第41話 義兄
「どこに行ったのかしら……」
エリーヌは、兄の屋敷を歩き周り、きょろきょろと辺りを見回した。
来客は帰り際ということで、挨拶は手短に済んだ。客間に向かう途中、母に『クロエは共に行かなくてもよいのですか?』と聞かれた際には冷や汗を流したが、『関わりのない方ですから』と正直に述べ難は逃れた。
そうして挨拶を済ましてクロエの所に向かうと、カミーユが案内したという場所に彼女はいなかった。
彼女は興味の赴くままに行動するほど天真爛漫でもなければ、勝手の分からない場所をうろつく程短絡的な性格でもない。彼女が一体どこに行ったのか、カミーユと共に探し回っている最中だ。
「お嬢様」
兄の執務室の前に来たところで、カミーユに呼び止められた。
そう言えば、来客が去ってから兄の姿も見ていない。来客を見送り、母とエリーヌを客室に案内した後、すぐにどこかへ向かってしまった。
などと考えていると、執務室の向こうから、兄の声が聞こえてきた。
「お兄様。いらっしゃいますか?」
三回ノックし、扉越しにそう尋ねると、部屋の向こうから足音が近づいてくる。
「……おや。エリーヌ」
「お兄様。挨拶も早々にどこに行かれたのかと……」
「いや、すまない。ほら、もう一人の来客を案内しないといけなかったからね」
そう言って、兄のエミリアンはエリーヌに部屋に入るよう扉を大きく開けた。
誘われるまま部屋に入ると、そこには確かにもう一人の来客がいた。
「クロエ」
「あっ……」
彼女は、メイドが鏡を持つその前に立っていた。
先ほどまでとは違う格好で。
エリーヌの戸惑う表情を見て、クロエはバツが悪そうな顔をする。
「これは……」
「ふふっ。似合うだろう?」
そんな二人を見て、エミリアンがくすくすと笑った。
「いや、悪かったね、試すような真似をして。お父様が連れてきた人物が一体どんな人かと、こちらとしては気が気じゃなかったのさ。いち早く相まみえたくて」
彼はクロエに向かってそう言い、優雅に頭を下げた。
「改めて。僕はエミリアン・ゲウム・シャントルイユ。この屋敷の主人だよ」
背の高い、金髪の美青年。彼こそが、エリーヌの兄エミリアンだ。
「どうも……いや、それより、この格好はどういう……?」
「そうですわ。まるで小姓のようではないですか」
マイペースに話を進める彼に、二人はまずこの状況につい疑問を示す。
「いや何、ちょっとした面白半分さ」
クロエが着せられているのは、タキシードのようなものだ。
装飾は優美だが華美とまではいかず、貴族が着るにしては少しシンプルなものだ。クロエのすらりとした長身によく似合う。
しかし、王や王妃の小間使いか執事あたりに見えなくもない。
「……お兄様。彼女は――」
「いや、分かっているさ。それよりまずは、母上に会いに行かないと」
マイペースにエミリアンはそう言って、部屋から出る。
クロエとエリーヌは戸惑った顔を見合わせつつ、彼の後に続いた。
***
屋敷の客間にて、母ジュリエンヌはエミリアンの妻とその娘と談笑をしていた。
「……これは、どういうことですか」
エミリアンに連れてこられた二人――否、主にクロエを見て、母はエリーヌと全く同じ反応をした。
彼女の対面に座る二人も不思議な表情をしている。
「母上。お久しゅうございます」
「挨拶より先に、説明なさい」
「彼女に似合う格好をさせたまでですよ」
エミリアンの言葉に、ジュリエンヌは眉根を寄せて厳しい表情をした。
その顔のまま、小さく溜息を吐く。
「エミリアン。彼女は、れっきとした公爵の娘。そのような格好は――」
「ああ、いえ。そのような意図はないのですよ」
エリーヌと全く同じことを思ったであろうジュリエンヌの言葉を遮り、彼は首を振った。
そうして、エミリアンはクロエとエリーヌもソファに座らせ、メイドに二人分の茶を持ってこさせた。
詳しい話は今からするから、といった様子だ。
「無論、僕にも分かりましたよ。彼女は、僕が警戒するような人物ではない。彼女の御母堂もね」
ティーカップを口に寄せるクロエを見て、彼はニッコリと笑ってそう言った。
その視線を受け、クロエはビクリと肩を揺らす。
「手紙で言ったでしょう。何も心配する必要はないと」
「ええ。ですが、相対してみないと分からないことも多いですから」
やはり、念には念を、と思っていた部分があったようだ。
だが、兄がそうするということを、ジュリエンヌもまたなんとなく分かっていたようだ。
お互いさまというべきだろう。
「……ですが母上。彼女の扱いに関しては、少々不服が」
「わたくしの意見は先ほど述べましたが、どういう意味で?」
ジュリエンヌは神妙な面持ちで続きを促した。
