春の匂い
「ひぇーっ、全然伸びてねえ。」
斜め後ろの席から、絶望に満ちた叫びが聞こえてきた。
竹下浩輝は、手にした紙を見ては目を逸らし、また紙を睨み付けては目を逸らしという動作を繰り返している。春の統一模擬試験の結果通知である。
その間にも生徒たちは名前を呼ばれたものから順に席を立ち、担任から結果通知の書類を受け取っていく。
反応は生徒によって様々だが、こちらが何も訊かずとも結果の良し悪しが瞬時にわかるのは浩輝くらいのものである。この統一模試は志望校の合格可能性判定などという有り難迷惑なオマケまでついているのだが、浩輝のそれが一体どんな判定結果になっているのか、 クラスのほぼ全員が容易に想像できた。
彼は隣の席の女子生徒にその紙を見せ、
「な、な、こんなのおかしいだろ。」
と何に対してかよくわからぬ弁解を続けている。それを横目で見ながら、美郷は自分の名前の呼ばれるのを待った。これまで模擬試験などというものは彼女にとって何ら意味のあるものではなかったが、3年生とした大学受験を控えた今では、そうも言っていられない。
模擬試験の成績は確実に、ある程度自らの実力を示すものであるからだ。
「遠田ー。遠田美郷ー。」
担任教師、永島の太くたくましい声が響く。美郷が永島の元へ行くと、彼は口を真一文字に結び、何度か大きく頷いて見せた。
「さすがだな、遠田。この調子で本番まで頑張れよ。」
美郷は無言で永島から紙を受けとると、席に戻りゆっくりと試験結果を眺めた。
まあ、こんなもんか。そう思い、そのまま机に紙を放る。横から覗き込んだ堺田政臣が素っ頓狂な声を上げた。
「うぇーっ。遠田、早稲田A判定かよーっ。」
その声にクラス中がざわめいた。
美郷はばかっ、と言って政臣のこめかみのあたりを拳で突き、慌てて試験結果を丸めて机に押し込んだ。
「おーい、静かに。お前らもこれからがっちり実力をつけて、遠田に続け。いいな。」
永島の声に一旦は静かになった教室に、授業終了のチャイムが響き渡る。生徒たちはすぐさま席を立ち、美郷の周囲に集まった。
「美郷、一体何点とったのよー。」
「遠田、頼む。俺に数学を教えてくれーっ。」
クラスメイトたちは口々に叫び、彼女の試験結果を一目見ようと美郷に迫ったが、彼女は一切相手にせず乱暴に荷物をまとめると道具を持って部活へ行ってしまった。
今の時点での模擬試験の結果が大学受験に何ら影響するものではないと美郷自身が思っていたせいでもあったし、何より今彼女の頭のなかにあるのは部活のサッカーのことだけだったからでもあった。夏の大会で優勝し、県立檜山を全国へ連れていく。それが美郷の最大の目標である。男子サッカーほどではないにしろ、女子サッカーの全国大会というのはやはり夢である。決勝戦は憧れの国立競技場で行われ、多くの観客の前で、プロと同じフィールドでサッカーができるというのはなんとも言えない思いがする。
美郷たちの世代は檜山の黄金時代との呼び声高い強豪で、キャプテンでゴールキーパーの小倉千夏、U18女子日本代表候補のミッドフィールダー、小森晶子 、エースストライカーの美郷など全国大会も十分狙える状況にあるのである。何より思い切りサッカーができるのは今が最後、という切迫感が、美郷の練習に対するひたむきさとなって表れていた。
