずか曇っていた。
「…………本当は、私も」
消え入りそうなほど小さな声で、彼女は語る。
「どうでもよかったんだ、母さん以外」
立膝に頭を乗せながら、俯いてそう言った。
この穏やかな情景は、思わず本音を語り合いたくなるような何かがある。
言いたいことをすべて吐いても、この大海原なら受け止めてくれる。そんな気がするのだ。
「周りの環境も、周りの人間も、自分も。疎かにしたら、母さんを困らせるから、上手くやろうとしてただけで」
懺悔の様なその言葉は、波の音と一緒にエリーヌの耳朶を打った。
「やらなきゃいけない面倒なことも、母さんの為になるかもしれないと思うようにしてた。……仮面を被ってたんだ」
何かを成すために必要な意志の力を、彼女は遠回りして得ていたと。
彼女の士気は、母の存在によって養われていた、ということか。
「……失望したか?」
「ふふ、いいえ。知っていたわ」
海風にたなびく髪を押さえ、エリーヌはそう言った。
「わたくしだってそうよ。家や学園、わたくしに群がる者達。いつだって、自分が全てを選べるわけではない」
目を細めて、水平線を見つめながらエリーヌは語った。
「不満に思うことのなかにも、一興はある。それを見つけて、上手く己を制して、現状に満足できるよう努めているだけ」
広がる海はまるで自由の象徴で、大層眩しい。
「ははっ……お前は、思ったより優しかったけどな。あたしは、きっとそうじゃない」
「すべてが全て、嘘というわけではないでしょう? 本心が混ざっていなければ、完璧に演じることなんてできないわ」
滔々と述べるエリーヌの言葉に、クロエは自嘲的な笑みを浮かべた。
「……そうやって、お前や奥様達に優しくされると、ふと恐ろしくなる。傲慢になって、いつか本当に大事なものを失わないか、って」
クロエは弱々しく声を震わせながら語る。
「母さんが居ることの対価に得られる幸せなんて、あたしには……」
顔をもたげた彼女の本音。
何かを察しているようなその本音に対する満点の回答を、テストの解答のようには生憎持ち合わせていない。
ずっと探しているが、どれもただの綺麗事のようにしか聞こえない。
クロエの苦しみは、クロエにしか分からない。
「そうね。……それも、知っているわ」
クロエに聞こえないくらいに小さな声で呟き、エリーヌはゆっくりと立ち上がった。
彼女の痛みを取り除くことは難しい。
残念で、とても悔しいが。
「貴女は狼、わたくしの一興。どうか牙を抜かないで」
エリーヌにできるのはせいぜい、痛みを和らげることくらいだ。
そう決意して、クロエを見下ろす。
「魔女に対価を払うだなんて、そんなことはしないでしょう? わたくしもまた、貴女の一興として、糧になるのだから」
あえて回りくどく、演技じみた科白をはいて、前を向いた。
エリーヌを見上げた、クロエは一瞬驚いた表情をしつつ、ふっと息を吐いて笑った。
「ははっ、なんだそりゃ」
そう言って、再び自嘲的な笑みを浮かべる。
しかし、彼女もまた何かを決意したように立ち上がった。
「ま、せいぜい喰い殺されないように……なんてな」
肩を竦め、しかし自信ありげな笑みで、彼女はそう言った。
その笑みに答えるように、エリーヌもニマリと笑う。
学校で対峙するときのようだ。
だが、そのなんだか可笑しな状況に、二人は思わず声を出して素で笑いあった。
「そうだ、さっき買ったガラスの瓶に、砂でも入れて行ったらどう?」
「あーいいな、それ。ついでに貝殻も拾っておくか。持って帰って来いって言われたし」
「いいお土産になりそうね」
二人は並んで、水平線と平行に歩いて行った。
***
その後家に戻り、軽い昼食を食べた。
昨日のパーティのようなことはしないが、夜は食事を豪勢に振舞ってくれるらしい。
その夕食まで時間が空いていたので、再び出掛けようかと思ったが、午後の方が賑やからしく、やんわり止められた。
なので、屋敷を廻ったり、姪と遊んだりして時間を潰した。
夕方、執務を終えたエミリアンに再び呼び出され、エリーヌとクロエは学校での出来事を詳細に話した。
二人の誤魔化しに、アドバイスもくれた。ついでに、母には言わないでほしいとの旨も伝えた。
『言えばいい。きっと面白がる』と彼は言ったが、妙な心配を掛けたくないので、ひとまず保留にしておく。
彼はクロエが気に入ったらしく、路頭に迷ったら、いつでも頼ってくれとのお達しだ。
そんなこんなで夕食の時間となり、エミリアンの一家と共に晩餐を楽しんだ。
ラファナスで取れた豊かな食材がふんだんに使われており、王都やラムスでは味わえない食事を楽しむことができた。
その後、浴場で疲れを取り、用意してもらった部屋へと戻ってきた。
「ふう……」
息を吐いて、窓辺の椅子に座る。
メイドたちには、もう下がるように言っておいたので、今は一人だ。
慌ただしくはなかったが、充実した一日だった。
心配していたクロエとも、深く話すことができた。
あの日、モニカと話してからどことなく空元気だった彼女だが、今日は良い息抜きになっただろう。心から笑っているように見えた。
彼女の母については、心配が多い。治るのか、あるいは治らず生涯付きまとう病なのか。
もしくは、もっと深刻なのか。
兄を介して聞いてみようとしたが、結局詳しい話は聞けなかった。
兄は母からクロエの母について事細かに聞いていた。病状についても知っているようだが、どうやら彼は母たちの味方のようだ。
どう足掻いても隠そうとするその様子に、胸騒ぎがする。
「……」
クロエはもう、ただの好敵手で理解者という言葉では、表せない存在。
己も彼女にとってそんな存在でありたいと願うが、どうだろうか。
他人の心中の全てを知るなど、人間にはできない所業だ。
エリーヌは思案気に窓の外を見る。
叢雲から僅かに顔を出した月が、海に映っている。
(どうか、叶うならば)
その向こうに神がいるなどとは微塵も思っていない。
しかし、願わずにはいられない。
彼女に、今宵の潮のような平穏を。




