第一部
Annemarie and Schreiber's Metamorphosing Virus.
感染者の粘膜あるいは感染者が噴霧する飛沫によって感染する世界最大の細菌兵器は、密集地における新型インフルエンザの集団感染なんて比にならない速度で広まり、一月経つころには文明が崩壊する寸前にまで推移した。
――人はなぜそこにあるのか、いつ生まれたのか……我々科学者の求めるはその大いなる過去の究明と、そしてその最果てにある人類の未来だ。違うかね、アンネマリー博士――
ムーンセルシャードは最後の人類の楽園となった。ここに在れば人類は恒久的に繁栄できるとして、残り数万となった人類は誰かに管理されることを条件にその人口を劇的に回復していた。
元々数万人規模のノアの箱舟は、十年で元の人口を大きく超える百億三千五百三十三万九千九百七十三人にまで増えた。もはや彼らにとって、地上とは、地球とは――そして外敵がいなくなったがゆえに進化も、未来も閉塞したのだ。
――その通りですわ、シュライバー博士……しかして彼は血を流すことができるのでしょうか、人として――
前の失敗は今にこそ生かされるべきだ――全ては閉塞した人類の進化のために。
そう、彼らも同じ領域にたどり着けばわかる。何故宇宙が不安定な中に安定性を保ち生物を育むのか、何故太陽系が存在するのか、何故地球が安全圏に生まれたのか、何故恐竜は絶滅し何故人類が文明を、社会を発展させることを許されたのか……何故無益と知りながら戦い続け、それ以外に方法を知らないのか――。
――進化を弄んだ報いは受けねばなるまい。それが誰の責任であろうとも――
故に、進化を弄び閉塞させた報いは受けねばならない。それが誰かの責任の上に起こった事象であろうと、誰かが、皆が望んだ結果であろうと……。
全てを飲み込め、全てを喰らえ、全てを虚無の地平に還せ――その先にこそ、本当の地獄が待っている。
――そこに彼という個は必要ないと……? 確かにその方が、彼にとっては幸せなのかもしれませんわね――
Annemarie and Schreiber's Metamorphosing System2 六号混合液……前回のASMV試作三号混合液をより高い精度で構成し直したこれこそが人類に地獄という名の明日を与えるのだ。
さぁ喰らえ、全てを喰らい虚空に還すのだ――その先へ、この先へ、大いなる宇宙へ導くのだ、偽られし666の獣よ……。
――そう、其の先が地獄であろうと、其れを知らぬものにとっては。だから私たちは彼に最高で残酷な地獄を用意した――
今彼が流星となって墜ちた。獣にあふれた混沌の大地を統べ、全ての生態系の王となりに。
彼らは、いや、彼もしくは彼女はその笑みを深くしてそれを見送った。お前のための地獄を、人類のための未来を、さぁ運んできておくれよ。
――楽しみですわね、シュライバー博士――
神に叛逆し神をも喰らう悪魔となれ。
――そうだね、アンネマリー博士……全ては我らが神のために――
神に弑逆し神をも殺す魔神となれ。
――全ての生きとし生けるものは神のために――
黙示録の通りに、ダビデとシビラの予言が如くに、大地を混沌の渦からさらなる混沌へと落としこめ。
それこそがお前の生まれた意味なのだ。そうでなくては、これが生まれた意味がないのだ。それでなくては、宇宙で戦い抜くことなど土台不可能な話なのだ。そのために進化があるのだから。
――その果てにこそ、真の進化が待っている――
さぁ、新世界の夜明けを目指して、今こそ怒りの日を始めようではないか――――
偽獣黙示録 ~The Artificial Therion~ 地球済世篇
第一部『猛き不滅の夕焼け』
ライオンと鷹と蛇と山羊の融合したような化け物と、他の大多数の生きる死体たちに、彼らは今断崖の果てに追い詰められた。もはや逃げ道はない。
一人の男、名をシメオンが真瀬の背に声をかけた。もしかしたら叫んでいたのかもしれないが。
「……い…………ーセ! も……道が………………奴らが……た!」
「もうすぐだ! もうすぐここに奴が、奴が現れるはずだ!」