一方の浩輝が所属する野球部は夏の甲子園に向けて県予選の真っ最中。私立大功学園との激戦を制し第三試合に駒を進めたばかりである。キャプテンである浩輝は県立檜山が未だに達成していない甲子園出場を目標にチームメイトたちに激を飛ばす毎日だ。
それでもひとたび部活をは離れれば普通の高校生。その日も夜7時過ぎまで及んだ練習を終え、美郷は正門の前で浩輝と合流した。
「おーっす、お疲れー。」
「あー、もう、くたくただぜ。浩輝、荷物は任せた。」
「えーっ。」
あからさまに嫌な顔をする浩輝に構わず、美郷は部活用のショルダーバッグを浩輝に押し付け、先へと歩き出した。
「この間は私が持ってやったろ。」
「それはお前がジャンケンで負けたからだろ。」
「か弱い女の子の荷物は持ってやるもんだぜ。」
か弱い女の子の荷物なら持ってやるが、と浩輝がこぼすのも気に留めず、美郷はどんどん歩いて行ってしまう。疲れ切った体を引きずるようにしながら、浩輝は必死にその後を追う。檜山高校の自転車置き場は浩輝たちの自宅とは反対側の方向に5分ほど歩いたところにある。これも田舎の悲しいところだ、と思いながら、浩輝は少し先を行く美郷の背中に話しかけた。
「そういえば、お前、模試の結果ずいぶんよかったみたいじゃん。」
「今回は得意なところばっかり出たからな。それだけだよ。」
「けーっ、すかしやがって。」
浩輝は精一杯いやみな笑顔をつくると、おもむろに美郷のバッグのジッパーに手をかけ、中を探った。模試の結果通知は奥の方でサッカーシューズに押しつぶされてくしゃくしゃに丸まっていた。どれどれ、と丸まった紙を広げ、各教科の成績を盗み見る。
英語186点、数II96点、数B93点、国語178点、世界史B85点、政治経済90点、化学85点と、浩輝が目にした事のないような数字が並んでいる。
「ホントだ。早稲田A判定、慶応B判定…中央なんてS付いてる。」
「あっ、お前、何見てんだよっ。」
気付いた美郷が慌てて取り返そうとするが、浩輝はそれを巧みにかわして応戦する。部活の疲れもあり、やがて美郷もすっかり諦めた様子だ。
「そういうお前はどうだったんだ、見せてみろよ。」
美郷が言うと、浩輝は特に嫌がるそぶりも見せず、無言で自らの成績を手渡した。美郷はそれを一通り眺めていたが、やがて小さな溜息をついた。
「ハァって何だよ!」
浩輝はそんな彼女の反応が心に突き刺さったらしく、目に涙を浮かべて抗議した。しかし美郷は紙を浩輝の眼前に突き出し、成績詳細の欄を指さすと彼に詰め寄った。
「溜息もでるぜ、こりゃ。何だよ、模試の直前に教えてやったところがそのまま出てんのに、一つも取れてないって。お前、ふざけてんのか。」
英語は浩輝の最も苦手とする科目である。中でも文法事項に関する問題では毎回こんな調子である。美郷の教え方が悪いからだ、と毒づきたくなったが、それも虚しいだけか。それに、自分は高校球児だ、と浩輝は自らに強く言って聞かせる。そうは言っても、このままの成績では東京の大学へ進学など夢物語だ。
「ああ、もう。」
浩輝は両手で頭を激しく掻き毟った。浩輝には二つの目標がある。一つは甲子園に出る事、そしてもう一つは東京の大学に進学することである。檜山高校の他の多くの生徒たちと同様、東京での学生生活には憧れるし、何より美郷がほぼ確実に東京の大学に進学するという事もあって是が非でも達成したい目標であった。
「でもさ。」
美郷が浩輝に成績表を手渡しながら言った。
