約束の場所
いつもどおりの三題噺です
お題は夢 待ち合わせ お弁当
なんかお弁当だけうまく使えなかった……
朝だ。
私はスイッチの入ったロボットのように目を開いて時計を確認する。
五時八分。少し寝坊気味だ。アパートの三階に住んでいても、
同じようなマンションやアパートが立ち並ぶこの場所では、
窓から朝日が差し込むのは昼の少しの間だけで、朝はいつも暗く冷たい。
私は音を立てないよう、布団をめくり過ぎないよう注意して、
そっと体を起こし、絡んでくる足をゆっくり退ける。
二月の朝の空気はきっと彼を乱暴に叩き起こしてしまう。
昨日遅くまでバイトで頑張っていたし、
今日は大学に行くのは早くないらしいから、
出来るだけ寝かせてあげたい。
私がいなくなったのが分かるのか、単に寒いだけなのか、
寝たまま顔をしかめるので、私が被っていた部分の
掛け布団を丸めて抱かせておく。
彼の顔が満足そうに緩むのを見ながら、
私は適当に服を見繕って寝間着から着替えた。
音を立てないよう慎重に寝室のドアを開け、
キッチンへ急ぐ。靴下を履いていても冬の廊下はしんと冷たい。
生まれてからかれこれ二十回目の冬だが、
どうもこの寒さとは仲良くやっていけそうにない。
爪先立ちでひょこひょこ移動しながら、
今の私は泥棒みたいだな、と思った。まだ寝ぼけてるな、とも思った。
キッチンに着くとまず炊飯器を開ける。
もわっと湯気が立ち昇り、温かいふっくらしたご飯が
少し遅れて顔をのぞかせる。うん、炊き加減はばっちり。
湯気を避けながらしゃもじで適当にかき混ぜて炊飯器の蓋を閉めた。
冷蔵庫には何があっただろうか、漬物はまだあったし、
昨日作ったアジの塩焼きも残っていたな。彼は朝から魚を食いたくないと
愚痴るし……よし、アジを出そう。
あと味噌汁と、正月から残ってるお餅も処分しよう。
細かく刻んで揚げれば、おやつ感覚でも食べられるし。
そうだ、お弁当も作らないと。
まずお湯を沸かして――
「お〜い、朝だよ〜、六時回ったよ〜」
朝食の用意ができてから彼を揺り起こす。
眠い目を擦りながら伸ばされる手を適当にいなしながら布団を剥ぐ。
捕まったらベッドに引きずり込まれてしまう。
ここ一年で学習済みだ。
「早く起きて、ご飯が冷めちゃうって。
こら、ダメ、朝からはだーめ」
しつこくまさぐろうとする手を払い除けながら、
彼の胴体を掴んでベッドから引きずり落とす。
こうでもしないと起きてくれないのも学習済みだ。
「いたい」
「おはよ、ご飯で来てるよ」
しゃがみこみ、床に頭から落ちた逆さまな彼の頭に挨拶して
髭でざらついた顎に、ついばむように軽いキスをする。
口じゃないのかよと言いたそうに不満気な眼をしているが知ったことじゃない。
せっかく作ったご飯が食べられずに冷めてしまう方が一大事なのだ。
何より口にして欲しいなら起きて貰わないと低すぎて出来ない。
いつもならこの辺で起きてくれるのだけど、
よっぽど疲れているのだろう。まだぐずっている。
このままの姿勢でも眠ってしまいそうだ。
起きて貰うにはもう一押し要りそうだ。
「起きないと何もあげないよ」
ぼそりと、秘密でも打ち明けるみたいに小さく呟き、
小首を傾げる。まゆを微妙に寄せるのもポイントらしい。
実際に、私が困った時にする癖なのだと彼が以前言っていた。
意図して再現しようとするあたり打算的だな、と我ながら思うが、
冷めてご飯が美味しく食べてあげられないのは食べ物に申し訳ないし、
ここは許してもらおう。
しばらくにらめっこが続いたが、
どうやら私に軍配が上がったようだ。
