小さな異変
ドームはいつもと変わらないようであった。街路樹はいつものように緑にあふれている。移動を必要とする人々の自動運転車が地上や空中を行きかう。気持ちのよい空気の下で、花のあふれる街には買い物をする人々や散歩する人々の姿がある。あれほどの、大事件が起こっても、今ではなにもおかしいところは見られない。これこそ、世界政府が次々と打ち出した政策が成功している。そして、これこそが世界政府が目標として構築してきた社会である。ドームを維持には、最先端技術によりエネルギーの生成、食糧の生産、廃棄物の処理、環境維持が必要である。それらはほとんど自動運転され、人を必要とする作業手順は標準化されマニュアル化され、共有データまたは個人の外部脳に収まっている。よって、ものごとは順調に動いていく。外部脳が、どの個人にリンクされていようと情報が使用できれば社会は維持できるという世界政府の目標とする世界が実現できている。
表面上は何事もなく見えた。人々の中には一切の過去をあきらめ、新たに与えられた他人の外部脳を利用してより地位や利潤をあげる者もでてくる。または、平静な生活を望み、あきらめとともに受け入れた者。しかし、程度の差はあれど誰もが新しくリンクされた外部脳内部脳に残った記憶のすれ違いと記憶の喪失間を修復しようがなかった。こうした人の多くは、ドーム社会の生活ができず施設に入れられた。施設からあふれた人々は、ドームの周縁に追いやられてひっそりと暮らすほかなかった。一様であった世界には断層ができていた。何かがおこるのではないかという不安がドームを暗く満たし始めていた。
破たんが現れ始めたのは、エーヌが去って数年たったころである。ある工場の廃棄物処理能力が落ちた。廃棄物処理は、人の吐き出す二酸化炭素も含めた排出物、食べ残された食品、工業生産過程で合成した有害物質などを分解または別の物質と化合させて無害にする処理である。そうして、ドーム外に吐き出すのだ。処理工場には何棟もの巨大なタンクが設置されている。何らかの事情で、突然処理量が増えた場合にも対応する予備設備をそなえている。それぞれのタンクごと70%の処理能力で運転されるように設定され、それを超える廃棄物が流入した場合アラームがあがり、自動運転で、別の棟に流入されるように経路が変わる。アラームはいままで、ほとんど鳴ることはなかった。ある日、B7のタンクのアラームが鳴った。すぐに自動処理されるがアラームは鳴りやまない。しだいに、アラームの間隔と周波数があがり、最後には絶叫のように施設内に響いた。自動処理システムはついに、いままで使用したことのない予備設備への流入を始めた。
原因は人的ともシステム的ともいえる。B7は、あの事件があった直後に保守された棟である。そのとき、交換された一部の配管の口径がほんの数マイクロメータほど規格より小さかった。自動チェックシステムは、この差を識別できなかった。B7タンクから次の処理タンクとの繋ぎ部分にこの配管は使われ、タンクの中には一定時間に流れきらない物質が少しづつ残り、流入量に加わり、とうとうアラームが鳴った。そして、それを別のタンクに流し込むにも、通常以上の時間がかかり、アラームが鳴り続けたのだった。
配管は完全自動化された工場で作られ、透過装置を使って、口径のチェックや破損がないか検査が行われる。そのあとに人によってチェックが行われていた。そのわけは、品質チェックシステムが見逃しているわずかな問題を見分ける人々がいたのである。蓄積された五感の経験によって、何かがおかしいと判別するのである。その判別は100%当たっていた。
ドームのインフラを制御している自動システムはあまりに複雑化してしまった結果、人間の制御能力を超えてしまった。そのため、人間は最終チェックの局面だけかかわることになる。そこでは、五感と経験から得た直観にたよるという皮肉な結果になっていた。工場製品や水、薬物、建設物の組み立て、エネルギー配布システム、あらゆる場面での最終チェックのために特殊な訓練を受けた職能集団があった。そうした人々も、この外部脳リンクの異変により能力を落としていた。この能力は大きく内部脳に依存するものであるから変化しにくいと世界政府は推測していたが、彼らの心的な違和感の影響を考慮していなかった。こうして、徐々にドーム内の環境に影響がではじめた。このままでは、人智を集めてここまで到達したドームは破滅の道をたどることになる。