壱 (3)
彼女の奇妙な条件に迷いながらも、彼女との日常を楽しむことにする彼。でも、それは悩みが消えたわけではありません。そんな彼の悩みが伝われば嬉しいです、よろしくお願いします。
それからだった。彼女と屋上で会う機会が増えたのは。
何を話すわけでもなかった。
たわいない話。
何も話さず、ただそこにいるだけ。空を眺めるだけ。そんな日もあった。
お互いに告白について話すことはなかった。
それでもよかった。
そんなある日、ようやくお薦めの本の話を訊くことができた。
あるとき、彼女は自分を“マネキン”だと皮肉ったことがある。もしかすれば、彼女にまつわる噂を耳にしたのかもしれない。
しかし、屋上にいる彼女は、以前、書店で見た彼女に戻っていた。
それが彼には嬉しかった。
「……いいのか?」
「……別に」
「別に、か」
「ーーそ。気にしてない」
「でも、その……」
「元カレってこと?」
「…………」
「どうだろ」
「どうだろ、って、そんなもんなの?」
「なんで、あなたがそんな悩んだ顔をするの」
「そりゃ、そうだけど」
「ねぇ、前に言ったでしょ。付き合うための条件」
「…………」
「忘れた?」
「忘れるわけないだろ。好きな人が別れるまでの期限付きって……」
「どう思う?」
「そんなこと言われたって」
「あれって、今考えると変な話だよね」
「……変って。お前が言ったんだろ」
「あれ、冗談だって言ったらどうする?」
「冗談……」
「何、真剣になってるの。バカみたい」
「バカって」
「……フフッ」
「笑うところじゃないと思うけど」
「まぁね」
「あ、そういえば、前にこの話したとき、何か言いたげだったけど、あれって、なんだったの?」
「あぁ、あれか」
「もしさ、もしもの話だけど、その、相手が別れなかったら、どうしたのかなって思って」
「……ずっと付き合えないないんだろうね」
「……それって」
「なんか、あの太陽みたい」
「……太陽?」
「そう。あれだけ眩しいくらい輝いているのに、絶対に手に触れることはできないんだから」
「……だから太陽か」
「そう」
「それって、辛いかもな」
「そうかもしれないね」
「でも、それでいいのか?」
「…………」
今日も、これといった会話があったわけではない。
ただ、空に佇む太陽を眺めているときだった。
彼女がグランドを眺めながら、小さく声をもらした。
彼女の声につられて、彼も立ち上がり、グランドを眺めると、彼は一瞬、息を呑んでしまう。
部活で走る生徒を避けながら、歩いている二人の後ろ姿を捉えた。
見るからに恋人同士の姿。
それを見つけるのと同時に、彼の胸が緊張に襲われ声を失った。
二人の仲は疑いようがないのだが、数ヶ月にもならない前に、彼氏の隣にいた女の子は、別の子が肩を並べていたと噂があった。
彼は平静を装いながら横を見た。
彼氏の隣にいたのは、マネキンと揶揄されている彼女。
……のはずである。
実際に彼が見たことがなかった。噂でしか話は知らないが、遠離る二人の姿を遠い目で、それでいて儚く眺める彼女を目の辺りにすると、疑いようもなかった。
動揺している彼に気づいたように、彼女はこちらに振り向くと、慌てて目を泳がせる彼を見透かしたように髪を掻き上げた。
確認したいはずなのに、唇が固く閉じられてしまう。
髪を掻き上げた右手を耳に触れたまま、こちらをじっと見据えていた。何かを含んだように、広角を鋭く上げた笑みを浮かべて。
吸い込まれそうな笑みに、彼は言葉を濁しそうになる。
ーー でも、ちょっと信じられないかも。
ーー 何が?
ーー あの二人よ、土田ら。
ーー あぁ。すぐに別れて別の子と、ってやつ。
ーー 初めから両方と付き合ってて、一人に絞ったんじゃないの? あいつならやりそうだな。
ーー でしょ。
ーー でも、それだけじゃ、ないんだよね。
ーー 何? ほかにも何かあるの?
ーー 別れたって子、ほら、水原だったじゃない。
ーー あれ? そうだっけ?