真瀬は娘の麗美を抱き寄せて叫んだ。奇跡は起こる。もうすぐ、我々の目の前にそれがやってくるのだと。
しかし彼らの持つ武器ではこの状況をどうにもできない。モーセと呼ばれた彼がいう奴、とやらが来るのがいつになるのかもわからない。その間に彼らが滅んでしまえばもはや人類が生き残れはすまい。
刻一刻と時間だけが流れていく。じりじりと詰め寄ってくる生きた死体どもに知性があるとは思えないが、それは彼らにとってもこの断崖を歩くのは危険だからで、その行軍も非常に慎重なものになっていたのは当然のことだったのだろう。
しかしそれもまた時間の問題だ。彼らが飢えに任せて突撃してくれば、もはや十三人となった彼らに亡者の大突進を防ぐ術はない。彼、真瀬にはもうこれしか手はなかった。
多くの人々を背に、男、真瀬は諦めたように手を振り上げた。彼が生まれた時から持つその異能が発動されれば、僅かに勝機もあるやもしれない。海を割り、海に飲み込み、奴らを耐性云々の領域ではない深海の水圧に飲み込めばもしくは――
「よもや仕方あるまい――全員私に続け! これも生き延びるためだ……ラオデキヤ、ヒラデルヒヤ、後は託したぞ……」
命を吸って血路を開け。その祈りを肥大化させるごとに体から砂のような物がこぼれおちる。命を吸い、魂を吸い、糧と為し――そうして顕現するは海を割ると云う原初の偉業。ユダヤ人を引き連れ海を渡った奇跡。旧き約定である。
力が高まっていくのを感じ取ったのか、奴らの歩みが止まったのをいいことに、彼は今力を解放せんと全身に力を入れた瞬間、奴は堕ちてきた。
衝撃波と轟音はあたりの海水を巻き上げ、爆轟波によって土が巻き上げられるとその勢いはそのまま彼らの立つ崖を粉々に粉砕し、次の瞬間には大地に打ちつけられていた。
百メートルはないかもしれないが軽く十五メートルくらいはある断崖からの自由落下によって打ちつけられた体は、しかし引潮によって戻ってきた海水によって多少はその勢いは弱められた状態で落水していた。運が良かった。
見れば周り中の仲間もまた同様に腰ほどの嵩になった海水によって死ぬまでの重傷は負っていない。腕が曲がっていたりする者はいるが、生き残っていた。奇跡としか言いようがない。
しかしそれは同時に、奴らもまた健在である可能性があると云うことだ。気を抜く時ではないと、安堵も束の間にあたりに目をやると、それは姿を現した。
見事なまでに奴らが密集した状態でクレーター内部に引き込まれていた。引き込まれた個体は無事なようだが、引き込まれなかったりそのまま垂直落下した奴らはその活動を止めていた。
無事な個体、つまり爆轟波の揺り戻しでクレーターに引きずり込まれた屍どもは、先ほどまで目の前にいた健常者はどこかと周りを確認し始めて、不運なことに、其れを見てしまった。
クレーターの中に爆轟波で飛ばされた屍どもの見据える先には、見た目普通の人間と大差のない異形が存在していた。そう、見た目はそう普通の人間と大差はないのだ。しかし彼は、獣だった。
しばらくしたのちに彼は立ち上がり、小さくうなり声を上げ始めた。それは飼い主に捨てられた犬が他の動物を威嚇するような低音。
「――――う、うぅぅぅ」
だが分かる者には分かっていた。それが威嚇などと云うものではなく、今攻撃しようと云う合図のようなものであったと云うことに。
「……ウォォォォォォォォオオオオオ!」
それは咆哮だった。絶叫や絶頂でもなく、慟哭でも哄笑でもなく、衝動と生存本能に裏打ちされた、人として在りえない、獣の姿だった――彼の両の瞳からは大粒の涙がこぼれていた。
雄叫びを上げた後の彼の行動は早かった。手近なところにいた屍を掴み、首を噛みちぎり、そのまま頭をかみ砕きながら咀嚼し嚥下した。
脳みその破片が、歯のかけらが、頭蓋骨の一部があたり一面に散らばり、それでもなお彼はそれを食べることをやめなかった。頭の次は体にまでおよび、爪の破片や腸、それらがあたりに乱雑に散らばるのに5分と必要としなかった。
屍たちもようやっとこれを、この異常を理解したのかそれぞれがそれぞれ、彼に向って突っ込んでいった。