彼は目を閉じて恨めしそうにため息を付き、
「それ反則」
と言ってのそのそと起き上がってくれた。
自然とこぼれそうになる笑みを隠しながら、
私は一足先にキッチンに向かった。
「座って座って、今よそうから」
まだ眠そうな彼の前に朝食を並べていく。
アジの塩焼きと豆腐のお味噌汁にきゅうりの浅漬け、
サラダ菜を一緒に巻いた卵焼きに、炊きたての白米。
最後に外はカリッと、中はモチッと揚げた短冊切りのお餅。
まるでおままごとみたいに「これは〜で」と説明しながら、
アイロン台みたいに足の低いローテーブルにお皿を並べていくと、
彼もうんうんと頷きながら、どんどん眠そうだった目が開いていく。
ご飯をよそった時にはすでにお箸も完備済みだ。
「待って待って、お茶入れるから」
今すぐにでも箸を付けようとする彼を止めて、
冷蔵庫から麦茶を取り出してコップに二つ注ぐ。
「準備完了、ほら、お箸置いて」
あ、そうかと彼がきちんと箸を置くのを待って、
二人で手を合わせる。
「「いただきます」」
まるで小学校の給食みたいだ。
自然に笑みが顔に浮かぶ。
「どしたの?」
「いやなんでも。どう? 美味しい?」
「美味いよっ、ほんとに。デリシャスでセ ボンだよ」
鼻の頭に米粒をつけながら、満面の笑みでそういった彼の顔は、
かきこむ様にして持ち上げられた、大きめの茶碗に隠れて見えなくなった。
彼は大学でフランス語を習っていて、
日常会話に、いかにも「自然に混ざっちゃいました」と
言いたげに使ってくる。何度も聞いていて慣れてしまった彼の癖の一つだ。
「ほら、顔中にご飯粒ついてるよ」
茶碗からあげた顔に付いたご飯粒を幾つかとってあげる。
恥ずかしそうに身をよじるけど拒んだりはしない。
どちらかと言うともっとやって欲しそうな緩んだ顔だ。
「……さっきから魚食べてなーい」
「だって食いづれーもん」
「そんなこと言ってるとお弁当に入れるよ」
「やめて、弁当箱に焼き魚まるまる一匹詰めるのは本当にやめて」
一度喧嘩してお弁当箱いっぱいに
生卵とマシュマロを敷き詰めた事があって、
以来彼は弁当箱の中身に敏感だ。
「じゃあ食べなさい。せっかく食卓に並んだんだから。
据え膳食わねばって言うでしょ?」
「俺フランス語と英語しかとってないから、
他の言語はちょっと」
「……この時期に大学で食べるブロック氷は美味しいでしょうね」
「分かったからっ! 弁当で新しい拷問ジャンルを開発するのはやめてくれ」
そう言って、彼は舌打ち混じりに不器用な手つきで
アジの身をほじくりだした。
「それじゃあ行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
七時過ぎ、彼が大学に行く時間だ。
狭い部屋なので、キッチンからでも玄関は見えるのだが、
私も彼も、ちゃんと玄関の扉まで行って見送る。
挨拶は人間が生んだ一番大切な人間関係の基礎で基本で根幹だ。
靴を履いた彼は扉を開ける前にぎゅっと私を抱きしめる。
息が詰まるほどしっかりと抱きしめられ、
誰も見てないと分かっていても恥ずかしくなる。
「……痛いよ」
「痛くしてるんだよ」
「いじめっ子め」
「痛いくらいじゃないと忘れちゃうかもだろ?」
「忘れないよっ」
彼の腕の中で抗議をするが、彼はさらに腕に力を込める。
頭一つ分大きい彼に抱きしめられ、殆ど埋まってしまった私の頭を、
髪をすくようにして撫ぜる。
「忘れないよ?」
今度は彼を見上げて、ちゃんと目を見て訴える。
「いやさ、たまに……ちょっとだけ不安になるんだよ。
別に結婚してる訳でもない同じ年の女と同居して、
