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その音を聞いてオフィーリアは兜を取って地面に座り込んだ。
砦のラッパだ。
もうすぐ太陽が西の峰に沈む。目を刺すような日の光に目を眇め息を整える。
最後に放った土魔法は思いの外魔力を多く消費してしまった。消費し過ぎた魔力を補うため無意識に体力も消費が激しくなっていたらしい。
オフィーリアは剣を振るうのを止めて初めて自分の身体の消耗に意識を向けた。
気づけば愛馬のオルフェーヴルが主人の肩を小突いていた。大丈夫?と語りかけるような黒々とした愛馬の瞳にオフィーリアは笑みを浮かべて手を差し出す。
鼻先を撫でてやろうとして、止めた。オフィーリアの手は血と砂ぼこりで汚れていた。
「ちょっと待っていてね、いま拭うものを…」
剣を鞘に納めて両手を擦ってみたがなかなか綺麗にならない。それどころか半日以上剣を握っていた左手は固まって指が真っ直ぐに開かなかった。
大人しく待っても撫でてこない主人に痺れを切らしオルフェーヴルの方からオフィーリアの顔を舐めだした。
「こら、……くすぐったいったら」
両手同様に敵の返り血や土埃で汚れているだろうに、愛馬はそんなことはお構いなしだと言う様に主人の顔を舐めまわす。
「まったく…」
舐めまわされるままになるしかないようだと諦める。しばらくして気が済んだのかオルフェーヴルが鼻を鳴らして蹄で地面を蹴りだした。
「オフィーリア様! こちらでしたか」
砦の方角から数人の騎士が馬で駆けて来た。
「皆けがはない?! 辺境伯様は?!」
「アッシュフィールド辺境伯様はご無事です。砦で指揮を取っていらっしゃいます。オフィーリア様はお怪我ございませんか?」
オフィーリアは全身を血で汚れていた。
「案ずるな、これは私の血ではないよ」
「そうですか。良かった…」
「先ほど三のラッパが聞こえたけど、敵は北西のトラファンに引いていったの?」
「はい。トラファンの方角です。奴らがあれだけ複数の部族をまとめて同時に攻めてくるのは珍しいと辺境伯様が仰っていらっしゃいました」
「そうね。……悪いのだけど貴方たちはこの辺りを巡回して警戒と負傷者の救護をお願いできる? 私は自分の隊と合流して報告に向かいます」
「かしこまりました! 護衛を付けます」
「必要ない」
騎士の提案を遮るようにオルフェーヴルに跨るとオフィーリアは砦の方角へと駆り出した。
「父上!」
「おぉ、オーリ。…怪我はないか?」
砦についてすぐ父の姿を見つけることが出来た。半日ぶりの親子の再会だ。
戦いが終わったばかりの砦の中は負傷した者たちや投石の残骸などでごった返しているが混乱はしていない。父が指揮をする北東の塔も大きな被害はなく、父の周りには各部隊を指揮する騎士たちがほぼ集まっていた。皆オフィーリアの血で汚れた甲冑をみて少し驚いたようだった。
「相手の血です。私も部隊も負傷はしておりませんのでご心配なく。それより、敵は北西に引きましたがトラファンではないと思います」
「トラファンではない?」
父だけではく周りの騎士たちも驚きの声を上げる。
皆長年父の配下として領地と国境を守り戦ってきた経験もオフィーリアより豊富な年嵩の騎士たちだ。そんな猛者たちから向けられる異論の視線にも臆することなく自分の意見を述べる。
「武装は確かにトラファンを中心とした山岳部族のものでしたが、明らかに魔術師の数が多すぎます。僅か数か月で急激に魔術師を増やせるとは思えません、それに使っていた剣術は帝国のものです。トラファンに扮した帝国の兵とみて良いのではないでしょうか」
「…帝国の偽装か」
「わざわざ公国の北からですか? ありえません!」
「しかし、奴らが北西と見せてそのまま西の峰に兵を引いて行ったと巡回にあたっていたものからの報告があります」
「なんと!」
「…西の峰を超えたのであれば帝国領です、辺境伯様」
「いかにも。しかしこの時期になぜ帝国が公国に兵を出すのです? 帝国は先帝の死後に起こった内乱がやっと収まったというに」
「だから、ではないのですか? 皇太子派が勝ったとは言え皇弟を支持する貴族派閥はいまだ帝国内に多くおります。…手を出さなかったとはいえ我らが主君は皇太子を支持していらっしゃるのですから」
オフィーリアの報告を裏付ける情報もあり、事実に困惑しながらも皆冷静にこの戦について思案している。僅かばかりの沈黙をおいて父が全員を見渡し告げる。
「今回の戦が帝国からのものとなれば、早急にアシュリー公にご報告せねばならんな」
その場の全員が同意を示す。
「ミュラー卿。前線でも奮戦してくれた卿には悪いが、至急公都キュリオスに赴き仔細をアシュリー公にお知らせ願えるか? 事がこと故に時間が惜しいのだ」
父の騎士の中でも中堅のミュラー卿に皆の視線が集まる。
ミュラー卿は戦での疲れも見せず騎士の礼で父の申し出に答えた。
「は! 我が配下を連れて直ちに出立いたします」
