第36話 海の色
部屋の客人たちが去って行き、時計の針の音が聞こえてくるようになった。
ベッドから、がさごそと布の擦れる音が聞こえてきて、そちらに目を遣る。
座った状態だった母が、ベッドに横になろうと動く音だった。
「……なあ、母さん。いつからあたしまで旅行について行くって話になったんだよ」
横になった母の隣に座りながら、クロエは不貞腐れてそう言った。
「ええ? いいじゃない、海」
「いや、そうじゃなくて……つか、もうちょっと遠慮しろよ」
クロエがそう言うと、母は眠そうにクロエのいる反対側に寝返りをうった。
「いいの。畏まらないでって言われたんだから。それに、与えられたものを受け取らないのも、それはそれで失礼でしょ」
クロエは頭を掻いた。
星下寄宿に行く前はもう少し弱々しかったのだが、随分と慣れた様子になってきた。
どうも、この家の主人である女性――ジュリエンヌと親しくなったらしい。
母親同士通ずる部分があるのか、あるいはクロエに話せないようなことを話せたからか、和解を通り越して仲良くなったようだ。
彼女には、本当に頭が上がらない。だが同時に、自分では癒しきれなかった何かが母に有ったという事実が、少々胸に引っ掛かった。
相談者を得た母は、結託して自分をどこかへ遠ざけようとしてくる。
その意図が読めなくて、どこか苛々している自分がまた厭だった。
「……」
本当は聞きたい。なぜそうするのかと。
だが、どこか小っ恥ずかしくて聞けずじまいだ。
聞いてしまったら、何か嫌な現実を突きつけられるような気もする。
「クロエ」
ベッドの脇で俯いていると、いつの間にか母が起き上がって、自分の肩を抱いていた。
「昔話したこと、覚えてる?」
「昔?」
首を傾げると、彼女は語り始めた。
「海に落ちてる貝殻をね、耳に当てるの。そうすると、海で聞いた音が聞こえてくるのよ」
寝物語を聞かせるように、クロエの頭をゆっくりと撫でながらそう言った。
「んだよそれ……」
「ホントよ? 母さん、昔試したんだから」
半信半疑のクロエに、母は頬を膨らませた。
「ラファナスじゃないけど、昔一回だけ海に行ったことがあるわ。青くて広くて、びっくりしたのを覚えてる。知ってる? 砂浜の砂って、すっごいサラサラなの」
その語り口で、クロエは思い出した。
そう言えば幼い頃、全く同じ話を全く同じように聞かされた。珍しく母の仕事がなくて、一緒にベッドに横になって寝た時だ。
あの時の母の手は、もっと大きかった気がする。
「あれをね、私はクロエにも見てもらいたいの」
まるで、学校に行きたがらない子供をあやすような言い方だ。
もう、背丈だってほとんど変わらないのに。
「……でも、母さんは一人になるだろ」
「どのみち、ずっとベッドから動けないんだから一緒よ。だからこそ、貝殻の一つでも持ってきて、私を楽しませてほしいの」
ああ言えばこう返される。経験値で、母が一枚上手だ。
「…………分かったよ」
折れない母の意思に、クロエは折れた。
「ありがとう」
精々、彼女が楽しめるような土産と話しを持って帰ろう。
それが母の望みで、それを叶えることが親孝行ならば。
「母さんの事なんて忘れて、楽しく過ごすのよ」
そんな無理難題は叶えられないと、そう言うはずだったのに。
また、言葉を飲み込んでしまうのだった。
***
「そういうわけだから……ごめん。迷惑かける」
項垂れながら、クロエは申し訳なさそうにそう言った。
「謝るのはこちらの方よ。ごめんなさい、無理を言ってしまって」
彼女はエリーヌとジュリエンヌが去ってから、母のモニカに説得されたらしい。
その結果、クロエが折れたという顛末を聞いて今に至る。
「……本当によかったの?」
片手で頭を抱え、どこか疲れ切った様子のクロエを見て、エリーヌは思わずそう言った。
「これ以上言ったって、どうせ言い負かされる」
はあと溜息を吐きながら、彼女は不貞腐れた表情になった。
「……最初っから、味方してくれたらよかったのによ」
「ごめんなさい。なんだかわたくしも言い負かされる気がして」
察しの良いエリーヌなら分かってくれるだろう、という意思が母たちからは伝わってきた。
その圧に負けたというべきか。母は強しだ。
「親って、時々何を考えているのか分からないときがあるわよね。理解し得ないというか」
「本当にな」
これが、親に対する反抗心なのかもしれない。
この年頃の子供は親に反抗しがちというが、なんだかそう言われること自体が腹立たしい気もする。
「何はともあれ、旅行の準備をしないとね」
話題を変えるために、エリーヌは明るくそう言った。
「そういや、お前って兄弟いたんだな」
ふと思いついたように、クロエがそう聞いてきた。
そういえば、母たちと会話している際に、兄からの招待が来たという話をしたのであった。
「いやまあ、考えてみれば当たり前だけどよ。今までそんな話無かったから」
「そういえばそうね」
シャントルイユ家は由緒も実績もある貴族家だ。そういった家には、たとえ養子だろうが跡継ぎがいるものだ。
この国で、家の亭主に女が選ばれることは、よほどのことがない限りはない。
エリーヌの家でもそれは例外ではなく、勿論跡継ぎとなる男兄弟がいる。
「ラファナスに居るのは、長兄よ。叔父の元で勉強しているの。残りの二人の兄は、今は王都にいるわね」
「なんだ、三人いるのか」
「そうよ」
実はエリーヌはシャントルイユ家の末子で、唯一の妹なのだ。
貴族の中にはたくさん妾を抱えて、数えきれないほど子供を持つ者もいるが、父はその類ではない。
「道中、王都に寄るとも言っていたわ。それが行きか帰りかは分からないけれど」
ラディックス領に行くのに、王都を通る必要があるのだ。
そのついでに、その二人の兄にも顔を出していくとのこと。
そんな言葉に、クロエは難しい顔をした。
「……なあ、今ちょっと思ったんだけどよ。まさか知り合いに会う、なんてことはないよな」
クロエの心配に、エリーヌはふむと腕を組む。
彼女の言う『知り合い』とは、恐らく学内の人間の事を指しているのだろう。
「ラファナスでは恐らく無いでしょうね。ただ、王都に寄る時だけは気をつけないと」
「あー……貴族が集まるもんな」
ベネディクトも含め、貴族は王都に遊びに行く者が多い。
あまり歩き周るつもりはないが、出歩くときは細心の注意を払う必要があるだろう。
「機会があればという話だから、その時になったら考えましょう。お母様相手に、言い訳を考えるのも難しいから」
「そういや、私母さんにお前との関係知られてるんだった。その内奥様にも漏れるかも」
「あら」
「……釘刺しとく」
そんな会話をしながら、簡単な旅行の計画を立てるのだった。