ーー うん。そんなこと聞いたことがある。
ーー でも、噂じゃなかったっけ。
ーー 私の友達、仲よく喋ってたり、喧嘩してるところみたことあるって。
ーー どんだけ、頑丈な神経してんだよ。それじゃ。
ーー 厳しい言い方だな。
ーー だって、そうじゃない。時間が経ってからならそうは思わないけど。
ーー いいんじゃないの。水原も気にしていないなら。
意識をしていないつもりでいても、時間が流れると否応にも、その日は近づいてくる。
親友が命を落とした事故の日を翌日に控えた日。彼はもう一度、事故現場に足を運んでいた。
数日前にテレビで見なければ、きっと、今日すら足を運んでいなかった罪悪感もあったが。
それでも、事故当日に訪れる勇気はまだなかった。
交差点付近、やはり静かで何も変わったことはなかった。違うのは彼の気持ちが微かに騒いでいるだけ。
横断歩道の手前。
彼は立ち止まり、辺りを見渡した。
誰も彼やこの場所を気にしていない。何ごともなく通りすぎていく。
目立つのは正直恥ずかしくて嫌だったが、これまで忘れていた罰なのだ、と自分を罵る。
しかし、一度ため息をこぼすと、目を見開いてしまう。
一本の花が横断歩道の脇に添えられていた。
名前は分からなかった。
赤い花びらの花はラッピングされ、申しわけなさげに置かれていた。
彼の頬が少し緩んだが、それと同時に胸を痛める。
誰もが忘れていたわけではなかった。
安心する一方、拒んでいた自分がよりみっともなくなる。が、やはり心のどこかで嬉しかった。
もう恥ずかしがっていられなかった。
突然しゃがみ込んだ彼に、少なからず通行人の数奇な眼差しが注がれている。
偶然か不運なのか、信号が赤になり、車道に車が並んでいく。何をやっているのか、と彼に興味を注いでいる視線を体が受けていた。
それでも彼は動じず手を合わせた。
目蓋を閉じると、暗闇に親友の懐かしい顔が浮かんできた。
何を語りかければいいのか。
ここに訪れるのに時間が経ったことを謝るのか。
彼女から聞かされた条件を相談するべきか。
脳裏に浮かんだ言葉を、どう組み合わせればいいのか、上手くまとめられず混乱してしまう。
言葉を掴めないまま、手刀に力を入れてしまった。
「ーーそっか。明日なのね。事故って」
「今さら、何言ってるんだよ。前にもテレビでやってたじゃんか」
「まぁ、そうだけど。やっぱり気が引けるわね。そこで圭ちゃんが…… って思ってしまうと」
「ーーまぁ、それは分かるけど」
「やっぱり、行くべきなのかな」
「ーー花が一つあった」
「ーーん? あんた、行ったの?」
「うん。今日の学校の帰りに」
「へぇ、意外なのね。忘れていると思った」
「んなわけないだろ」
「それで、どうだったの?」
「だから言ってるだろ。花が一つだけあったって」
「じゃぁ、誰かが添えていたのね。家族の人か、それこそ友達か誰かが。けど、どうしたの、浮かない顔して」
「いや、ただ」
「ーーただ?」
「ただ、なんで花が一本だったのかなって思って」
「それは人それぞれでしょ。大体、なんの花だったの?」
「そんなの知らない」
「何よ、それ」
なんとなく気になっただけだよ」
「きっと、亡くなった人が好きだったか何かじゃないの。それだけ印象に残ってるってことは」
「なのかなぁ……」
「だったら、明日あんたも何か持って行けばどうなのよ。圭ちゃんの好きだった物とか」
「嫌だよ、そんなの。恥ずかしい」
なぜか気になっていた。
彼のように事故に背を向けている人に、何かを訴えているように添えられた一輪の花が。
母親には気にかけた様子を見せなかった。
それよりも、事故当日に行くことを促されて戸惑ってしまった。
当日に向かうことを恐れていた。だから、前日にいっていたのである。
ーー やっぱ、バカだよね。取る方も取る方だけど。
ーー ってか、好きだな、その話。
ーー そう? ただ、ちょっとイラついているだけ。
ーー 土田が?
ーー あいつは怒る以前に最低。
ーー じゃぁ、水原?
ーー 確か、水原って確か服部と付き合ってたって、噂じゃなかった?
ーー いや、それって服部が一方的になってるだけだろ?
ーー そんな雰囲気なかったけど、そうなの?
ーー らしいよ。
ーー けど、それならなんで土田に取られるかなぁ。
ーー やけに突っかかるなぁ。お前、土田と何かあったの?
ーー 別にただ女をバカにしているみたいで嫌なだけ。知ってる? あいつ、女子の間だと、結構嫌われてるんだよ。自己中で嫌だって。
ーー あ、それは俺らの間でも一緒だって。
ーー そんな奴に取られた服部くんもバカよ。ホント、意気地なしっていうか。
ーー まぁまぁ。そんなに怒るなって。
ーー それで、その服部は今日見てないな。
ーー あいつ、そういえば昨日も早く帰ってたな。
ーー 何か用事あったのかな?
ーー さぁ?