「浩輝は私立志望だろ。そしたら3科目受験でいいんだし、まだまだ可能性はあるって。」
美郷にすれば励ましたつもりなのだろうが、浩輝は納得していない様子だ。彼は少し躊躇いつつも、口を開いた。
「なんかさ、カッコ悪いじゃん。」
「はあ?」
「彼女はすげー勉強できるのに、彼氏はバカって、なんか、カッコ悪いじゃん!」
浩輝の言葉に、美郷は思わず吹き出してしまう。あはは、と笑いながら駐輪場へ入って行き、自転車の鍵を開けた。一人残された浩輝は、笑われた恥ずかしさでその場に立ち尽くし、下を向いていた。
北関東のこの地にもようやく春がやってきた。桜の花は5月の初めごろまで咲いていて、大部分が散ってしまってはいるが、昼間見れば小枝に芽を出した若葉が五月晴れの太陽に照らしだされる。ついこの間まで寒い寒いと言って震えていたはずなのに、今では部活前のウォーミングアップで汗ばむほどだ。
「来年の今頃は大学生かー。」
国道に沿って上り坂を自転車で漕ぎ進みながら、浩輝はふとそんなことを漏らした。
「えー、浩輝、大学生なれんのかよ。」
「はぁー。それを言うかなあ。」
どうしてこう憂鬱になる事ばかり言われなければいけないのか。まあ、それが美郷らしいところではあるけれど。美郷は笑いながら自転車を漕ぐスピードを緩めた。
「悪い悪い。大体、私だってピンチっつったらピンチなんだぞ?国立じゃねえとダメって言われてるし、もし来年落っこちたら浪人だもんな。」
美郷は経済的な事情から国立一本に絞って受験をする。一方浩輝の両親は私立でもよいと言っているので、それなら上京のチャンスは十分にあると言える。しかしそれはつまり、二人が離れ離れになる可能性を十分に孕んでいるということでもあるのだ。美郷も浩輝も、それは心の中で常に感じていた。
「まっ、今からそんな事考えても意味ねーって。」
浩輝が言うと、美郷も、だよな、と言って笑った。
二人が家に着いたころには、辺りはすっかり闇に包まれていた。美郷が門の扉を開けて自転車を入れようとした時、浩輝が彼女を呼び止めた。
「美郷。」
「うん?」
「もし…もし、一緒に東京行けなくても…さ。俺、お前と別れるつもりないから。」
「なっ、何言ってんだよ、急に。」
突然の言葉に美郷は驚きを隠せなかったが、浩輝の目は冗談を言っている時の彼の目ではない。そう思って、彼女は歯を見せ笑った。
「何言ってんだバカ、あたりめーだろっ。」
浩輝は少し表情を崩して微笑むと、恥ずかしげに自分の家に向かって自転車を漕いでいった。
県立檜山高校野球部は、県大会準決勝へ進んだ。美郷がその知らせを聞いたのは、部活でランニング練習をしていた時だった。チームメイトでディフェンスの浦部望が練習場へ走り込んできたのだ。
「野球部、準決だって!」
あとで聞いたところでは、浩輝の二塁打で首尾よく塁を進め、「大砲」のあだ名で呼ばれる強打者の嶋田満範が3ランを叩き込んだということだ。美郷は浩輝の活躍を素直に喜んだし、一方で負けていられないと対抗心を燃やしもした。高校生としてはデキの悪い浩輝だが、野球部のキャプテンとしてこれ以上頼もしい男はいない、と内心美郷は考えている。野球部が準決勝へ進んだその日、美郷は浩輝に祝福のメールを送った。
― 準決おめでとう!甲子園はお前のもんだ。
しばらくして返事が返ってきたが、そこにはこんな事が書かれていた。
― ありがとう。準決勝がんばるから、試合見に来てくれないか?