恐れたのだ、屍たちも。真瀬たちがその衝撃の姿に恐れ戦くのと同様、彼らもまた死んだことで鋭敏になったその勘が、いや本能が告げていたのだ。
こいつを殺さなければいつか殺されて――違う、吸収されてしまうのだと分かっていた。そのための先制防衛。
しかしそれも無駄となった。
虐殺。兎にも角にも、その行為を一息で表現するなら虐殺という言葉が一番適切だ。
まず、一番最初に走り寄ってきた屍の顔面を右手の爪ではぎ取り、その勢いのまま後ろから迫ってきた屍の胸に右手を一突きして腐り果てた心臓を取り出し、握りつぶす。
さらに横から迫ってきた屍の頭を掴み、それを反対方向から迫る屍に押しつけると振り向きざまに背後から近寄ってきた屍の腰を蹴り穿つ。
一騎当千、と云って良いものなのか、唯暴れるだけで周り中の少なくとも人型の屍を喰らいつくす。もしかしたらこいつこそ、鬼や悪魔の類なのかもしれない。真瀬たちはその姿を前に戦慄していた。
しかしライオンと鷹と蛇と山羊の融合したような化け物の飛びかかりは、喰らうことに注力していた彼に防ぐ術はなかった。
右腕が尻尾から延びる蛇にかまれた。
首にライオンの胴体から延びる山羊が喰らいつく。
胴体をライオンの強靭なあごが押しつぶさんと力を込める。
メキメキと悲鳴を上げる体をよそに彼は慟哭のような雄たけびを上げるが、そこに殺到する屍の群れを見て真瀬たちは『もう終わった』と思った。
殺到した屍たちによって肉団子となった彼の末路はただ一つ。その肉も骨も全てを齧りつくされ、骨の髄までをしゃぶられ投げ捨てられる。彼らの捕食はもはや仲間を増やすためには用いられることはなくなったのだ。そこにあるのは亡者たちによる大蹂躙劇。筋繊維を削ぎ落すように、霊の一片までを辱めるように、獣となった亡者が襲いかかるのだ。
「サルデス、テアティラ、ラオデキヤとヒラデルヒヤを手伝うのだ。他の者たちを連れここから引くぞ」
サルデス、テアティラと呼ばれた男が頷こうとした瞬間に、再び雄たけびが辺りを劈いた。その勢いたるや、群がるだけで彼を食うには足りていなかった周りの十数体の屍を弾き飛ばすほどで――彼は渾身の力で己に噛みつき喰らいつく全てを振り払い、手始めにキメラのような屍に食らいついた。
まず右腕の蛇を噛み千切って拘束を解くと、次に首に食らいつく山羊の首を捩じり切ればいつの間にか腕から生えるようにして山羊の頭が溶け込んでいて、その山羊の頭が勢いよくライオンの首に噛みつく。
骨が、肉が砕ける音が周囲に響いている。ライオンの体が、尻尾と融合した蛇が、胴体に残された山羊の体が、山羊の体から生えていた鷹の翼が、そのすべてが彼の体から生える山羊の頭に、彼の口に、または彼が総身で吸収していく。
血も、肉片も、骨も、そのすべてを吸収して、彼の力が、気配がより濃密になっていくのを、屍も真瀬たちも感じ取っていた。これこそ、真に獣だ。
やがて二分が過ぎ去るころにはライオンも蛇も山羊も跡形なく消え、彼が強者だと悟った屍たちは近づく彼からじりじりと後退するしかできなかった。
屍たちの本能が拒んでいた。数でもどうしようもできない。個体能力でも凌駕できない。こうなれば逃げるほかない。弱い動物が強い動物を前にして逃げるのと同じ理屈だ。
しかし――――
「うぅぅぅぅぅぅ………………」
彼が逃がすはずがない――目の前に注文したフルコースを用意されて帰る客がいないのと同様に、彼もまた逃がす気はなかった。
――全てを喰らいつくしたい――
この畜生へとなり下がった己を生かすために、その飢えを凌ぐために……方法は一つしかない。
喰らうのだ。
「うぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
両腕の先から山羊と蛇が、腹のど真ん中からライオンが飛び出し、背中から鷹の翼をはやした彼らは一目散に周囲にいる十数体の屍たちを喰らうために肉薄した。
柔らかくぬらぬらした蛇の体が屍を二体まとめてその胃袋に収め、強力な消化能力でその体の中に熔かしこむ。続く二体、三体の体に巻きついて表皮から彼らを溶かして吸収する。