ーー あ、それと、噂だったら……。
時間は巡る。
拒む音。
恐れる音。
彼のように悲しむ者を置き去りにしながら。
天井の蛍光灯。
眩しい輝きを眺めながら、止まることのない時間を残酷に受け入れるしかない。
親友の二年目の命日訪れていた。
きっと何もなければ、素直に学校に行っていただろう。しかし、改めて親友のの死を認識させられると、忘れかけていた罪悪感に襲われて、“今日”が嫌になっていた。
今日一日部屋に閉じこもっていた。
もちろん、学校を休んだ理由は仮病でしかない。
部屋にいる間、彼はずっと本読んでいた。
雑誌。
漫画。
小説。
何冊読んだのかは覚えていない。
テレビやスマホを見る気にはなれなかった。普段、暇があれば何かしらのアプリを使っていても、今日だけは外部との接触を拒んでいた。
それでもふとした瞬間、親友の声は脳裏に蘇っていた。
そんなときだった。親友の恋人をふと想像してしまうのは。
恋人ができた、と嬉しそうに電話してきたとき、執拗に彼女の写真を送ろうとしていた。
それを彼はいつも拒んでいた。
のろけるのがキモイ。
別に可愛くないだろう。
興味ない。
口では皮肉っては強がっていたが、心のどこかでは嫉妬していたのかもしれない。その弱みを親友だからこそ、露呈するのが恥ずかしくて強情になっていた。
展示会を見上げながら嘲笑する。情けない自分を思い出してしまい。
結局、親友も一度も写真を送ってくることはなかった。
普段からたわいない連絡はしていた。一方的に恋人の写真を送ろうとすればできたはず。
それをしなかったのはなぜだったのか。
今は分からない。
ただーー
ふと今になって、親友の恋人がどんな子だったのか、急に気がかりになった。すると、意識に反して、事故現場が浮かんでくる。
あの花は誰かの恋人に贈られた物なのか、と。
思い描いた関係にかぶりを振る。
そんな偶然はあるわけがない。
脳裏で笑いながら否定する親友の顔が、事故現場の光景を掻き消す。
そうだよな、と納得したあとに、親友はさらに口を動かして問う。
何度も聞いた質問。
お前には好きな子はいないのか、と。
彼は鼻で笑い、親友の顔を消した。
そんな奴はいない。
と、昔ならすぐに憎らしく反論していた。
今、実際に問われると……。
ふと真面目な表情になり、唇を強く噛んだ。眩しいはずの蛍光灯をじっと見詰めてしまう。
霞みそうな視界のなかに、一人の輪郭が薄らと浮かんでいた。
屋上で見せた屈託ない彼女の笑顔が。
ーー ねぇ、玲香たちの話を聞いたんだけど、あれって本当なの?
ーー あぁ、土田の話でしょ。好きだよねぇ、玲香ってホント、人の悪口。
ーー あ、それって、私も聞いたことある。よく、あぁやって堂々と話せるよね。
ーー でも、あれって本当なの?
ーー 大体は本当らしいよ。
ーー へぇ。だったら、やっぱり土田って嫌になる。火野さんもだけど。
ーー 何? それが聞きたかったの?
ーー えっ、あ、うん。実は私、ちょっと引っかかることがあってさ。
ーー 何、何?
ーー 土田の話よりそっちが気になる。
ーー 実は二人、友達だったんだよね。
ーー 友達って、水原さんと火野さんが?
ーー そう。結構、仲よかったんだけどね。
ーー それじゃ、友達の彼氏を奪ったってことなの?
ーー 今は知らないけれどね。
ーー で、何があったの? そんな仲がわるくなるようなこと?
ーー さぁ? けど、悪いってわけじゃないようにも見えるけど。
ーー でも、高校に入ってからは、二人でいるところはあんまり見ないかもね。
ーー それって、やっぱり、恋人を取ったのが原因なのかな。
ーー でも、それって最近だし。
ーー それに“マネキン”だから、そんなの気にならないんじゃない。
ーー それ言ったら、元も子もないじゃん。
ーー それに、だからって身を引いちゃうんだもん。
ーー 変だよね、確かに。
「ねぇ、何かお薦めの本ってある?」
「なんだよ、急に」
「ちょっと、気分転換よ、気分転換」
「気分転換って」
「まぁ、ちょっとね」
「…………」
「…………」
「って、なんであなたまで黙ってしまうのよ」
「だって、あれだろ?」
「……まぁ、そうなるかな」
「なぁ、さっき変な話聞いたんだけど、お前ら中学のころ、友達だったのか?」
「中学のころ、か……」
「……違うのか?」
「……そうだよ」
「じゃぁ、お前は彼氏が自分の友達のこと好きだと知っていて、付き合っていたってことなのか?」
「……どうなんだよ?」
「だとしたら、どうする?」
「お前、それって」
「考え方によっては、言い訳だよね、あの条件って」
「お前、何言ってんだよ」
「あれ、冗談じゃなかったら、どうする?」
「冗談じゃない…… それって」
眼差しは彼を茶化しているように、不敵な笑みをまとっていた。しかし、彼女の笑みを、正面から受け止めることができなかった。
その日の放課後。いつものように二人は屋上にいた。
いつもと同じように、グランドの隅を歩いて帰る恋人二人の後ろ姿を、何かを喋るわけでもなく、じっと見送っていた。
昨日までならば、胸にうずくまる苛立ちのような、気持ち悪さがつきまとっていた。しかし、今日は苛立ちとは違う、肺の奥底から切り裂く痛みが彼を苦しめていた。
今日の二時間目と三時間目の間の休み時間。その会話は彼の耳に入ってきた。
屋上から黙って見送る恋人の彼女と、マネキンと呼ばれる彼女が中学時代、友達であったという話を。
根も葉もない噂でないのは、聞こえてきた会話から伝わってきた。
だからこそ、なおさら疑念がより苦しませていた。
好きな人を友達に奪われたのか?