これまでにも浩輝の試合を見に行った事は何度かある。しかし今回は県大会の準決勝。各チームが死力を尽くして戦う大舞台だ。相手は甲子園の常連、私立聡國高校。準決勝の日は、生徒たちが応援に行くことを考慮して体育会系の部活は全て休みになる。
― 試合行くよ。お前の送球ばっちりチェックしてやるからな。
試合当日、美郷たちの町からは人の姿が消えた。多くが自宅にこもってテレビを見ているのだ。その高校の卒業生でなくとも、地元の高校が甲子園をかけた試合を戦うとなれば大いに期待を寄せる。檜山高校野球部は、地域の声援を一身に受けてその日を迎えた。美郷はクラスメイトの大前理花、鎌田優、部のチームメイトの小倉千夏らと共に浩輝の父が運転する車で球場へ向かった。足の悪い祖母の事を考えて、美郷の両親は自宅でテレビ観戦である。試合開始一時間前というのに、球場は早くも熱気に包まれていた。両チームの応援コールが激しくぶつかり合う。出場校の生徒は生徒手帳を提示すれば専用の応援席に座ることができる。美郷たち3人は保護者席へ向かう浩輝の両親と別れ、球場に入った。この県営の野球場は、プロ野球チームを持たないこの県内では一番大きな球場だ。収容人数は4500人と、県営の球場にしてはかなり頑張っている方と言える。
「あんまり入ってないね、人。」
優が客席を見渡して言う。確かに半分も埋まっていない。県大会の準決勝とはいえ、プロ野球の人気に比べればまるで別の競技だ。それでも両校のチアリーダーたちは汗ばむような気候の中、一心不乱に声援を送っている。フィールドを見降ろせば、キャッチーボールで体を温める野球部の面々。一塁近くに浩輝の姿を見つけ、美郷たちは最前列に陣取った。
「おっ、いたいた、ホラあそこ、美郷のダンナがいるじゃん。」
千夏がそう言って美郷をからかう。彼女はゴールキーパーとしての才覚とゴール前での冷静さ、身長178cmの長身から普段「鉄壁のオンナ」などと言われクールなイメージを持たれがちだが、どうという事はない、悪戯好きの女子高生である。首辺りまでで短く切られたくせのある黒髪が悪戯小僧のような表情を一層際立たせており、どう見ても「クール」な女ではないのだが…。
優は三人兄弟の末っ子で、上には姉が二人。そのせいか、下手な女子よりも女の子らしいところがある。身長も160後半と美郷より数センチ程度高いくらいであり、クラスの女子生徒たちには弟のように可愛がられている。もっとも、本人はそれをあまり快くは思っていないようなのだが。
「ほれ、なんか声かけてあげなさいよ。」
千夏はしつこく美郷を肘で突きながらからかってくるが、4番バッターの嶋田満範に彼女が密かに思いを寄せている事を美郷は知っている。
「はいはい、うるせえな。もうすぐ満範も出てくるって。」
千夏の顔が途端に真っ赤になるのが分かり、美郷は舌を出して勝ち誇った笑顔を見せた。理花と優は飲み物を買いに席を立った。極度の方向音痴である理花を心配し、優が同行したのである。
両校の校歌が流れ、選手たちがフィールドに散らばっていく。プレイボールだ。先攻は聡國高校。県内でも有名な打者を揃えて檜山のエース、海野宗治朗の投球を待ち構える。
一番打者が打席に入り、宗治朗とにらみ合う。浩輝のサインに宗治朗は一度首を振ったが、二度目に大きく頷くと、長身をしならせて振りかぶった。ワンストライク。球速は139キロを記録した。浩輝と宗治朗は少年野球時代からバッテリーを組んでいて、二人の息はぴったりだ。宗治朗は自慢の変化球で残る打者も順調に打ち取り、試合は1回の裏、檜山高校の攻撃に移った。美郷たちの応援にも熱が入る。檜山の一番は2年生の岸悠太。一年生でレギュラーに定着した悠太は速力を活かした走塁を大きな武器として、檜山の盗塁王と敵チームに恐れられている。投手の放った弾はストライクゾーンをわずかに外れ、ボール。その後もう一つボールを与えたが、2つのストライクを奪い、悠太を追いつめる。悠太は呼吸を整えると、投手を再びしっかりと見据えた。相手投手は受けて立つとばかりにキャップを直し大きく振りかぶると、渾身の力でボールを放った。悠太の手前でボールはコースを変え、キャッチャーミットの中にしっかりと収まっていた。