ライオンの牙が、爪が三体の屍を引き裂くのと同時に牙と爪に屍が溶け込んでいった。雄叫びが響けば、辺りを取り囲む連中がドロドロに溶け、其れを山羊が啜っていた。
彼は高高度から落下してその足で屍をズタズタに切り裂けば、屍には目もくれずに次の屍をその両腕で壊し、弄び、そして最後に落ちた肉片の全てを喰らった。
それでもまだまだ足りない。まだまだ食料はあたりにあふれている。当たりを飲み込まんばかりに蠢く屍たちをその瞳に映すと、そのまま彼らは食事を続けた。飢えに、本能に身を任せて。
何十体もの屍たちが彼らに吸収された。食われ、飲み込まれ、骨まで残さずに。辺りにいた全ての屍を喰らいつくしてようやく、彼らの動きは止まった。辺りはすでに曼珠沙華のように赤く染まり、肉片と骨が散乱する地獄となっていた。
ライオンが、鷹が、山羊が、蛇が彼の体の中に戻ると、全身を血に濡らした彼は静かに大地に倒れた。満身創痍だった。
真瀬は困っていた。彼を、どうすればいいのかに。
彼があの亡者どもを喰らって平気だと云うことは、十中八九ASMV試作三号混合液の罹患者と云うことになる。つまりあの亡者どもの親類だ。そんな彼を連れ帰ってしまっても良いものか、しかし己らの身を守るには、彼らの持つ武器はすでに亡者には効かない。彼がいればもしかすれば抑止力にもなりうるかもしれない。
皮算用と損得勘定とが真瀬の頭の中に渦巻いて、しかし彼にはどうすることもできなかった。下手に生き残った自分を含め十三人と、ここにはいないもう一人を危険に合わせるわけにはいかないと分かり切っていたからで――彼の真横を通り過ぎ、麗美が彼のところへ走り寄っていった。
確かに彼は天啓の通りだった。全てを飲み込み、全てを溶かし切る。そんな不条理の塊だ。しかし実際蓋が開いてみれば彼も奴らの同類ではないのか。
地上に残された人類はもはや十四人のみ。彼らを率いる者として、危険をそばに置いておくわけにもいかないのはしようのない話だった。
そして彼は漠然と理解しているからこそ、どんなものにも縋りたいと云う二律背反した感情を持っていた。自分の命はもう短いのを知っていた、というよりも悟らざるを得なかったと云った方が正しい。
あれほど大規模の奇跡を引き起こそうとしたのだ。発動途中で止めて無事でいられるはずもない。
彼の体はゆっくりと崩壊を始めている。持ったとして、二日か三日が限度だろう。彼ではすでに導けないが故、生き残りを守れる存在が必要だった。彼を助け起こす麗美を見て、真瀬は二択を突き付けられていた。
彼が本当に理性のない獣であれば生き残りは途絶えることとなり、彼が話の通じる最低限度の理性が残っていれば救世の獣にもなりうるかもしれない。
とてつもなく大きな意味を孕む二択であり、選択を間違えれば其れは一直線に滅びへとつながる。
どの道、彼にどうすることのできる問題でもなく、これから数時間後、彼らは自分たちの集落へ帰還を果たすだった。
□
そこは管理世界だった。全人類は完全なる指導者による完全なる統御の元、個性や趣味嗜好などの一切を剥奪され、ただ生き、ただ次代を生産し、只管に幸福に生きることを強制された世界だった。
ここに住む人間たちは幸せだろう。
住む場所に困らず、安定的に平等に権利が制定され、食うにも困らず、繁殖したいように繁殖できる、人間誰しもが思い描く天国であり、それは充足と安寧という名の牢獄に他ならない。
何かに疑問を持ってはならない。何かに反感を持ってはいけない。何かに殺意を覚えられない。それは彼らが自覚しない地獄で、其れに疑問を持った時点で、彼はすでに社会から爪弾きにされているのも同然だった。
そして彼は変えられた。全てを喰らいつくす、黙示の獣を再現した存在へと。彼と同様に知ってしまった連中を触媒に合成された人工の獣。
彼らの、怪物どもの生み出した試作品が彼の血潮となり、彼らの怨嗟が彼の炉心となり、冷却水として、高速増殖炉として彼を闘争に駆り立てる。増幅された怒りは尽きるところを知らず、さながら風船のようにどこまでもどこまでも膨らみ張りつめていく。
意味が分からない。進化だと? 食人至上主義の一体何が進化だと云うのか。
