スーパータスクとしての時間
時間とは何か。
この疑問に対して、現代物理学と現代数学は答えることができない。しかし前章において、波動関数の収縮は選択公理と等価であり、スーパータスクであるとした。量子力学の言葉では、波動関数の収縮を一種の時間と解釈できる。つまり観測した瞬間に波動関数の収縮が起こることで、観測対象である素粒子の位置、運動量、観測時間などの物理量が確定する。(正確には時間は物理量ではない。これについては後述する)そしてこの時間もまたスーパータスクである。なぜなら無限に続く時間という流れから、現在という一点を切り取る作業だからだ。つまり無限列から一点を切り取るには、一点以外の無限列を捨てるという無限回作業が必要だからである。
この章では、スーパータスクとしての時間を論じる。目標は、現在という時間を数学的に記述できるか、という疑問に答えることである。一方で時間の問題は意識の問題と密接に関連している。脳科学や認知科学の知見によれば、意識には識閾値が存在し、意識の連続性には疑問があるという。しかしこの文章では意識の問題には踏み込まない。波動関数の収縮という文脈での、時間の数学的表現に絞って議論する。
最初に、波動関数の収縮は選択公理と等価であると仮定する。前章では、この命題に対して証明を与えていなかった。この文章は学術論文ではないし、筆者は数学者ではない。しかし根拠として証明は必要であろう。圏論を使えば証明は可能である。概略を示すと、(小さな圏において)選択公理の存在は、右随伴関手の存在と等価である。選択公理がなければ、右随伴が存在しない。右随伴がなければ指数対象が存在せず、デカルト閉圏を構成できない。よって波動関数の収縮は選択公理と等価である。別の方法としては、右随伴がなければ極限が保存できない。従って核が存在しないのでイコライザーが解けない。つまりスペクトル分解ができない。よって波動関数の収縮ができない。このような流れである。(Samson Abramsky、Bob Coeckeらによるダガーコンパクト閉圏を用いたアプローチを想定している)
圏論を使うのは、この種の一般的、抽象的問題に対して威力を発揮するからである。抽象度が高いため、圏論を理解するのは困難を極める。筆者も何度も挑戦してようやく理解できるようになった。圏論を理解する道は二つある。抽象代数学とプログラミングである。抽象代数学は王道であるが、この道は険しい。数学科の学生でないと難しいだろう。もう一つの道はHaskellなどのプログラミング言語を経由する道だ。こちらの方が難易度は低い。ネットにも大量の情報があるのでこちらをすすめる。注意するすべきは、圏論の用語とHaskellの用語が、同じ意味とは限らない場合がある点だ。微妙に意味が異なることがある。
では議論をすすめる。波動関数の収縮を現在時刻の確定と解釈するならば、ZF公理系から独立であり、現在時刻を数学的に記述する道は断たれることになる。時間はユニタリ演算子であり、エルミートではない。よって物理量ではない。そしてシュレーディンガー方程式の時間発展が表現するのは、確率的な計算結果であって時間の確定ではない。観測後に測定値が得らることで時間は確定する。もう一度強調しておくと、ここでいう時間は時間発展演算子を指すのではない。
量子計算や物理学など工学系では無限次元ヒルベルト空間ではなく、有限次元ヒルベルト空間を使う場合がある。有限次元に限定するのは、完備性が保証されるからと、近似計算のためである。完備性と可分性は微分方程式の解の存在と密接に関係している。無限次元ヒルベルト空間では完備性は一般には保証されない。
有限次元なら完備性が保証され、物理量はZF公理系で記述可能になる。量子計算でスピンのみ考慮するなら選択公理は不要かもしれない。ただし時間を考えるなら選択公理は必要だが、量子力学では射影公準を採用するなら、公理なのでこの議論は不要ということになる。しかし有限次元に限定した時点で、すでにハミルトニアンを正確に表現することはできない。なぜなら本来のヒルベルト空間は無限次元だからである。
ところで、波動関数には不可弁別性という性質がある。電子などの素粒子、原子や分子などの複合粒子は、基本的に一つ一つを区別することはできない。読者の体を構成する原子と、筆者の体を構成する原子は区別できないのだ。区別できないのに時間が存在するなどということがあるだろうか?シュレーディンガーの猫は、生きている猫と死んでいる猫が同じ猫だからパラドックスなのであって、違う猫ならパラドックスではない。同種粒子を区別できなければ、時間という概念の存在自体があやしくなる。これは有名はテセウスの船を想起させる。原子が区別できないのに、なぜわれわれ人間はお互いを区別できるのだろうか?これは馬鹿げた疑問なのかもしれない。しかし時間について考えるとき、個体を区別できるのかという疑問は本質的な問いに思える。なぜ、われわれは、お互いを区別できるのだろうか。
細菌であれば、顕微鏡で見ることで個体を区別することができる。彼らに意識はあるのだろうか。時間を意識することはあるのだろうか。ではウイルスではどうだろう。ウイルス粒子の原子数は数百万から数千万個といわれる。彼らの個体を区別することはできるのだろうか。それではアミノ酸は?時間は絶対的なものではなく、グラデーションのような階層構造を持つのかもしれない。
この議論はあくまで数学的な時間についての議論である。波動関数の収縮としての時間は、観測していなければ存在しないことになる。ただしこの数学的な時間が、われわれの脳内の時間と同じかどうかは不明である。将来的には脳内時間と数学的時間の関係が明らかになるかもしれない。たとえば、本来数学的時間は離散的なものなのかもしれない。そして映画やテレビの映像のように、脳は離散的時間を残像のような手法で処理して、連続時間を合成しているだけなのかもしれない。
再度結論を書いておこう。波動関数の収縮を現在時刻の確定と解釈するならば、ZF公理系から独立であり、時間を数学的に記述することはできない。
もちろん、時間の定義や解釈は量子力学のみに限定されるものではないし、またされるべきでもない。この文章は、他の解釈における数学的記述の可能性を排除するものではない。