朝起こしてくれて、朝飯作ってくれて、
掃除も洗濯もほとんどしてくれて、
何より行ってきますとただいまを言える相手がいるってのがさ、
こう……喩えようもなく贅沢だと思うんだよ。
だからさ、極々たまにだぜ? 不安になるんだよ。
幻なんかじゃないって確認したくなるんだよっ」
そう、投げやりになりながら言って、また何度か私の頭を撫でた彼は、
上を向いた私の唇に自分の唇をちょんと乗せ、
数秒で離れていった。
「……その離れ際に舐めるの止めてよ」
「スキンシップは男女関係の基本で基礎で根幹だぜ?」
「セクハラじゃん」
「ははっ、じゃ、今日は十時には帰るから」
「お夕飯は?」
「腹空かして帰ってくるから作っててくれると助かる」
「分かった、待ってる」
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
元気よくカバンを持って飛び出す彼の背を見送りながら、
アパートの鉄扉をゆっくり閉めた。
「大袈裟」
出て行く直前の、行ってきますを言った
彼の嬉しそうな顔を思い出しながら独りごちる。
本当に大袈裟だ。
誰かに起こしてもらって、ご飯とか家事をやってもらって、
見送ってもらえて出迎えてもらえて。
そんな事で、あんなに嬉しそうに出来るなんて。
今朝起きて一番最初に見た彼の寝顔。
揺り起こされた時の眠そうな顔。
頂きますをした時の子供みたいな顔。
魚の骨を不器用に取り除く面倒そうな顔。
今朝から見た彼の顔を思い返すたびに、
胸が暖かくなる。元気が出てきて、
なんでも出来そうな気になってくる。
間違いなく、私は彼よりもずっとずっと幸せだ。
小学校の時に、私はいじめを受けた。
いじめといっても、ニュースになるような酷いものじゃなくて、
クラスで一番大きな女の子のグループに
ちょっとしたちょっかいを出される程度のもの。
いじめかと聞けば私以外はクラス全員首を傾げただろう。
けれど、内向的で気の小さかった私は、それでも本当に怖かった。
いや、本当に怖かったのはイジメられる事ではなく、
『このまま一人ぼっちになるんじゃないか』というのが怖くて仕方なかった。
もちろん私には当時から仲のいい友人はいた。
だけど、運悪く友達が周りにいない時に、彼女たちの標的になると、
まるで世界に一人だけになったみたいに、
世界がガラガラと崩れていくようだった。
本当に、本当に怖かった。
小学校を卒業しても、その思いは
消えるどころかどんどん大きくなっていき、
ついには夢に見るようになった。
誰もいない町をひたすら走り続ける夢。
家も、学校も、道路も、よくお使いに行くスーパーも、
どこへ行っても不気味なくらい誰もいない。
電車は誰も乗っていないのに恐ろしい唸りを上げて踏切を駆け抜け、
誰をせき止めていたのか律儀に黄黒縞の棒が上がる。
高校に上がった時には、その夢をほとんど毎週見るようになった。
夢のなかで私は、親を、友人を知人を親戚を、
近所の人を、名前しか知らないテレビの中の人を、
すでに死んでしまった人の名まで、
とにかく知っている名前を叫びながら走り回る。
けれど何処をどんなに探しても、
私は誰にも何にも出会うことはなかった。
そのうち叫び疲れ、知ってる名前も言い尽くし、
誰を呼べば良いかも分からなくなって、
ここが何処なのかすら分からなくなって、
地面に座り込む。町はもう何の音もしない。
そうなって初めて私は飛び起きる。
汗を滝のようにかいて、震える手で布団を握りしめて。
起きてからは怖くて眠れない。
夜中の二時に起きて、怖くて眠れずに朝まで