虚無の最果てだと? 虚無の果ては虚無に他ならない――――何故あんな奴らが、あんな奴らに――――
彼はただ憤りを復讐心へと変えて、屍を喰らう最中、全てを喰らい尽くす覚悟を決めた。
それが彼を新たな進化へ導くとも知らずに――――
□
彼が目覚めたとき、彼は何処かのあばら屋の一室に寝かされていた。周りには見知らぬ男女が数名、見るのも忌々しい学者風の身なりの男が一人。
月では時代遅れとなった服装身なりだが、懐かしいような感慨を覚えると、彼の懐に何やら温かい何かがあった。彼の与り知らないことではあるが、それは彼をここまで引きずって歩いた麗美だった。ハッと何かを察した風な彼は彼でさえ与り知らぬうちに彼女の頭を優しく撫でていた。
彼がこのような体になってしまってから離れてしまっていた人肌の温さは己の異形性を自覚させるには十分だったが、同時にこの一瞬だけは人間でいていいような気さえしてきていた。故に彼はその数瞬穏やかな気持ちで、おそらく100kgを超す体重の自分を引きずって歩いたのだろう女性を撫でていた。その労を労う為に、汗と土でドロドロになっているのも構わずに。
しかしそんな風景も長くは続かなかった。再び睡魔が彼の全身を襲ってくる。足先から心地よい痺れが這いずって上体までやってくれば、数瞬もしないうちに彼は再び眠りに落ちていた。
目覚めて早々の急激なカロリー消費は彼を深い眠りに落とさなければならなかった。そうでもしなければ彼の生命活動を維持することはできなかったのだ。彼の内部にあふれるその総体幾つかも知れぬ彼らを生かしながら彼の生命活動の維持を、見かけだけは普通の人間大の身長で行うのは中々に無茶があった。
彼の中に吸収された全ての質量は彼の存在としての密度以外にも反映されていた。質量はそのままに、彼の体内密度は通常の人間の二倍を優に超えている。その重量たるやライオンと熊の重量を足しただけではおさまらない。
そんな彼があれだけの力を行使し殺戮の限りを尽くすには、目覚めて早々のあの惨劇は早すぎた。
誰しもが目覚めた瞬間から10km走れないように、あれだけの暴虐を行うには彼の体が付いていかなかったのだ。
故に、彼には摂取した彼らを溶かし養分とする時間が必要だった。故に眠った。彼は彼の知らぬうちに彼をより強い存在へと変成させるために。
学者風の身なりの男、ジュダ博士は高笑いしながら真瀬たちにそう答えた。これが人類に最後の日を、怒りの日を与える審判者の姿だと付け加えて。
「そうか、そうかそうかそうかそうか! シュライバーにアンネマリーよ、お前たちは彼の者の意思に託すと決めたのか。それもまた善哉――しかしワシはお前たちの齎す終焉に否と唱えよう」
大声で叫びながら気が狂ったように嗤い上げるその姿はまさに異端。月を追いだされた理由が分かると思いながら、同時に真瀬たちは彼がここまで"逃げてきた"ということがありありと分かっていた。
彼は恐怖している。嗤いながら、狂いながらもそれでもこの怪物には勝てないと心の底から悟っている。そして彼はこれにだけ恐怖しているわけではない。
人類を未だに窮地に陥れる生きる屍たちを作り上げた諸悪の根源、シュライバー博士とアンネマリー博士に只ならぬ恐怖を覚えている。
同類にどうしてそこまでの恐怖を抱いているのかは彼らにも分からないことだったが、 一つ分かることは、この集落の医療のほとんどに貢献するこの博士がこれほど恐怖するのならば、きっと彼の二者は獣と呼ばれた彼以上の化け物だということだ。
「さぁ、拠点を動かす準備をしようか。奴らもじきに体勢を立て直し、一気に攻め込んでくるだろうからな」
ジュダ博士は一方的に真瀬に告げると自分のあばら屋に向けて歩き出した。
この男が率先して動くだなど珍しい、そう思っていた一同だが、其れは即ち即座に移動しなければならない理由があるということだと理解して、そしてそれが彼に関係があるのだとも理解した。
何故移動が必要なのか、それだけが分からなかったが、しかしジュダ博士は誰かが声を上げる前にその疑問に答えを出していた。