「くっそー、いいボール投げるな、あいつ。」
思わず天を仰いだ美郷が溜息まじりに言う。
「岸くん、どんまいどんまい!」
理花がメガホンを手にして叫んだ。優も両手を力いっぱい握りしめて悔しがっている。続く2番の渡辺も三振に倒れた。次は浩輝の打席である。美郷は固唾を呑んでバッターボックスに向かう彼の背中を見つめた。
浩輝はゆっくりと首を回し、二回ほど素振りをしてから相手投手をきっと睨みつけた。檜山の応援席から女子生徒たちの黄色い歓声があがる。相手の放った球はわずかに変化し、ストライクゾーンギリギリのところをめがけて飛んだ。次の瞬間、バットを振り下ろす浩輝。彼は確かにボールを捕えた。
「打った!」
三塁の方を低い弾道で飛んでいくボール。抜ければ長打だ。
しかし相手の三塁手がそうはさせじと夢中でボールに食らいつく。ボールはすっぽりと彼のグローブに収まり、即座に一塁へと送られた。
ああっ、という観客のどよめきのすぐ後に、スリーアウト、チェンジのかけ声が球場に響いた。結果はサードゴロ。悔し紛れに笑う浩輝の姿を見ながら、美郷は頭を抱えた。一回は両チームとも得点はなく、投手戦となった県大会準決勝は4回まで両チーム無得点という接戦の様相を呈し始めていた。3回の裏には満範が4番打者の意地を見せライト方向へ大きな当たりを放ったが、相手外野手の好プレーに阻まれ凡打に終わった。試合が動いたのは6回の表だった。聡國の1番、宇都木が宗治朗のスライダーを捕え、二塁打を放ってチャンスを広げる。続く2番は三振に打ち取られたが、3番の杉内のヒットで2アウト一塁三塁のチャンスを迎えた。迎える4番は強打者の森光である。彼は今大会ここまでの6試合で7本塁打を打っており、波に乗っている。浩輝と宗治朗は相談して、このスラッガーに真っ向から勝負を挑むことにした。一投目は高めのストレート。際どいコースだったが森光が見送り、ワンストライク。球場は大いに沸いた。
「あと二つ、しっかり決めてくれよ。」
優が祈るように呟く。美郷たちも同じ心境だった。大きく息を吐いて、二球目。
わずかにコースが甘くなった。森光はそれを見逃さず打ち返し、ボールはライト方向へ抜けていった。聡國が一点を先制し、スタンドは色めきたった。
続く走者はしっかりとアウトに抑え、檜山は反撃の糸口を探りながら攻撃側に回る。きっかけをつかんだのは6番の関拓博のヒットだった。続く7番の寺前が確実なバントで関を二塁に送ると、8番の神部敏之が詰まりながらも打球をレフト前に運び、ノーアウト一、三塁のチャンス。最終打者の片桐圭介は三振に終わったが、1番岸がスーパー二年生の本領を発揮し、1-1の同点に追いついた。悲痛な叫びに覆われる聡國スタンドとは対照的に檜山のスタンドはまるで甲子園でも勝ち取ったかのような大歓声に包まれた。美郷は座席の上に立ち上がり、千夏は身を乗り出し、優は両手でガッツポーズを作り、理花は両手を胸の前で合わせて喜んだ。スポーツには、観客と選手が一体になる瞬間というものが存在する。例えば得点したとき。例えば勝利を手にした時、あるいは苦い敗北を味わった時。球場の熱気がさらに強まった。
