行先案内品
「僕の好きなことは、車で散歩すること」
出会ったばかりのころ、彼はそう話した。
「散歩って、足で歩くことじゃないの?」
私は首をかしげて問い、笑いかけた。
都心で育って、自転車と公共交通機関しか使わない私には、車は縁のない乗り物だった。
けれど、彼とつき合い始めて、助手席に座るようになると、その散歩という感覚がだんだん分かるようになってきた。
当時の彼の車は、グレーの中古車で、カーナビもついていなかった。
それでも、彼は大半の場所を車で移動することができた。
「暇なときは、地図を眺めるのが楽しいんだ」
彼の狭いアパートには、全国各地の様々な地図が置いてあった。地方から上京して、そのまま就職したにもかかわらず、彼は都心の渋滞時の抜け道さえ詳しいのだ。
私は彼の運転する隣りで、時折道路地図の読み方を教わった。方向音痴もあって、ほとんど役に立たなかったけれど。
二人でよく、全く初めての場所へ遊びに行った。そういうときは、さすがに道に迷ったり、間違えたりすることもあった。
これまでつき合った他の男性と行ったようなデートスポットには、不思議と行かなかった。
どこにでもありそうな公園、海、野山。映画を観に行くとしても流行りのものではない。しかも、途中で小さなお店を見つけて覗いてみたり、展望台を見つけて登ってみたり、散歩するようにめぐった。
いつもどこかのんきなデートコースで、たとえ目的地に着くまでに遠回りしてしまうことがあっても、楽しい。
そんな穏やかな恋人時代があった。
私と彼が結婚して、もう五年になる。
今では、私と彼の間には娘の真由がいる。小さな娘の育児と仕事で、私の毎日は全くゆとりがない。
真由は、こちらから提案したことは何でも「嫌」と拒否する。こちらがやってあげようとしたことは何でも「真由ちゃんがやるの」と言い張る。そのくせ、うまくできないと「ギャー!」と癇癪を起こす。
魔の二歳児の噂は聞いていたが、これほどとは思わなかった。
職場からくたびれて帰ると、次にはうまくいかない子育てが続き、私はほとほと疲れ切っていた。
「何だか本当に忙しそうだね」
日曜日の朝、夫の暢気そうな声に私は苛立った。
「大忙しに決まっているじゃない。真由ちゃんは着替え一つスムーズにできないし、つまらないことにこだわって泣くし、すぐに抱っこっていうから、家事も碌にできないのよ」
つい愚痴っぽくなってしまった。彼だって仕事で疲れていて、休日くらいのんびりしたいに違いないのに。
「車で散歩に行こうよ」
夫は提案した。
「ちょっと大きな公園までゆっくり行って、真由ちゃんを遊ばせてこようよ」
家にいても、確かに煮詰まっている。真由は屋内での遊びに飽きていたらしく、喜んで行きたがった。
桜の花が散りはじめ、若葉の濃くなるこの季節、曇り空では少し肌寒く感じる。
天気予報では午後から晴れるそうなので、さほど心配はないかもしれない。とりあえず、真由には上着を一枚用意して行こう。
「それじゃ、ちょっと支度をするから」
わたしは黄緑色のエプロンを外して、着替えに行こうとする。色合いやデザインが気に入って買った物だが、すでに色あせてきている。
今日も新しい染みを見つけた。真由がさっき、お絵かきをしていて、その手で触ったせいだ。
コンロには、トマトソースのついたフライパンが置かれたままだ。机の上には、くしゃくしゃになった画用紙が数枚あり、箱にしまい忘れたピンクと水色のクレヨンが転がっている。
リビングには、真由のカラフルな型はめのおもちゃの中身が散らばっていた。取り込んだだけで畳んでいない洗濯物が隅の一角を占めている。
おまけに、休日だからと物の整理を始めたものの、箱に詰める途中で投げ出していた。
夫は、広い背中を向けて、そばにあった段ボールの箱を覗いた。