「奴らは、恐怖している。この地球上の全ての生きる死者たちが、生きながらに死に、死にながらに生きる彼を恐怖している。やがて、全ての死者がやってくるだろうよ。彼を捕食し、より高みへと至る為に」
「――何故そうと分かる」
「……手短に説明するなら、月は養殖場だ。シュライバー博士とアンネマリー博士が神と呼ぶ存在へと至る経路を開く為のだ。これで月で何が起こっているのか分かるだろう。そう、彼らこそが彼らの自称する正しい進化の途上にある新生命体。彼はさしずめ、この地球の獣どもを平定しその魂を捧げさせるための入れ物だろうよ」
にやりと笑う彼の口元は注視しなければ分からないほど小刻みに震えていた。あの管理世界はマルクス主義における資本主義の行きつく共産主義と云ったそんな姿ではなく、まさしくシュライバー博士とアンネマリー博士の為の実験牧場。
ジュダ博士、彼の見てきた地獄において、所謂“正気”であった者は全て彼の胃袋に収められてしまった。逃げ出すほかない地獄がそこに広がっていたのだ。
逃げ出し、見殺しにしたからこそジュダ博士は一人懊悩し、故に彼らに否と告げる覚悟とそれを為し得るだろう存在を手に入れられた。
それこそが彼。偽りの666の獣と呼ばれた、神に最も近く、真なる人――アダム・カドモン――に最も遠い異端が生み出した直系の獣。
ジュダ博士の脳裏に彼らの声がよぎる。
進化とは他者を排斥することであり、排斥された他者を糧にのし上がっていく力こそが宇宙の戦争だと。
ならばお前たちの計画を台無しにしてやろう。其れがワシがやるべき大儀だ。
ジュダ博士は凄惨な笑みを浮かべ、そこから導き出される彼のやってきた理由を語る。
「こ奴はな、この地球上のすべての死者を喰らいつくすためにやってきた。いつだったかシュライバーの若造は言っていたよ、こんなはずではなかったとな。進化のプロセスが適切に踏まれなかったがゆえに中途半端な俗物どもが生まれたとも。こ奴はそのゴミ掃除を強要され、この地に落とされた」
ならばそれを踏み躙ってやろう。二度も己らの計画が潰えるというその屈辱を胸に我が無念を、人類の業の深さと云うものを教えてやろう。
人類とはな、一人の人間、一人の超人程度で易々と簡単に御しきれるようなそんな単純な生物ではないのだよ。困難に当たればたった一言で覚醒する者もいれば全てにおいて無気力な者、様々な人間がいる。
「そして死者たちにとってこれが最後のチャンスだ。こ奴を喰らい今以上の進化をしなければあの化け物どもに食らいつくされると識っている。こ奴の持つ進化したASMVがあればそれもまた可能だろう。そして今度はその者が他の屍を喰らう――結果として、彼である必要はない」
お前たちは彼らの意見を1ミクロンでも取り入れたか? お前たちの云う進化の先に、そんな大勢一般の考える光とは存在するのか? いいや、存在などせんだろう。
神なんぞ知らぬ。お前たちがどんな神を信仰していようと興味の欠片もない。しかし科学者とは人類の行く先を照らす者だ。お前たちの目指す屍と死者の楽園など、誰も求めてなどいないのだ。
「彼が進化のプロセスを正しく踏めばそれでよし、食われたとしても他の屍が其れを代行する。彼が死んだとしても彼の噴霧する飛沫が他の屍を進化させる。よく出来たシステムだが、彼の個我を蔑にした計画が成功することなどありはせんワシがさせん」
故にワシがその計画を決定的に破綻させてやろう。
故にワシが彼を改造しよう。
故にワシが彼を真なる人へと覚醒させよう。
お前たちの望む埋葬曲をワシらが奏でる怒りの日で掻き消してやろう。
「これは、戦争だ。月と、ワシら人類最後の生き残りの生存をかけた聖戦なのだ」
怒りの日が、始まった
偽獣黙示録 ~The Artificial Therion~ 地球済世篇
第一部『猛き不滅の夕焼け』
~完~
猛き不滅の夕焼けと書いてアーベント・ロートと読みます。登山用語で登山中または麓から山とともに眺める夕焼けのことを云います。雪が太陽光を反射し赤く燃えるように見えることからアーベント・ロート(夜または夕方の赤)と云います。
まだまだ続きますよ。