壱 (2)
マネキンと揶揄される彼女に告白した彼ですが、そのあとに悩むことになります。よろしくお願いします。
4
風が屋上に舞っていた。
彼女が見せた表情に、どんな感情を漂わせているのか掴めなかった。
風に黒髪が揺れる。
彼の告白に対する、抑揚のない静かな返事。
風の音さえ途切れてしまいそうなか細い声のはずなのに、彼の胸へと鋭く、深く刺さってきた。
彼女はうつむき、目を合わそうとしなかった。
それでも、彼女はどこかに感情を落としたように、呆然と立ち尽くしていた。
彼は辛うじて視線を動かせたが、彼女をじっと捉えることはできないでいた。
どれだけの間、黙っていたのか。
じっと地面を眺めていた顔を上げると、彼女に笑顔はなく、鋭い刃物のような、真剣な眼差しが彼の体を硬直させた。
彼女の唇が動くたびに、風が言葉を遮断する。
風が途切れる合間に触れる声。耳に届くと、彼は口を強く噛んでいた。
「好きな人がいるのよ」
「……それって」
「分かんないか。私には好きな人がいるんだ」
「だから、なんだよ」
「けど、好きな人には好きな人がいるの。でも諦められない」
「好きって、付き合ってる人がいるの?」
「そういうこと」
「…………」
「驚くよね。変なこと言って。でも、これが本音とでも言うのかな」
「条件って、もしかして……」
「期限付きでよかったら」
「……期限」
「その人は今、別の人と付き合ってる。だから、その人と別れるまでの間なら、付き合ってもいいよ」
「それが条件」
「ーーそう」
「それって……」
「……何?」
「あ、いや、なんでもない」
マネキンに見えてしまった。
自然とそうなったのか、それともわざと感情を押し殺したのか定かではない。もしかすれば、彼が激怒して、怒鳴り声を上がるのを望んだのか。
それとも、一方的に叱咤され、自分を惨めに見せたかったのか。
何を望んでいたのか分からない。
それでも彼女は臆することなく、彼の目をじっと見据えて発した条件。
ただーー。
ただ彼は反論できなかった。
書店の出来事から時間が経ち、彼女に想いは積もっていた。
想いを伝えた。
そして、返事としての条件。
何も言わず、唇を噛んでうつむくだけ。
彼女の説明に、一筋の疑念が生まれても、彼女の足元を眺めているしかなかった。
しばらく、彼らの間に沈黙が鎮座した。
返事を待つ彼女。
返事を拒む彼。
重苦しい場を嘲笑うように、野球部のバットが打った金属音が、彼らの間を切って割った。
ややあって、彼女は首を振ると、一歩足を踏み込んだ。そして、電信柱みたいに静まる彼を横切り、校舎に続く扉へと進んだ。
彼女の足音が無残にも彼の耳に木霊した。
足音は次第に遠退き、扉が開いて閉まる音を最後に、ピタリと止まった。
彼は一人屋上に取り残されてしまった。それでも、誰もいなくなった床を呆然と眺めているだけ。
しばらく、空の間を金属音とかけ声が交錯したのち、彼はようやく顔を上げ、夕焼けに染まる空を眺めた。
流れる雲。
空の薄い雲が風に流され、遠くに広がるオレンジ色に移っていく。
彼は唇を強く噛み締め目蓋を閉じると、世界と意識を遮断させた。
目蓋の奥の暗闇が語りかける。
その好きな人が恋人と別れる保証はあるのか?
もしかすらば、好きな人は一度もこちらを見てくれないかもしれない。
彼女の目を見た瞬間、胸に込み上げる疑念がより鮮明になって襲ってくる。
口に出してしまえば、何かが崩れてしまいそうな予感に口ごもってしまう。
いや、怯えていたのかもしれない。
しかし、今は容赦なく彼を責め立てていた。
彼女には訊けない。
気持ちに押し迫る言葉を振り払うと、目蓋を開いた。
射し込んだ夕焼けは、数秒前よりも眩しく見えてしまい、オレンジ色が微かに滲んでしまっていた。
「なんだったら、俺の友達を紹介してやろうか?」
「何、勝ち誇って言ってんだよ。余計なお世話だよ」
「だって、俺には彼女がいるもん。お前より勝ってると思うけど?」
「なんか、ムカつく言い方だな」
「そうか?」
「あぁ。マジでムカつく」
「ーーで、どうなんだよ。好きな奴っていないのかよ」
「……いないよ。今は」
事故から、数えたくないだけの時間が重なっていた。
重い足を引きずるように進めながら、恋人ができて喜ぶ親友との会話が、途切れ途切れに蘇ってくる。
彼が今直面している心の揺れを、相談することができただろうか?