いくらなんでも、信じられなかった。
友達だとはいえ、奪われた。だから仲が悪くなってしまったのか、と。
それを確かめようと、内心覚悟に似た強い意志をまとって屋上に向かっていた。しかし、実際は訊けなかった。
それがきっかけで、仲違いになってしまったのなら、さらに彼女の傷口を開いてしまう気がさそてしまい。
迷いが無意識に彼の態度に現れていたのかもしれない。
彼女はいつになく、会話の途切れ際に、話を割り込んできた。
風が強い。
明日の数学が嫌だ。
新しい服がほしい。
彼の顔を見ず、遠くを眺めながら。
そして、グランドの二人を見つけたとき、特にぎこちなくお薦めの本を訊いてきた彼女に、彼は話を逸らした。
ただの気分転換と反論してきたところで、彼は遠離る後ろ姿に目をやり、話を引き込んだ。
本当に友達だったのか。
どちらを望んでいたのか選べなかった。
彼の迷いを気にせず、彼女は友達であるのを認めた。
平然と喋る彼女に、彼の方が動揺して声を詰まらせそうになった。
辛うじて言葉を繋げて訊いた。
相手が自分を見てくれていないのに、付き合っていたのか、と。
付き合うための条件。
彼女に突き詰められてから、明確な返事をしていなかった。
実際に自分たちがどんな立場に置かれているのか、とてもあやふやになっていた。
この疑問を誰かに訊けば、晴れるのか?
お前ならどうする? と、打ったスマホを眺めた。内容は書けても、呆然としてしまう。
何度か瞬きをしていると、スマホの画面が暗く静まる。
スマホを枕のそばに放ると、彼は寝返りを打って肘を突いた。
数人の友人の顔がよぎる。
なかには恋人のいる奴もいて、その恋人に同じ条件を示されたとき、そいつはどんな反応を見せるのか。
考えながらも躊躇してしまう。
あのとき、彼女の寂しげな表情を見てしまっては。
なぜ、彼女は身を引いてしまったのかが、訊けなくなっていた。
「……冗談じゃなかったらどうする?」
「冗談じゃない…… それって」
「同じ人を好きになってしまう。そんな偶然って、漫画やドラマのなかだけだって、普通思いよね。まして、親友だったら、その子の性格とか、好みなんかも知っていて、絶対に自分とは違うなって、分かっていたはずなのに……」
「それって」
「不思議だよね、変なところだけは一緒になるなんて」
「…………」
「何、考えているのよ」
「…………」
「ちょっと待って。それって、じゃぁ、冗談じゃないってことは……」
「あなただったら、どうしする?」
「どうするって」
「友達が自分と同じ人を好きになったときに」
「じゃぁ、あの条件ってなんだよ、話がーー」
「友達のために身を引く?」
「そんなの……」
「ねぇ、どうする?」
聞けなかった。
友達ために、彼女は身を引いたのか、と。
彼に尋ねたときの表情は、不安をそのままぶつけられたみたいに痛かった。反面、どこか怒っているようにも見えた。
何か気に障ることを言ってしまったのか。
答えが見つからない。
原因を掴めなかった。
何度もベッドの上で寝返りを打つが、何も浮かばない。
ややあって真っ直ぐになり、天井を眺めた。
非難するような冷たい眼差しの彼女が、蛍光灯の明かりの陰に存在していた。
彼女の条件は本当にえことなのか、彼にも分かりません。だからこそ、問うのですが、彼女の気持ちは揺らぎません。だからこそ、彼は怖がっています。彼がこの先どうなるのか、見届けていただけると嬉しいです。