「あれ、これどうするの?」
「ああ、児童館に持っていこうと思って。真由ちゃんの使わなくなったおもちゃとか入れてあるのよ」
「寄付するってこと?」
「うん、寄付ってほどじゃないけど。クリスマスに、おばあちゃんが木製のおままごとセットを買ってくれたでしょ。それでプラスチックのセットは必要なくなったし、他にもベビー用品で使わなかった物とか持っていくと引き取ってくれるらしくて」
「そうなんだ」
彼は、しゃがみ込んで中身を確認している。小さな子どもの物など、わざわざ見るものもないだろうに。
そう思ったのに、尋ねられた。
「それじゃ、これだけもらってもいい?」
「え? 別にいいけど」
夫の右手には、プラスチックのおもちゃが一つ握られていた。
「よし、出かけるぞ」
マンションの駐車場へ出ると、夫は真由を抱き上げる。
真由が生まれたとき、車を買い替えた。古い車では、チャイルドシートが取りつけられなかったからだ。
新しい車になって以来、彼と私が好きな音楽はかかることがない。車内で退屈してぐずる真由のために、いつも手遊び歌ばかりが聞こえている。
私は大きなバッグを抱えて、白い車のトランクを開ける。ボールなどのおもちゃやタオル、おむつ、お手拭き、ちょっとしたおやつなど、様々なものを詰め込んで持っていくのだ。
その重さが心と体の疲れに響き、ため息交じりにバッグを放り込んだ。
夫はその間、真由をチャイルドシートに座らせる。
チャイルドシートのベルトがかちゃりと音を立てる。その途端、真由があっと声を上げた。
「パパ、あれ真由ちゃんのおもちゃ!」
「うん、パパ気に入ったから、借りていい? 同じものが木のセットにあるんだろう」
「いいよ。おもしろいね」
真由のはしゃぐ様子に、トランクを閉めようとした手を止める。
車のフロントガラスの前に、さきほど夫が手にしていた真由のおもちゃが置かれていた。
「ちょっと、パパ」
後ろのドアを開けたまま真由と話し込んでいる夫に、私は声を掛ける。
「何それ?」
「鍋」
真由のままごとセットの鍋なのは分かっている。黄色い片手鍋で、赤い蓋がついている物だ。
「何でそんな物を車に置いているのよ?」
私は少し強めに言ったが、彼の口調は相変わらずゆったりとしていた。
「ナビだよ」
「はあ?」
「僕のナベゲーション」
「ナベゲーション? ナビゲーションってこと?」
「そう、僕に道案内してくれるスーパーアイテムだよ」
「だって、鍋でしょ、それ」
呆れる私の言葉にも、夫はめげない。
「うん、僕の不思議なナビゲーターさ」
「鍋置いて、ナビの代わりってこと?」
「そう」
彼はこくりと頷いた。
「変なの」
思わず吹き出してしまった。
すると、夫は右手の拳を振り上げてガッツポーズをした。
「やった、奈緒ちゃんが笑った!」
「えっ?」
つき合い始めたころから、夫は私のことをずっと「奈緒ちゃん」と呼んでいる。真由の前でもあまりママとは呼ばない。
対して私は、真由が生まれてから、随分変わってしまった気がする。
彼はにこやかに笑う。
「最近、奈緒ちゃんが笑っているところ、見たことがなかったから」
柔らかい風が吹いて、どこからか車のそばに桜の花びらを運んできては、また持ち去っていく。
しんみりとした顔になって、彼は呟いた。
「いつも真由ちゃんのことで余裕ないみたいだけど、どうすればいいか分からなかったんだ。気分転換に外へ出ても面白くなさそうだし、僕が道を間違えたときは怒ったりするし」
確かに、この間新しくできたショッピングモールに行くときに、道を間違えて大回りをした。そんなに長い時間じゃなかったのに「何してるのよ」って非難してしまった。
夫にとっては、そのことは気がかりだったんだろう。
「私、いらいらしすぎだよね」
