恐怖と排斥
ドームを維持するには、標準という範囲を維持する必要がある。自然から自らを切り離さざるを得なくなったドーム内では、外乱を極力さける必要がある。そのため、標準化と平滑化がなされた。自然界では多様性が生命活動の源でもありえたが、システム化されたソフトウェアとハードウェアで管理されるドームにおいて、多様性は禁物であった。エーヌのような人種はほとんど生まれるはずがないシステムにされていた。すなわち、パートナーを構成する男女の卵子と精子は世界政府が管理し体外受精を行う。さらに、希望に応じて代理子宮装置を利用することもできた。出産を管理するということは、政府の政策上必要であった。人口の管理と遺伝子の損傷による出産を回避すること、すなわち、標準の範囲外の生命を誕生させないことである。これが、ドームを維持するということであった。しかし、生命は自然の一部である。管理しきれない状況がでてくる。エーヌは、その一人で、脳波の関係から外部脳が使用でず、生体脳のブラックホールが大きい子供として生まれた。ドーム内の人間は、自分達と異なる特質をもつ人々を恐れた。そのため、エーヌはそっと保護の名のもとに施設で監視されながら育てられた。名目上、人権は世界政府が犯してはならない項目であった。
あの事件が起こり、当初、交換された外部脳を受け入れ新しい人生を生きるべきという世界政府の方針により再び世界は動き出した。たとえ、本来の自分の外部脳でないにしても、蓄積された知識を各人が運用すれば、世界動いていくはずである。しかし、ドーム内の歯車は狂い始めてきた。生体脳のブラックホールの活動が活発化し、外部脳とのリンクが狂い始めたのだ。まず、事故が頻発した。小さな事故であるが、ずいぶん前に、自動運転システムが開発されたために根絶した交通事故が起こった。それから、完全自動化されているはずの食糧工場の停止、そして、傷害事件と殺人事件。いままでドーム内の人々に突発的な人生の変更という事態はほとんど考えられなかった。いつも食糧があり、いつも安全な移動ができ、人生を途中で他人に突然奪われるということは予想できなかった。人々は動揺しはじめ、過度な恐怖を覚え始めた。その恐怖は対象の排斥へと向かっていった。エーヌが暮らす施設にも、そうした目が次第に向けられてきていた。
世界政府は、こうした動きに反応して、制御と監視を強めた。それにより、人々は平静をとりもどしたかにみえたが、恐怖と憎悪をこころの奥に鬱屈させ、ドームは不穏な空気に満たされるようになった。エーヌも自分に向けられる周囲の目の狂気が増大していくことを感じていた。このままいけば、自分も排斥の対象として人々の狂気の的になっていく。脱出の計画を実行する時が来た。
一方、 ビーはどうであったか。エーヌが突然消えてしまったことは衝撃であった。自己の世界を持つエーヌと会い、その静かな精神の在り様を不思議に思い、そばにいると落ち着けた。一緒に蟻の動きをずっと眺めた。「どうして足が6本もあるの」「蟻には必要だからだ」「蟻はどうして、あんなに触角を動かすの。どうして、道を掘るの。」「生きるためさ」「でも餌をあげているから働く必要ないじゃない。箱から出ないのだから道を作る必要もないじゃない」「道を掘り、仲間と働くことが彼らの使命なのさ」「使命って何」。
ところが、突然消えてしまった。それをどう解釈すればいいのか。どこに行ったのか。自分のことを嫌いになったのか。戻ってくるのだろうか。いずれにしても、今まで感じたことのない感情がこみあげてきた。この感情をどう表現していいかわからない。あの事件で親という人々から離れたときにもこのような感情はわきあがらなかった。ビーにとって、親という存在も大きいものではなかった。保育も教育もそれぞれの家庭に提供されるロボットが面倒をみてたので、単に卵子と精子の提供者、養育の場にいて、ロボットや教育番組の配信のためのスイッチを入れる大人でしかなかった。