さらにチャンスは続いた。三塁に神部、二塁に岸を置いて、2番の渡辺がレフト線に大きな当たり。結果はフライだったが、その間に三塁の神部がホームベースを陥れ、檜山が逆転に成功。続いて3番の浩輝。昔から変わらぬ構え、ピッチャーを見据える眼差し、そして不敵に笑みを浮かべる余裕。投手が振りかぶり、投げたボールは直球だった。しっかりとバットの中心でとらえた浩輝の打球はセンター前ヒットとなり、3-1と檜山がリードを広げた。4番の満範はショートゴロに打ち取られ檜山は攻撃を終了したが、選手たちはハイタッチを交わして喜んでいた。8回に守備のミスから一点を返されたとはいえ、3-2と依然リードする状況で、監督は宗治朗の続投を決定した。宗治朗本人は疲れてこそいたのだろうが、浩輝の声に励まされ笑顔で頷き、汗を拭った。
試合は最終9回表、私立聡國高校の攻撃。ここを押さえれば、檜山高校史上初の甲子園出場が見えてくる。最初の打者はしっかりと三振に仕留めた。ところが、ここから宗治朗の投球が崩れ始めたのである。一人、二人とヒットを許し、対するは3番の杉内。宗治朗は体勢を立て直すべくストライクゾーンの左隅を狙ってスライダーを投げた。杉内も負けじとバットを振る。観客席が静まり返る。美郷が次に目を開けた時、ボールはスタンドに飛び込んでいた。
「す、スリーラン…。」
優の声に、思わず理花が顔を両手で覆った。
再逆転のスリーランホームラン。杉内はしっかりとした足取りで塁を回り、ホームベースを踏んだところでベンチにいた選手たちが一斉に彼の元へ駆け寄った。
浩輝をはじめ数人の選手が宗治朗のもとへと走って行き、声をかけている。
「大丈夫だ。後の奴らは絶対に打たせない。」
浩輝の力強い励ましは、スタンドにいる美郷たちにもしっかりと伝わった。
4番の森光は自分もつづくぞと意気込んで全力のバッティングを見せたが、セカンドの片桐のスーパープレーで抑え込んだ。5番の猪口は宗治朗が三振に抑え、いよいよ9回の裏、檜山高校最後のチャンスである。最終回の打順は2番の渡辺から始まった。しかし力んでしまい、相手のエースの球を打つ事が出来ない。三振に倒れた渡辺に代わってバッターボックスに入る浩輝。投手を見つめる眼差しは今までで最も鋭く、聡國のエース横川が一瞬 逡巡の表情を浮かべるほどであった。いつものように素振りをし、浩輝がバットを構える。横川が大きく頷き、振りかぶる。美郷は、思わず座席から腰を上げた。
「美郷、残念だったね、竹下くん。」
理花が帰りの車で窓の外を眺めたまま何も言わない美郷を気遣い、声をかけた。美郷は理花の顔をちらりとうかがってから、シートに深くもたれかかって答えた。
「ああ、悔しいな。」
「あともう少しだったのに。」
優も千夏もがっくりと肩を落とした。浩輝の父はルームミラーで美郷たちの様子をうかがい、静かに言った。
「みんなよく頑張ったさ。ただ、聡國は本当に強かった。きっと甲子園に行くだろうぜ。」
彼の言葉を聞いて、美郷の目には試合終了直後の野球部の面々の姿が浮かんでいた。
浩輝、満範とも凡打に打ち取られ、試合は3-4のまま聡國が決勝進出を決めた。力なくその場に崩れ落ち、立ち上がれない宗治朗。思わずユニフォームに顔を埋める他の選手たち。バットを黙って見つめていた満範。浩輝は、そんな選手一人一人の肩を叩き、何かを伝え、仲間と共に静かにフィールドを後にしていった。そんな姿を見ながら、美郷たちの胸にも熱いものが込み上げてきた。彼らの夏は、5月のうちに終わってしまったのだ。そして、浩輝の野球人生も。そう思うと、無性にやるせない気分になった。
家に帰ると、美郷の両親、弟の宏樹、そして祖父母も心なしか沈んでいるように見えた。
「浩ちゃん、よく頑張ってたね。」
