第11話 為人
クロエが来てから、サロン交流会を経て一週間が経った。
濃密であったがために、長い一週間だった。
ようやく休日となり、エリーヌにもクロエにも、息をつく暇が与えられたわけだ。
「……」
朝。カミーユによって起こされたエリーヌは、顔を洗った後、ドレッサーの前に座って髪を整えてもらっている。
窓から差し込む朝日を浴びながら、彼女は頭を醒ますために、今日の予定を考えた。
「そういえば、カミーユ。クロエにも朝の準備をしてあげている?」
エリーヌはふと思ったことを口にした。
「はい、ドロテが担当しております。ですが、いつも必要ないと断られているそうです」
カミーユは髪を梳く手を止めず、淡々とそう言った。
「……まあ、そうよね」
無理もない。彼女は今まで自分一人でそうする他無かったのだ。むしろ、母の世話をする側だった可能性もある。
そんな中、急に自分の周囲に朝から晩まで人が張り付くようになれば、慣れなくて苦労するだろう。
「無論、我々もそう言われることは想定していましたし、なるべく彼女の言葉に従うようにと、奥様から言われております」
エリーヌにとっては日常で、なくなれば困ることだが、クロエからしてみればむしろ迷惑だろう。
周囲はそれが分かっているので、無理にここでの常識を押し付けようとはしないのだ。
「お待たせしました」
「ありがとう」
梳き終えて、結わえられた髪が鏡に映る。
「今日はクロエの部屋に朝食を運んでくれる? 彼女と話がしたいの」
「畏まりました」
エリーヌの言葉に、カミーユは小さく礼をして承った。
普段エリーヌは、屋敷のダイニングで食事を取る。
基本的には母が相席するわけだが、クロエはその場にやってこない。
彼女はまだ、この家と、この家の人間に慣れていない。
これでようやく一週間なのだから、当たり前だ。
学校も同じであるが、新しい環境に慣れるまでには時間がかかる。
エリーヌは、そんな彼女と心の距離を感じていた。
「おはよう、クロエ」
そんな思いを抱え、エリーヌはクロエの部屋に赴いた。
「……」
起きたばかりのようだ。彼女は寝ぼけ眼で頭を掻いて、エリーヌを見ている。
「着替えて、朝食にしましょう。ドロテ」
「はい」
そう言って、侍女に着替えさせようとしたところ、クロエは手で制した。
「だから、自分でやるって。大体、なんでお前は来たんだよ」
「朝食を一緒に食べようと思って。まだ、マナーに自信がないのでしょう?」
「いや、それは……」
勿論、これがクロエの建前だということは知っている。
実際は、気不味いからという理由が大きいだろう。
それに気づかないふりをして、エリーヌは席に着いた。
クロエは諦めたようで、素直に着替えさせられて、対面に座った。
「貴女、もう十分テーブルマナーは身に付いているから、同じ食卓に着いても問題ないのよ?」
分かった上で、エリーヌはそう聞く。
「問題あるだろ。そもそも私は、お前とお前の母さんと平等な立場じゃない」
「そんなことはないわ。だって、お父様が迎え入れた方の娘ですもの。お母様はともかく、わたくしとは年まで同じなのだから、同等である他ないわ」
「ミドルネームどころか、姓もない、平民の中の平民だぞ。この家に来たからって、身分が変わるわけじゃない」
並べられていく食事を見ながら、クロエはそう言った。
確かに、エリーヌの父は、二人を正式な妾と養子として迎えたわけではない。
だが、それとこれとはまた別の話だ。
「この家は学校とは違うのよ。そんなことを気にする人間はいないわ」
「周りが気にしなくても、私が気にするんだよ」
エリーヌは眉をハの字にした。
彼女がここにきて大きな顔をしないのは、彼女が周囲に気を使える程度に大人だからだろう。あるいは、初日での出来事を未だに引き摺っているのかもしれない。
学校では自信家だが、ここでは強く己を主張しない。そう言うところから、彼女の聡明さがうかがえる。
「ここはもう、貴女の家よ。このままずっと気を遣っていたら、疲れてしまうわ」
エリーヌは心配そうにクロエの顔を覗き込む。
しかし彼女は、視線を窓の外に向けてしまった。
「……別に、いいよ」
諦観の滲んだ声で、クロエはそう言った。
テーブルに朝食が揃った。
「……ところで、今日何かする予定は?」
エリーヌはフォークとナイフを手に取って、話を変えた。
「? 特にないけど」
「なら、丁度いいわね」
エリーヌはニッコリ笑う。
自分が次に発する言葉に、口角を上げざるを得なかった。
「探検しましょう」
***
朝食を食べ終えると、エリーヌはクロエを部屋の外に連れ出した。
「屋敷を廻るって……初日に案内してくれただろ」
エリーヌが口にした探検。それは、シャントルイユ家の敷地内で完結するものだった。