何度も逡巡してしまう。好きな人の出す条件を受け入れ、付き合おうとしているのか。いつ別れるか分からない脆い期間のために。
本当は学校で友人に訊こうとしていた。
しかし、視界の片隅が捉える彼女が気がかりになってしまい、席が離れているとはいえ、臆して訊くことができなかった。
逃げるように向かってしまった場所。
親友が事故に遭い、命を落としてしまった場所に。
もう二年が経っていた。
それなのに、彼がこの場所に向かおうとしたのは、今回が初めてになる。
これまで事故現場に訪れる勇気がなかった。
恐れていた。
親友が命を落とした生々しさが、乱暴に自我を壊してしまいそうで。
それでも、今は胸に竦む疑念を誰かに相談したかった。何かがなければ、動こうとしなかった自分を罵りながらも。
国道に面していた歩道をゆっくりと歩いていた体が、信号が見えたところで止まる。
事故現場に辿り着いた。
彼は大きく息を吸い、肺に空気を送り込む。制服が膨らむのが目に見えて分かるほどに。
彼の周りを渦巻く不安を掻き消すように、充満した空気を一気に吐き出した。
現場は市の中心でオフィス街となっていた。片側三車線と、大きな国道の交差点。
バスは信号が赤になっているのにもか関わらず、交差点を右折してしまい、直進してきた乗用車と衝突してしまった。
勢いをつけたまま入ってきたバスは衝突したあと、ハンドルを誤り、しばらく蛇行したのちに横転。車道を塞ぐ壁みたいに倒れると、窓が割れて辺りに散乱してしまっていた。
実際に状況を目にしたわけではなかった。しかし、テレビでは残忍な映像が平然と流されていた。まるで、遊園地で行われるパレードを映すように。
淡々と話すレポーターの声が、どこかズレているように聞こえ、気持ち悪さを抱いていた。
そして新聞に載せられた大きな写真。現状を写した光景は、どこか別世界に見えたが、見覚えのある箇所もいくつもあり、胸を裂かれた。
惨状を隠すように、ブルーシートを張り巡らされた一角。現場検証を行う警察官。それを取り囲む、救急車と消防車のサイレン。
事故現場を嗅ぎつけた野次馬の群衆たち。
そんな光景を、絵空事として捉えていた彼は今日、初めてここに辿り着いた。
静かだった。
交差点は何事もなかったように時間が流れていた。国道は綺麗に整備され、バスが横転した形跡は微塵もない。
何事もなく車が行き来して、人が普通に歩いていた。
慰霊碑もなく、事故自体が忘れ去られている様子になっている。誰にも向けられることもできない憤りを、喉の奥で噛み殺した。
彼は横断歩道から、横に三歩ほど逸れたところに立ち、辺りを見渡した。
雑音が苦しかった。
悲鳴が聞こえたわけではない。
惨劇が見えたわけでもない。
好奇心で目を輝かせる野次馬がいるわけでもない。
信号が青になり、車道を進む車。赤で足を止め、増える歩行者。ふと、事故車両と同じ路線のバスが通りすぎた。
彼はつい息を呑んでしまう。
日常が溶け込む光景にどこか、罪悪感を否めなかった。
世間は事故を忘れている。
そのなかに自分も加わっているのだと痛感すると、逡巡してしまう。
亡き親友に問いかけようとしていた。
彼女の言った条件。
親友が彼と同じ立場になったのなら、どうしていたのかと。
彼はかぶりを振る。
どうしても問いかけることはなかった。どうしても気持ちがくすぶってしまう。どうすればいいのかと。
信号が黄色に変わり、車が止まり始める。
赤に変わり、辺りにエンジン音が集まり出した。重低音が足底に伝わりそうで、足に力を込めてしまう。
横断歩道の信号が青になる。踏み出す歩行者に紛れ、彼は唇を一舐めしてから、うつむきつつ進んだ。
当然、誰も話しかける者はおらず、整然と歩いていたとき、彼の足がふと止まり、歩道の真ん中辺りで不意に顔を上げた。
突然壁になってしまった彼に、すれ違う人が一瞬ためらい、彼を睨んで去る。
何かに導かれるように振り返ると、それまで自分が立っていた歩道の脇を眺めた。
だが、何もない。
誰かが彼を呼び止めたわけではない。
ざわめきが起きたわけでもない。