母の言葉に美郷はああ、とだけ答えると自分の部屋に入った。その日は、浩輝にメールを送る事はなかった。落ち込んだ時言葉をかけられるよりも、放っておいてもらう事が浩輝にとって心地いいという事は美郷が一番よく知っている。
翌朝、浩輝が美郷の家にやって来た。昨日あれだけの激闘を演じた選手とは思えないほど、いつも通りの彼だった。やや、目が腫れているようには見えたが。
「ってなわけで…」
美郷が招き入れると、浩輝は真っ黒に日焼けした顔を歪ませて、白い歯を見せた。
「負けましたーっ。」
普段通りの茶化した調子に美郷は少し安心したが、美郷はいつになく彼を気遣う様子を見せて部屋まで案内した。部屋に入ると浩輝は辺りを見回し、目を閉じて大きな溜息をひとつ漏らすと、両手を握りしめて声を上げた。
「くやしーい!」
目に涙を浮かべている彼を見て、美郷はやれやれ、というふうにかぶりを振って肩をすくめた。
「せっかくチャンスだったのになあ。美郷にいいとこ見せられなかった。」
彼は壁に寄り掛かって少し遠い目をした。言葉ではこんなことを言っているが、やりきった、という充実感はその表情の端々から見てとる事が出来る。燃え尽きたんだろうなあ、と美郷は思った。昨日の試合を思い返しながら美郷はベッドに大の字に寝転がった。あれは間違いなく今までの中で一番いい試合だった、そうも思った。
「終わったんだな。」
浩輝が独り言のように呟く。
「あーあ、これからは勉強漬けの毎日かあ。」
声に出してみると、何ともいえない寂しさが浩輝の心を覆い隠した。高校で3年間を共に闘ってきたチームメイトたち。中には少年野球時代から共にプレーしてきた仲間もいる。そしていつも彼に忠実だった後輩たち。彼らのユニフォーム姿が頭の中でちらついた。
「浩輝。」
不意に美郷は浩輝の名を呼び、ベッドから立ち上がると、ゆっくりと彼に近づいた。
美郷は表情一つ変えず、両腕でしっかりと浩輝を抱きしめると、耳元で囁いた。
「浩輝、頑張ったな。すげーカッコ良かった。」
彼もしっかりと美郷を抱き返す。彼女の言葉で、浩輝は自分の3年間が全て報われたような気がした。甲子園を夢見て練習に明け暮れた日々は、彼女からこの言葉を聞くためにあったのかもしれない。そう彼は思った。
「久々に、やるか。キャッチボール。」
美郷はそう言って笑った。その笑顔を、浩輝はいつまでも見ていたいと思った。
「うん、やろう。でも、その前に…」
浩輝は美郷を見つめ、ニッと笑って言った。
「今の、もう一回言ってくんない。」
「馬鹿、調子に乗るんじゃねえ。」
左手にグローブをはめ、玄関の扉を開ける。ふっと春の陽気が二人を包み込んだ。
「今まで忙しくて気にもしなかったけど…」
もう、春なんだな、美郷の言葉に、浩輝は無言で大きく頷いた。南から吹いてくる穏やかで暖かい風が、春の匂いをこの町に運んで来たようだ。
二人は幼いころからよくキャッチボールをした公園へ、自転車を走らせた。
檜山高校野球部紹介
1番・サード:岸悠太 俊足を活かした走塁が武器。 レギュラー中唯一の二年生。
2番・センター:渡辺知章 右でも左でも打てるスイッチヒッター。得意科目は化学。
3番・キャッチャー:竹下浩輝 頼れるキャプテン。
4番・ファースト:嶋田満範 チーム一の打撃力を持つ檜山の大砲。 虫が大の苦手。
5番・ピッチャー:海野宗治朗 攻撃も出来るチームのエース。浩輝とは少年野球から一緒。
6番・レフト:関拓博 バントの正確さはチーム内随一。 本場アメリカからの帰国子女。
7番・ライト:寺前一 お調子者でチームのムードメーカー。 異様に涙もろい。
8番・ショート:神部敏之 高校から野球を始めた。あだ名はガリ勉くん。
9番・セカンド:片桐圭介 父親が元プロ野球選手。 古文・漢文が得意。
監督:福山健 高校時代強打者として知られ、甲子園にも出場経験がある。