「簡単にしか説明してないし、あの時は二人で話をすることに気を取られていたでしょう? お庭も行ってないし、まだ『イヴリン』にも会ってないわ」
「イヴリン? 誰だよ」
「ふふ。会ってからのお楽しみ」
そう言って、二人はエリーヌの部屋から出て歩き出す。
二階を一周し、一階の食堂や厨房を見て回り、使用人たちに時折会釈をする。
国の宰相を務める者の屋敷であるからして、屋内を廻るだけでもそれなりの時間を有する。
使用人の名前や、飾られている絵のタイトル。エリーヌの話に、クロエは淡泊だが相槌を打つ。
そうして二人は並び歩いた。
「ここから庭に出られるわ」
屋敷の中を巡り歩いて、二人は中庭に出た。
庭師によって手入れされた庭は、誰の目も癒す。
エリーヌや母ジュリエンヌが好きな花が植えられており、池には魚が輝きながら泳いでいる。
「おぉ……」
今まで口数の少なかったクロエも、この景色を見て感嘆の声を洩らした。
「案内したい場所がいっぱいあるから、ついてきて」
そんなクロエの表情を見て、エリーヌは表情を明るくしながら歩き出した。
不思議な形をした庭木や、自分の好きな花。巣をつくっている小鳥たちを、二人で見て回った。
「あ、こんなところに」
「ん?」
池の畔、花が咲いている根元にしゃがんで、エリーヌは手を伸ばした。
「うおっ、カエル」
「かわいいでしょう?」
そう言って、エリーヌは掌に載せたカエルをクロエの前に差し出した。
「……貴族のお嬢様ってのは、虫とか嫌いだと思ってた」
指でカエルをつつきながら、クロエはそう言った。
「ベネディクトは大の苦手よ。学校でこんな事をしたら、友達が減ってしまうわね」
エリーヌもカエルを撫で、再び足元に逃がした。
「昔から、生き物や植物は好きなの。ばあやには散々『お転婆だ』と言われたわ」
ばあやとは、数年前に亡くなったエリーヌの乳母だ。
幼い頃のエリーヌを知っている彼女は、事あるごとにそう言ってきた。
「意外だな。もっとお淑やかなもんだと思ってた」
「ふふふ。学校ではそういう風に振舞わないと、ね」
自分の実力と地位を鑑みれば、上に立つ者になることは容易に想像できる。
慕われるためには、自分の立場に見合った振る舞いをする。かのばあやから教わったことだ。
「貴女はどう?」
「……私?」
エリーヌはしゃがんだ状態で、クロエを見上げた。
「てっきり、もっと飄々とした人だと思っていたのだけれど、家ではあまりそう感じないから」
「そうか?」
「ええ。学校ではもう少しこう、積極的よね」
学校でのクロエは、自信家で言論強く、理不尽にはニヒルに笑って対抗するような人間だ。
しかし家では、学校程自信に溢れた姿は見えない。
「……まあそりゃあ、学校の外まで派閥争いはないからな。外面を気にする必要がないってのはある」
彼女はそう言って歩き出した。
エリーヌもその横に続いて歩き出す。
「学校では、それなりに気を遣っているの?」
「意識してるわけじゃない。ただ、人望は集めなきゃだろ」
彼女はそう言って、屋敷の方を眺めた。
「でも、今気を遣うべきは外面じゃなくて、母さんとその周りのことだし」
彼女がこの家で学校と同じような態度を取っていたら、周りはいい顔をしないだろう。
自分を俯瞰して、すべき行動を選び採ることができるのは、彼女が賢いからだろう。
「そうね」
エリーヌは小さく微笑みながら、その横顔を見た。
「ところで、さっきは普通にカエルを触っていたけれど、生き物は好き?」
「虫は好きでも嫌いでもない。動物はまあ、好きだけど」
エリーヌの質問に首を傾げつつクロエはそう答えた。
「ならよかった。じゃあ、こっちへ来て」
「え? ちょ、おい」
駆けだしたエリーヌの後を、クロエが追う。
向かった先は、中庭から少し離れた場所にある建物。
庭を手入れするための道具や馬車が仕舞ってある倉庫、エリーヌ達はその横に向かった。
「はい! この子が『イヴリン』よ」
彼女がそう言って紹介したのは、厩の中にいた一匹の仔馬だ。
「おー、仔馬! ちっちゃいな」
「ええ。まだ生まれたばかりなの」
エリーヌがその頭をなでているのを見て、クロエも手を伸ばす。
どんな生き物でも、子供というものは可愛い。
「いつも馬車を引いている馬の子供よ」
「あっちにいる馬の?」
「そう。右がクリスで、左がチャーリー。奥に居るのが、この子の母親のイーヴァ」
「そういや、前から立派な馬だなと思ってたんだよ」
「うちの御者は目利きが良いのよ」
いつになくクロエの反応は好感触だ。エリーヌも、より一層笑顔になる。
「もし貴女のお母様が少しでも動けるようになったら、今日廻ったところを案内してあげてね」
クロエの為人を垣間見たエリーヌは、彼女が喜んでくれるであろうと思った言葉を口にした。
「……そうする」
そう言った彼女は、ここに来てから始めて見せる笑顔を浮かべたのだった。