それでも彼はなぜか、後ろ髪を引かれてしまった。
何かに。
通りすぎる人の波に彼は違和感を抱きながら、じっと眺めてしまう。
時間だけは否応にも流れていった。
迷いを紛らわそうと、小説に意識を移そうとするのだが、文庫本を掴もうとした手を不意に留めた。
もうすでに読み終えていたために。
あらから新たに購入した本はない。
むしろ、今は読む気もなかった。
それでいて、読み終えた本をまだカバンのなかに入れて街歩いているのだから、なんともいえない思いに伏せてしまう。
気持ちの裏に彼女の存在があった。
あの日以来、彼女を意識しない日はない。
好意に疑問が重なって。
しかし、彼女は今、教室にいなかった。
それはまるで逃げているように思えた。
教室から。
クラスメイトから。
何かほかにお薦めの小説はない? と訊こうと、学校に行った日の朝の出来事。
いくつかの集団に分かれて談笑する生徒。
彼は数人に挨拶をして自分の席に座ると、一緒に登校してしまった睡魔を落ち着かせようと、大きくあくびをした。
友人も今はそばにおらず、睡魔は勢いを増してしまい、机に突っ伏して軽い仮眠を取ろうした。
目を閉じ、腕を枕代わりにしていると、教室のざわめきがより鮮明に聞こえてくる。
挨拶。
恋人の話に喜ぶ女子生徒。
次の休みにどこへ行こうと騒ぐ男子生徒。
ほかにもテレビやドラマの話で賑わっていた。
そのとき、ひときわどこか一線を越えた会話が耳をかすめた。
ほかの生徒と何も変わらず話す声。だが、それは時折、仮眠を妨げる言葉を拾ってしまう。
キモイ。
死ネ。
ウザイ。
学校二来ルナ。
生キテイル価値ガナイ。
明らかにイジメを彷彿させる会話。
男女入り混じった声が、周りに混じるように耳に届いてしまった。罵倒だからか、どこか棘があった。
イジメのターゲットとされている人物を彼は把握していた。いや、教室にいる生徒全員が、隣のクラスの男子生徒を指しているのを知っていた。
しかし、誰もが見て見ぬふりをしていた。自分が関わりを持たないように。
きっと、教師すら把握している。彼らもことが明るみに出たとき、弁解する原稿を頭に用意しているに違いない。
いや、だからこそ、普段から捉える光景に、目と耳を塞いでいた。それは、生徒よりもあからさまに。
彼もそうだった。
何を聞かれても、「知らない」と突き通そうと。
しかし、楽しいはずの会話のなかに、場違いに聞こえる騒ぎ声が大きなノイズとなって襲う。
数分後、睡魔はどこかに退散していた。それと同時に彼も席を立っていた。いたたまれず教室を出ていた。
関わりを持たないとはいえ、会話を聞くだけでも嫌になっていた。
まだHRまでは時間があり、隣のクラスの友人に話しに行こうと思った。しかし、落ち着いた気持ちを取り戻せず、教室を素通りした。
途方もなく廊下を歩いていると、足が不意に止まり、廊下の外を眺めた。
L字型の校舎から屋上が見えた。
あそこなら静かなのかもしれない。と、足を進めた。
「逃げてきた?」
「まぁね」
「ふ~ん。私も一緒」
「……卑怯って言われるかな」
「さぁ。私には何も言えないから」
「……どうしたの?」
「ううん。なんでもない」
「そっか」
「……私もよく屋上に来るんだ」
「そうなの?」
「うん。一人になりたいなって思ったときとか。いろいろ思うことがあったとき」
「いろいろって?」
「まぁ、いろいろとね」
「私、マネキンだから……」
どんな表情で返すべきか、彼は逡巡してしまい、結局は無表情でしかなかった。
教室でのイジメの会話を耳にして、逃げ出した屋上の扉を開いた先に、彼女が先客としていた。彼女も教室での会話に嫌気が差して逃げてきたのだと告げた。
正直、気持ちが揺れた。彼女の自虐的な態度に。
それでも、彼女の気の緩んだところを見られたのは嬉しかった。
彼女が屋上にいることが多いと知れたことが。
ここに来れば、彼女に会える。
期待が膨らんだ。
まだ彼は返事に迷っています。彼女が態度を変えるのには、彼女なりの考えがあるんですね。それを今後、描いていきます。