震えている事なんて珍しくなかった、
そんな私に、何を期待したのか告白してきたのが彼だ。
”恋人が居たほうが自然だから”という理由で、
好きでもないのにOKを出した。
デートも行かず、お昼も一緒に食べない酷い恋人だった私に、
彼は飽きもせず根気よく声をかけてきてくれた。
正直言うと、興味がなかった。どうせ夢の中では誰も居ないのだから。
高校生になるころには、まるで夢が
本当に起こる事のように思っていた。
どうせ私は誰にも出会わない。
それが、心の中で私の口癖になっていた。
家中に掃除機をかけながら、私はぼんやりと
今日のスケジュールを確認する。
パートは昼からだし、それまでに掃除と洗濯を
済ませてしまわないといけない。
時間が余ったら彼の革靴でも磨いてあげよう。
最近くすんできてかっこ悪いし。
クリームはまだ残っていただろうか。
そうだ、最近運動不足だし、少し体を動かす日課でも始めよう。
少しでも余分なお肉は燃やしてしまわないと、彼に笑われてしまう。
そういえば学生時代は夏に海に行った時、よく笑われたっけ。
顔を真赤にして笑っていたのは、恥ずかしさも紛れていたのかもしれない。
当時はちょっと傷ついたりもしたけど、
今思えば二人とも子供だったな。
――彼の優しさは出会った時からずっと変わらない。
何故そんな話をしたのか、今は思い出せないけど、
多分風邪か何かで疲れていたのだろう。
無抵抗に彼に抱きしめられている時、例の夢の話をした。
「そういうののさ、解決策あるの知ってる、前に本で読んだんだ」
私が淡々と話す悪夢の話を、どこか遠い目をして
黙って聞いていた彼は、話し終えると同時にニッコリと笑って言った。
「解決策?」
「そ、誰かと待ち合わせをしておくんだ。
絶対にそこを探せば居るっていう所を決めておくんだよ」
そう言って得意顔になった彼の顔を、
その時胸に広がった何とも言えない気持ちを、
今でも忘れられない。
「この学校のそばにさ、公園があるだろ?
桃の木がいっぱい植わってる所。
あそこにあるベンチに俺は座ってる」
「……え?」
「もし同じ夢を見たら、あそこを探してみてくれ。
放課後の時間なら俺はそこにいる。
学校がある時間なら教室で待っててくれ。
それでもいなかったら俺の家にいる。
住所は前に年賀状送ったよな?
家の前で叫んでくれれば飛んでいくから」
「もし公園も家も学校も見つからない場所だったら?」
「公園を探せ、そこのベンチに居る。
もしくはこの街まで何としてでも戻ってこい」
「戻って来れない位遠くだったり、
外国だったりしたら?」
「その時は俺もついて行ってる可能性高いし、
大声で叫んでくれたら聞きつけるから、
動きまわらず大声で呼んでくれ」
そう言って、また抱きしめてくれた彼に、
私は何かとてつもない秘密か宝物を貰ったような気がして、
その時になって初めて、私は彼を抱きしめ返した。
そうして、私達は本当の意味で恋人になった。
彼に夢の話をしてしばらくしてから、その夢は彼を探す夢に変わった。
本当に来てくれるだろうか、本当に居るだろうか。
そう思いながら街を歩く私の足はいつの間にか早足になり
そして全速力で走りだす。
彼の名を叫びながら、学校へ、公園へ、彼の家へ。
走りながら私は涙と笑みをこぼす。とても幸せで、安心して。
早く彼に会いたくて、靴が脱げても転んでも、
そんな事構わず飛ぶように駆けていく。
そうして目的地に着く前に目覚めるか、
彼の後ろ姿を途中で見つけて目が覚める。
おーいと声をかけられることもあった。
そうして起きると、本当に幸せな気持ちで胸がいっぱいになって、