「彼女h、瀟洒な服を着せ、椅子に座らせておくだけではあまりに勿体ない」
彼はしたり顔で、クロエを見てそう言った。
その言葉に、ジュリエンヌと兄の妻子が顔を見合わせる。
エリーヌだけが、彼の言いたいことを理解した。
「先程、彼女と船舶法について話をしました。驚いたことに、彼女は法の条項と文言を寸分狂いなく覚えていた」
「まあ……」
周囲の感心した視線に、クロエは気まずそうに眼を泳がせる。
「……法学の授業で、取り上げられていたことがあっただけです」
「たしか、エリーヌと同じリリウムの生徒だったね。けれど、リリウムの授業ではそこまで深く扱わないだろう?」
「興味があったので、教師に話を伺ったんです。その際、諸法大全を見させていただいて、それで……」
諸法大全とは、フロスティアの細かな法律についてまとめられた本だ。
リリウムの図書館の重要書架にある。教師に見せてもらわないと見ることは叶わない。
どうやらこの短い間に、彼はクロエの特異な長所を見出したらしい。
「お母様。彼女の記憶力は絶大なのですよ。なにせ彼女は、リリウムの明細な校則を網羅していますから」
「ちょっ……」
エリーヌがまるで自分事のように自慢げに言うと、クロエはとても恥ずかしそうにした。
『おい変な事言うなよ』とでも言いたげなその表情に、エリーヌは内心ほくそ笑む。
「そんな特技があっただなんて、知らなかったわ」
ジュリエンヌは驚きの表情を浮かべたのち、誇らしげに笑った。
「極めて優秀な人材だ。ですから、一日くらい僕の秘書でもやらせてみようかと。いやなに、ほんの冗談ですよ」
にこにこと笑ってそう言うエミリアンに、ジュリエンヌはやれやれといった様子だ。
どうやら、もう心配する必要はなさそうだ。
***
その後、エリーヌとクロエは別でエミリアンと話をすることになった。彼の所望だ。
ジュリエンヌはまだ幼い孫娘をあやすために、嫁と共に庭に散策に出かけたようだ。
「クロエ。嫌なら『嫌』と言っていいのよ?」
「いや、なされるままだったし……あと、若干こっちの格好の方が落ち着く」
二人のそんな会話を聞きながら、前方で二人を部屋に案内するエミリアンはにこにこと笑った。
「しかし、二人がそんな面白い関係にあったとはね。もっと早く言ってくれればよかったのに」
彼には、学園でのことを洗いざらい話した。吐かされたと言うべきか。
学園生活について聞かれるうち、誤魔化しきれなくなった。
もとより話そうと思っていた相手であったので、エリーヌとしてはさほど問題がないと思っている。兄は、騒ぎ立てるような無粋な性格ではないし、何より相談相手として適格だ。
そういうわけで、二人は何も取り繕わず、いつものように会話をしている。
「学園は相変わらずのようだね」
「もはや、伝統と言うべきでしょう。善し悪しは分かりかねますが」
彼もフロスティア大学校卒業者だ。内情は母よりも知っている。
そう言った点でも、彼に今の二人の関係を隠すのは難しい。
「ロザにも派閥があったんですか?」
「勿論。酷いと流血沙汰になったくらいさ」
クロエの質問に、エミリアンは肩を竦めながらそう答えた。
派閥という存在はリリウムと変わらないようだが、争う方向性が違いそうだ。
二人は苦笑いを浮かべる。
「とはいえ、リリウムの様な陰湿さは無かったね。足の引っ張り合いより、ぶつかり合いと言うべきかな。僕は前者の方が性に合っているけどね」
どちらもどっち、ということだ。
「しかし、もし僕がエリーヌの立場なら、堂々とクロエと組んで学園の改革をするのに。その辺り、野心はないのかい?」
兄の試すような視線に、エリーヌは澄まし顔をする。
「女は得てして感情的な生き物ですから。たとえ自分は理性的であろうとしても、周りがそれに応えるとは限りません」
「なるほど。言い得て妙だね。でも残念だ」
エリーヌの言葉に、エミリアンは肩を竦めた。
「まあ、その話はあとでじっくり聞くとして。君たちの部屋はここだよ」
彼はそう言って、二つの部屋の入口の前に立った。
向かい合わせになっているこの部屋が、今日のエリーヌ達の寝所だ。
「昼食までまだ時間があるから、良ければ町まで散歩でもしておいで」
伯父の家を発ってからさほど時間は立っていない。
昼の時間にも余裕があるので、町をぐるりと回るくらいのことはできそうだ。
「なら、準備をしないと」
「使用人は好きに使ってくれて構わないよ。何か困ったことがあれば、遠慮なく申し付けてくれ」
「お気遣いありがとうございます」
クロエがそう礼を言うと、エミリアンは柔らかい笑みを浮かべた。
「それと。良ければ僕のことは、『兄』と思って接してくれ」
「……! はい」
こうして、クロエは義兄との邂逅を果たすのだった。




