ブラックホールの悪魔
前章では、計算機科学の決定不能性と量子力学の非局所性には対応関係があるとした。本章ではさらに考察を進めて、何らかの実用的結論を示してみたい。
まず量子コンピューターと古典コンピューター(いわゆる普通のコンピューターのこと)の比較から始めよう。量子コンピューターと古典コンピューターの性能差については、はっきりした結論は出ていない。暗号解読などのいくつかの分野では、古典コンピューターより高速なアルゴリズムが知られている。しかし計算能力を全体的に比較しての結論ははっきりしないままだ。古典コンピューターよりも量子コンピューターが優れているであろうという結論は量子超越性とか量子スプレマシーなどと呼ばれている。
現在量子スプレマシーの実証は、限定的な証明にとどまっているが、仮に量子スプレマシーの実証が完了したとすれば、量子コンピューターの計算不能性にもはっきりした結論が出るだろう。そして量子力学の非局所性との関係もはっきりするはずである。
量子力学の非局所性とはエンタングルメントであるから、停止問題はエンタングルメント・エントロピーとも関係があるはずである。エンタングルメント・エントロピーとはエンタングルメントの強さを表す指標である。エンタングルメント・エントロピーのよく知られた関係式は笠・高柳の公式と呼ばれる式である。これはホログラフィック原理の一つである、AdS/CFT対応におけるエンタングルメント・エントロピーを表す式で、素人にもわかりやすい形式をしているので解説してみたい。笠・高柳の公式を以下に示す。
S=(AdS空間上の局面の表面積)/{4*G}
ここでSはエンタングルメント・エントロピー、Gはニュートン定数である。エンタングルメント・エントロピーはエンタングルメントの強さを表すから、エンタングルメントの強さはAdS空間上の局面の表面積に比例するという式である。ホログラフィック原理というように、ブラックホールのエントロピーと比較するとさらに理解しやすくなる。ブラックホールのエントロピーは、
BHE={k*(事象の地平面の表面積)}/{4*(プランク長の二乗)}
ここでBHEはブラックホールのエントロピー、kはボルツマン定数である。
二つの式はよく似ている。宇宙はブラックホールに投影されたホログラムと見なせる、というのがホログラフィック原理だから当然である。この宇宙のエントロピー、つまり情報量はブラックホールの表面積に比例する、というのはシミュレーション仮説を想起させるが、それはともかく、この笠・高柳の公式は停止問題と関係があるはずである。ホログラフィック原理は超弦理論から導かれているが、量子力学を前提とする以上、拡張したカリー=ハワード同型対応は成立すると推測される。今後定式化されれば、この宇宙が量子コンピューターである強い根拠となる。
エントロピーという側面から考えると、カリー=ハワード同型対応は以下のように解釈可能である。
ブラックホールのエントロピー=量子チューリング機械のメモリー
これはホログラフィック原理が成立するとすれば、
ブラックホールのエントロピー=全宇宙の情報
と解釈することができるので、宇宙という量子コンピューターは、マルチバースのどこかの宇宙の(あるいはブレーンワールドのどこかの宇宙の)、ブラックホールに投影されたホログラムだと表現できる。
ブラックホールならばブラックホール情報パラドックスを考慮しなければならない。ブラックホール情報パラドックスとは、簡単にいえばブラックホールでは事象の地平面を越えれば、光子でも脱出不可能であるから、全ての情報は失われる。しかし量子力学では情報の保存を意味するユニタリ性が成り立つ以上、情報が失われることはあり得ないというパラドックスである。現在のところ、ブラックホール内でも情報は保存するという見方が多いようだが、結論は出ていない。
事象の地平面を利用した思考実験を考えてみた。
ここでブラックホール内に悪魔がいると考える。この悪魔は何らかの方法で事象の地平面を操作できると仮定する。ホーキングも晩年、事象の地平面に量子的揺らぎが存在すると主張したが、この悪魔はこの量子的揺らぎを操作して、事象の地平面を移動することができる。事象の地平面近くに粒子が接近したときに、悪魔は事象の地平面を移動させて、粒子が特異点に落ち込むタイミングを遅らせたり、あるいは早めることができる。
このような悪魔を仮定することでホーキング放射を制御することができる。ホーキング放射の原因がトンネル効果か量子もつれ(エンタングルメント)かはここでは議論しない。この悪魔はマクスウェルの悪魔に似ている。マクスウェルの悪魔のブラックホール版である。悪魔によって熱力学第二法則は破られ、エントロピーは操作できる。悪魔をうまく使えば、エルゴ球近辺に永久機関を製造することができる。
マクスウェルの悪魔との相違点は、事象の地平面を越えれば、粒子(つまり量子)の情報は失われるという点である。少なくともホーキング放射で情報が返ってくるまでは(それがいつかは不明であるが)、量子力学のユニタリ性は破れる。これはつまり、クローン禁止定理が成立しないということを意味する。継続時間は不明であるが、量子のコピーが可能になるのである。コピーした量子をエンタングル状態にすれば、超光速通信が可能になる。
情報としてのエントロピーは、本稿では停止問題と関連している。エントロピーは量子チューリング機械では、メモリーあるいはテープに相当するはずだ。従って、この悪魔を使えば、量子チューリング機械の能力を操作できる。原理的限界である計算不能性を超えることはできないだろうが、情報量を操作できるのだから、計算能力を上げることは可能だろう。