今日も彼に会えることが、嬉しくて仕方なかった。
高校を卒業して、一緒に住むようになって、正直あんまり外聞も良くないし、
喧嘩ももちろんあるし、家事やら食事の用意やら、
もちろんパートやらで忙しい毎日で、正直面倒な事も多い。
(朝早くに起きてお弁当を作るなんて、高校までは考えた事もなかった)
けれど、彼の浮かべる嬉しそうな顔を見るのは幸せだし、
彼の寝ぼけた顔やゲームで敗けて悔しがる姿は可愛いし、
何より彼に抱かれて眠って、彼の腕の中で目覚めるのが、
こんなに幸せな事だなんて、きっと彼には想像もつかないだろう。
そう思うと、ちょっと残念で少しだけ楽しい。
自分だけの秘密の宝物みたいで、
でもそれを見せてあげられない事が、少し残念。
だから私は一生懸命家事をするし、
彼がしたい事が出来るように、一生懸命努力する。
家計が苦しくて欲しいものが買えなくても、病気でしんどくても、
バイト先で怒鳴られても、彼と一緒に暮らせるのなら、
どんな事だって出来てしまう。
きっと彼は忘れているだろうし、忘れてくれて構わないけど、
あの日彼とした約束は私の何よりも大切な宝物だ。
私は洗濯物をたたみながら、だらしなく頬を緩めて、
彼の服をいつもより丁寧にたたんでいった。
そうだ、今日はシチューにしよう。
彼の好きなビーフシチュウ。
奮発して牛肉もいっぱい入れよう。
それから何かスーパーで安いお野菜でも買ってきて、
煮物でも作ろう。今日は昨日より寒いし、
生姜を入れて温まるものも作ろう。
それからそれから――
パートからの帰り道、買い物も終わり、もうすぐ日が暮れるという頃、
ふと気まぐれに、約束の公園に行ってみる。
夢のなかでは何度も足を運んだけど、
現実で来たのはもしかしたら初めてかもしれない。
狭くて、草が茂っていて、遊具もブランコと滑り台しかなく、
何かスポーツをやるには微妙に広さが足りない、普通の児童公園だ。
きっと缶蹴りなんかをすると楽しいだろう。
昔の記憶を引き出しながら公園に着いて見ると、
葉を落としてはだかになった桃の木が、入り口でアーチのようになっている。
なんだか歓迎されているようで気恥ずかしく思いながら公園に入ると、
見慣れた背中があった。
なぜ、ということを考え始めるより早く、買い物袋も足元に落として、
私の体は自然と駆け出していた。
途中で気づいたのか、振り向いた彼の顔を見て、
もっともっととスピードを上げていく。
ほとんど体当たりをするように、
彼の首にノーブレーキで飛びついて、
押し倒しそうになるのを二人で何とかこらえる。
「何かあった?」
とりあえず私を受け止めて立ち上がった彼が、
なんでも無いことのように、頭を撫でながら語りかけてくる。
あまりに嬉しくて、少し涙が滲んだけど、
同時に笑い声を漏れた。彼の胸に体をうずめて首を横に振って、
今朝彼がやってくれたみたいに力いっぱい抱きしめる。
きっと私の細い腕じゃ彼に痛がって貰うことは出来ないだろうけど、
でも少しくらい私の想いを伝えたかった。
そうでもしないと、大声で笑って踊り出してしまいそうだった。
「覚えてくれてたんだね」
「当たり前だろ」
この一言で確信して、私は申し訳なくて深く彼の胸に顔を埋める。
なぜ、私は彼が覚えていないと思ったのだろう。
訳が分からなくなる程の嬉しさに錯乱した頭で、
怒ったような口調の彼に何度もぐずりながら謝る。
「俺が待ち合わせの約束破ったことあっか?
人形みたいに無感動の顔で、
あんな恐ろしい夢の話されて、
ただの方便で俺が済ませるとでも?