低い声で言葉をもらすと、彼は大きく首を横に振った。
「共働きなのに、いつも奈緒ちゃんに負担をかけているよね。保育園に真由ちゃんを送り迎えするのも、夕食の支度や片付けも、真由ちゃんのお風呂も寝かしつけも全部、任せっきりで悪いとは思っている」
「そんな。だって、パパが帰るの、遅いから仕方ないでしょ」
変に反省しすぎているようにも思えて、そう返した。
「でも、休みの日も奈緒ちゃんが忙しすぎて、笑ってくれないのが寂しいんだ」
「え……」
寂しいという言葉が意外だった。夫は毎晩遅くまで仕事で、土日はただ休みたいだけかと思っていたから。
「あのさ、手伝えること、もっと言ってよ。僕にできることは限られているかもしれないけど、真由ちゃんと二人でごたごたしているのを見ているだけなのは、僕も辛いんだよ。もちろん、真由ちゃんが生まれる前のようにいかないのは分かっている。車に乗っているときだって、真由ちゃんの隣でいろいろ面倒見ているんだもんな」
夫は、私と真由のやり取りをそんな思いで見ていたんだなと初めて分かった。
「とりあえず」
彼は続ける。
「車の助手席に奈緒ちゃんがいなくて寂しいから、鍋置いておく」
「ちょっと待って。私の代わりが鍋なの?」
思わず問いかける。
「こいつにナベゲーションしてもらうんだよ。ナビほど役には立たないけど、僕は鍋を見て、間違えないように意識するからさ」
「鍋を見たら、道を間違えないの?」
「いや、間違えるかもしれないけど、少しは気をつけようって気持ちになれるかなって」
私はとうとう、ふふっと声を出して笑ってしまった。
「そんなこじつけなくてもいいよ。ナビの代わりに鍋って言って、うけてみたかっただけなんでしょ」
「分かった?」
「当たり前でしょ」
すると、チャイルドシートからじっと見ていた真由が話す。
「ママ笑ってるよ、パパ?」
「おう、うけてるよな、真由ちゃん?」
真由と夫も笑う。
真由はよく周りから夫に目元が似ていると言われる。そのせいか、二人の笑顔はそっくりだった。
それを眺めていると、くすぐったいような愛おしさが、胸の内に灯る。家族みんなで笑うのって、こんなに心地よいものだったんだなと思い出した。
結婚するとき、私は彼のマイペースでのんびりしたところが好きだと感じていた。この人と一緒に人生を歩むことで、自分も大らかでありたいと思っていたんだった。
「ナビ」と「ナベ」なんて考えつくのは、彼らしいことだ。
そうは思いつつ、自分にゆとりがなくて、夫が寂しく思っていたことも、理解できた。
押すと、トランクは軽やかな音を立てて閉まった。私は真由の隣りの席に座る。
「良伸さんの気持ち、分かったよ。運転は鍋に手伝ってもらって。いつもは、良伸さんに私の手伝いをしてもらうからね」
普段パパとしか呼ばない私は、久しぶりに夫の名前を口にした。
「はいはい、了解しました」
名前を呼ばれたことに気づいたのか、運転席の夫のシートベルトを持った手の動きが一瞬止まる。けれど、彼はそのまま締めた。
私も後ろでシートベルトを締める。
「しゅっぱーつ」
真由が大きな声を上げる。
車の前面に置かれた鍋は、やっぱりどう見たっておかしい。
これから公園に遊びに行って、帰ってくれば家事や育児に追われる。明日になれば仕事もまた始まる。ゆとりのあるときなどほとんどない。
だけど、今日のことは覚えておこう。
車に置かれた鍋を見つめて、彼が道を意識するのなら、私は笑顔を意識しようか。
私たち家族のこれからの行先に、みんなの笑った顔があるように。
ハンドルを握って、夫が空を見上げた。
「あっ、晴れてきた。いい公園日和になるぞ」
本当だ。車のフロントガラスを太陽が明るく照らし出している。
プラスチックの鍋は、春の日差しにきらりと光った。