差別は恐怖から
ドームで暮らすエーヌという青年がいる。
エーヌは先天的に外部脳が使用できない。そのため、社会から除外され、精神の病を持つものが入る施設で暮らしていた。親はあったが養育を拒否され、幼い時からほとんど人と接することなく暮らしていた。エーヌとはNoからきた呼び名であった。社会不適合のNoという意味も併せて。
エーヌは外部脳を使用しないため、今回の騒動に影響されることがなかった。いつも孤独であったから、いまさらどうということはなかった。子供たちの施設からあふれた、子供が数人エーヌの施設にきた。その中に、ビーという名前の男の子がエーヌを慕っていた。エーヌは久しぶりに心から楽しそうにビーと遊び笑った。
エーヌは生体脳に知識を蓄え、経験を蓄えることができた。すぐれた判断力と認識力を養っていた。
外部脳が使用できないということは、この時代における労働能力はないとみなされ、単純作業効率もロボット以下にランクされる。しかし、働かないことは許されない制度上、仕事を与えられた。仕事は太いパイプが絡みあう巨大な設備の維持である。ドームのはずれのそびえ立った壁のそばに、この設備はあった。ドームの中心から離れるに従い、照明もわずかながら暗さが増し、空気もなんとなく重苦しくなる。その周辺は、ほとんど人は住まないが、時に施設に収容されなかった、または逃れてきた人々が粗末なコンクリートの箱を重ねたような住居に住んでいた。そんな場所にこの設備が残されていた。すでに使用されておらず、旧時代に作られたため、現在の技術を使用して維持管理ができない。しかも、目的が不明であったため、取り壊すこともできないのだ。世界政府の係官は何度もこの設備の調査を行った。しかし、この絡み合ったパイプの入り口も出口も外側からは見つけることができず、また、探査ロボットを入れてみたが、あまりに障害物が多すぎて中心に近づくことができない。世界政府は当面、この施設を維持することにした。
パイプは鉄を含む金属で作られていたため、錆びがつき劣化していく。錆が発生しないように薬品を定期的に塗り、錆が発生した場所は削り取り補修剤を塗ることがエーヌの仕事であった。ドームの人々は物が劣化して崩れていくことを極度に恐れた。若さとクリーンであるべきことが価値を持つこの世界では、劣化は老化と死を暗示するものだからだ。そのため、エーヌのように派遣されたもの以外誰も近づかなかった。
この設備から近いドームの壁際には、完全にコンピュータ管理された排出処理場があった。ドーム内の様々な廃棄物をドームの外へ投棄するために熱と化学処理を行い、排出口へ流し込む。人の吐き出す二酸化炭素も分解処理してリサイクルするが、処理しきれないものは排出口からドーム外へ排出する。そして、亡くなった人の遺体すら他の廃棄物同様、儀式が済むとロボットが運び出し、焼却処理されてドーム外へ排出された。こうして、ドーム内は人工的に清浄な環境が維持されていた。
エーヌは毎日、この仕事場へ通い、朝、管理パネルに指示された場所を、塗り、磨き、補修する。彼は、ひそかに蟻を飼っていた。パイプの錆がおちた床の付近を清掃していたとき、地面を覆うアクリル板の継ぎ目の細い窪みにさびと供に見つけた。ドーム内では、動植物も管理されており、蟻の飼育は許可されていなかった。このような昆虫やくも類はドーム外から紛れ込んでくると考えられていたが、それらが見つかると、人々は狂ったように駆除するのだった。ドーム外の世界を打ち消すために、自分たちの存在が犯される恐怖のために。しかし、虫は、さまざまな陰に隠れて監視センサーをたくみに逃れながら、生きながらえていた。
規則では、そうした動植物を見つけた場合、すぐに保健センターに報告する義務があった。すると防護服に身を固めた駆除隊が到着し、上から捕獲箱を被せ、この数匹の蟻の上にどっさりと薬剤を吹きかけ駆除するのだ。
エーヌは報告しなかった。ポケットに入れて帰った。持ち帰り、古い小箱に入れた。この箱はエーヌが幼い頃、この施設に入れられたときに、持っていたそうだ。外側は銅板で、内側は今では誰も見向きもしない木製の厚い板が貼ってある。彼の何世代か前の先祖はドームの外にいた。ほとんどの人がそうであるように。その時からの受け渡された来た唯一の私物であった。蟻は、せっせと板に穴をあけ巣を作った。板の中に蟻の通路が幾筋も作られた。
エーヌは施設において、治療と称する様々なテストや検査を受けた。心理テスト、脳波計測、脳の透視、電気信号反射、光反応。
エーヌの脳は、例の神経が乱雑な絡まり外からの解析を受け付けない黒く見える例のブラックフォールが大きな部分を占めていた。この部分は、時代とともに退化していく不活性な部分という通説だった。よって、この部分が大きく発達しているエーヌの脳機能は低いと結論付けられたわけだ。今回の事件で、他人の外部脳と折り合いをつけられずに病んでしまい、この施設に来た人々も同様の傾向があった。結論として、この部分が大きいほど脳機能が未発達で社会不適合を起こすと結論づけられた。
実は、この部分は、「私は私である」ことを意味づける部分であった。他の誰にも触らせない自分自身のみの場所であった。エーヌは外部脳が使用できないこと、すなわち外部脳に侵されずに、この部分をより発達させることができた。どんなに小さくなってしまっていても、だれでもあのブラックホールを脳に持っているのだ。それを消すことはできない。いずれ、皆崩れていく。たしかに、うまく稼働しているように見えるこのドームシステムがしだいに小さな異変が現れてきている。人々はいらだち始め、小動物におののくように、自分達とは異質なエーヌ等に恐怖を感じ始めている。エーヌもこの世界が崩れていくことを敏感に感じていた。
蟻は木をかみ砕き、通路を作り、唾液でおが屑を固め入口に盛り上げる。エーヌは蟻が忙しく箱の中のトンネル通路行きかう姿を飽きもせず眺めた。そして、ときどき夢を見た。木々をわたる風。深い森の中の暗さ。土の感触、流れる水の感触。触れたことはないはずだが、夢の中で感じている。
身の周りに次第に迫ってくる圧迫感とともに、ドームの外へ出たいという思いは強くなっていった。あの得体のしれない設備のパイプのに入りこむことができる扉をエーヌは見つけていた。それは、探査ロボット到達できなかった中心にある特別な金属でできた銀色の扉である。手動で操作するようになっていたため外部からの電磁チェックでも反応せず見つからなかったのだ。この絡み合ったパイプが外につながっているのだろうか。エーヌは信じていた。この設備の中心近くで、パイプが垂直に床に突き刺さっていることを知っていた。他の誰もコンピュータにも知られていない。
いつものように、ドーム内の灯りが次第に落ちて、夜になってドーム全体の照明が紺色に」かわる。人々は街に出て食事や買い物を楽しんでいる。エーヌは小箱だけ抱えて例のパイプ設備に向かった。そして、蟻を放した。蟻は、外からの微妙な空気の流れと臭いを嗅ぎ、迷わず、エーヌが見つけた扉から這い出していった。エーヌは迷わず、後を追った。