本当に居なきゃ意味ないだろ。
何があっても、絶対一日一時間はここにいるって、
そう約束しただろ」
何度も何度も頷く。
そうだ、たしかに彼は約束してくれた。
だから私が大丈夫だと何度説得しても、
高校時代はどんなに熱が出ていても私が帰るまで学校に居てくれた。
彼の口調は怒っているみたいだったが、
抱き締めてくれている腕は今朝とは比べ物にならない程優しくて、
大事にしてもらっているのが嘘みたいによくわかった。
いつしか彼はぼやくような懐かしむような口調でつぶやく。
「あの日のお前の顔は忘れられそうにねーよ。
写真に取れなかったのが悔やまれるくらいだ」
そんなに変な顔をしていたのだろうか、
腕の中で彼を見上げると、彼の指がそっと目頭を拭った。
「そんな風に、いっぱいに涙を溜めてさ、
信じられないって顔して、心細そうな目で肩震わせてたよ。
……うさぎが寒がってるみたいだった」
最後の一言で吹き出してしまう。
そうか、私はそんなにみすぼらしく見えたのか。
改めてよく分かる。私”が”幸せ者だなんて、
えらく自分勝手な考えだ。馬鹿馬鹿しくて、恥しらずな考えだった。
私は、彼に本当に幸せにしてもらったけど、
けど同じように、彼も幸せだったんだ。
彼も大切に思っていてくれたんだ。
「それからお前、別人みたいに明るくなってさ。
甲斐甲斐しくなるわ、色っぽくなるわ、
活発になるわ……、クラスの奴らも悔しがってたな〜、
なんであんな女見逃してたんだろうって」
だから彼は友人からいじられる事が多かったのか、
そういえば私も男子に声をかけられる事が増えていた気がする。
「そうそう覚えてるか? 俺の大学入学が決まった時、
二人でお互いの家に挨拶に行っただろ?」
「うん、覚えてる。『卒業までに子供つくったら腕を落としてやる』って、
のこぎり構えて笑ってたね、お義父さん」
「目が全く笑ってねーんだよな、あのクソ親父。
考え方が古いくせに頑固って、
昔ながらの職人かよっての……大工だから職人だけどさ」
「古い考えって……じゃあ今日は付けないでする?」
「…………卒業したらな」
彼の声はえらく本気で、目がハエを追うみたいに
泳いでいて、とても可愛いくて愛おしい。
「それでよ、お前の家に言った時、
お義父さんから言われてよ。
”娘はよくひどい悪夢にうなされている”って。心底心配そうに。
それでさ、俺思わず反射的に”知ってます”って答えちゃって。
あの時のお義父さんの目は怖かったなぁ〜。
不動明王みたいな顔してたぞ」
ああ、きっとそうだろう。
ありありと想像出来て声を上げて笑ってしまう。
「その時に約束したんだよ。
大学卒業までは実家のそばに住むって。
……そんで何があっても、これから先ずっと一日一時間は
お前のために時間空けておくって。
だからじゃないけど……もう心配なんてないからな」
「うん、大丈夫解ってる。心配なんてしてないよ」
私は改めて彼を思いっきり抱きしめる。
彼に私の思いが伝わるように。
私がどれだけあの言葉で安心したか、
以来どれだけ幸せに生きてきたか、
彼をどれだけ大切に思っているか、
ほんの少しでいいから、伝わればいい。
そしていつか、もっともっと二人で歳をとった後も、
こうして抱き合っていたい。今は恥ずかしくて出来ないけど、
その頃には口でもはっきり言えるようになりたい。
今日の晩御飯のメニューを伝えるみたいに、
ごく自然に当たり前に伝えられるように。
幸せですと、他でもない彼に伝えたい。
しばらくして私の涙が完全に止まった頃、
やっと彼も離してくれ、私が放り投げた買い物袋を拾ってきてくれた。
お礼を言って受け取り、また彼に、今度は軽く抱きつく。
「今日のお夕飯ビーフシチューだよ」
「おっマジで? ほんとに今日何もなかったの?」
「強いて言うなら今あったかな?」
「なんだそりゃ……まぁいいや。
悲しい事じゃないなら大歓迎だ」
「うん、悲しい事じゃないから安心して。
家で待ってるからね」
「おう、……約束こんどこそ忘れんなよ」
「忘れてないよっ、覚えて貰ってると思ってなかっただけ」
「じゃあ今度は思っとけ」
「分かった、思っとく。――ねぇ!」
背を向けかけて慌てて振り返り、
「大好きだよっ!」
そう、まるで高校生の言い逃げ告白みたいに言い切って、
私は背を向けて小走りで逃げ出した。彼の視線が背中に痛い。耳が熱い。
けど、今はこれで精一杯。
早く帰ろう。早く帰って、とびっきりに美味しいシチューを作ろう。
ほうれん草も安かったし、ちょっぴり和風だけど
生姜を入れてスープにしよう。
二月の空気はまだまだ冷たい。
彼の体が冷えて風邪を引かないといい、
けれどスープが美味しく食べられるくらいには
寒がって帰ってきて欲しいな。
そう北風に祈りながら、私は早足で彼との家に向かった。
いかがでしたでしょうか?
バレンタインという事で、
いつもより糖度250%ほど上げてみましたw
ここまでお読みいただき、
ありがとう御座いました