「ふむ、頼んだ。トラファンへの警戒と砦の守りはタッセン卿とワイズマート卿だが、今回はルーシャン卿とヘインズリー卿にも就いて貰おう。帝国の動きは気になるが山岳民への警戒は手を抜けんからな」
「「「「かしこまりました!」」」」
父は今後の砦の体制を指示し終え、オフィーリアに改めて向き直り娘の全身に目を配った。
「ところで我が娘は今回どこの輩の血を浴びて来たのだ?」
今更な父からの質問が可笑しくて、オフィーリアはちょっと笑ってしまいそうになる。
「さぁ? 何人かの隊長階級と思える敵兵を切って燃やして薙ぎ払って、ついでに埋めてきました。少々辺りの地形が変わったかもしれませんね」
オフィーリアの魔力属性は相性の良い火・土・風に特化している。併せてアッシュフィールド辺境伯家に代々受継がれる剣術の腕前もあって一般兵などはオフィーリアの敵ではない。
「ワイズマート卿。手間をかけるが砦の周辺地形の調査も頼む」
父は娘の少々お道化た報告に頭を抱えているが、その口元は笑っていた。
「はっはっは。かしこまりましたぞ、閣下。いやはや我らが姫の勇ましさは公国一、いや大陸一ですな! わー、はっはっは!」
「山岳民などは【鮮血の戦姫】などと称えているおりますよ」
父よりも年嵩のワイズマート卿は豪傑らしい笑い声をあげ、ルーシャン卿は好々爺の笑みで合いの手を入れてくる。
「我がアッシュフィールドを支える騎士の卿たちがその様にもてはやしては娘が調子付くので止めよ。それにその様な異名は我が妻の耳に入りでもしたらまた大変だぞ」
「と、申されますと?」
「夫人が卒倒されるのですよ、タッセン卿。辺境伯夫人は貴婦人の中の貴婦人ですよ? 我らが姫は公国や周辺国では【勝利の戦乙女】とも謳われる姫ですが夫人は早々に婚姻を、と思っておいでなのですよ」
ヘインズリー卿の説明に父と娘は苦笑いするしかない。
付加えるならば新年を迎えたここ数ヶ月間の母からの『屋敷にお戻りなさい攻撃』の凄まじさは昨年の比ではない。
三日と開けずに届く手紙はオフィーリアの元だけでなく父の元にも同等かそれ以上の数が届いているのだろう。しかも日を追うごとに手紙の厚みが増している。母の執念の凄まじさを思い出し身震いを起こしてしまうオフィーリアだった。
「我が妻の思いも分かるのだがな。…クライブの事も思うとオーリの夫たる立場になる者の人選は慎重にならざるを得んよ」
「…ご嫡子クライブ様のご容体はいかがですか?」
「新年を迎えたしばらくは元気にして屋敷の外にも散歩に出ていたようだが、肺炎を起こして寝付いたままひと月になる。クライブの体質は生来のもの、今の医療魔術でもどうにもならん」
アッシュフィールド家はアシュリー公国の成立以前よりかの地を治めており、大陸創成期まで遡ることのできる古い家系だ。
その家の特徴の一つは、生来人のその身で生産、保有する魔力量をはるかに超えた魔力をその身に秘めるもの。
一般的な平民階級の保有する魔力量は0~20程。生活魔法を使う上でほとんど困ることのない量で、魔力を持っているかと言って必ずしも魔法を使うという訳でもない。魔力量が0の者だっている。人が生きるうえで魔力が必要という訳ではない。
しかし魔力を使い万物を操る魔術師ともなるとその保有量は30~90程。差が大きいのは自身の魔力量を公開したがらないからだが、王宮付きの魔術師ともなると50~60程は保有しているものだ。
そしてアッシュフィールド家の血を濃く受け継ぐと魔力保有量は軽く100を超える。
現アッシュフィールド辺境伯の父、ギルバート・フランシス・アッシュフィールドの魔力保有量は300を超えている。あくまで本人申告で、だが。
長子の兄クライブの場合はその父をも遥かに上回る魔力を常に生産し続けていて、膨大な魔力が身体に相当な負担を掛けているのだ。言わば自分で自分の身体を攻撃しているような状態であり根本的な治療法は存在しない。
クライブと同等の魔力保有量を持つオフィーリアは兄のような体質は持っていない。
魔力の生産と身体をめぐる循環機能に起因する異常体質なのだと最近の医療魔術の研究では言われている。
そして、父が貴族としてはすでに行き遅れの域に達しているオフィーリアの結婚に慎重になる要因は、末子の次男ルシアンの魔力保有量が0だと判明したからでもあった。
貴族であっても魔力0で当主となり爵位を継承することは普通の事だが、アッシュフィールド家の場合は少なからずも魔力がなくては家の血筋を繋いでいくことが難しくなってくる。
アッシュフィールド家の嫡流の男児は二人。
魔力過多で病弱なうえ騎士としても爵位を継ぐことが難しい26歳の長男と、魔力保有量0の10歳の次男。
そして兄クライブと同等の父ギルバートを遥かに超える魔力を持つ健康体の22歳長女オフィーリア。
さらにこの三日後、屋敷の家令より届いた一通の手紙により父は頭を抱えることになった。
その内容は、『夫人危篤急ぎ戻られたし』と。
つづく。