第一話 夏のはじまり③
気分は最悪だった。
さっさと家に帰ってストレスを吐き出してしまいたい。由貴は日常以上に溜まってしまった鬱憤に息をつく。
しかし帰宅する前に、立ち寄らなければならない場所があった。
図書室での謎の命の危機が引っかかっている。もう一度図書室を確認せなばならない。というのは建前で、美人さんの顔をもう一度拝んで目の保養をしてから帰ろうと思ったのである。
不純な動機で、由貴は本日二度目の図書室へとやってきた。
入る前に入り口の前で立ち止まって、天上を隅々まで確認。氷柱などない、蛍光灯の並ぶありふれた建物の天井だ。もちろん床に氷柱が突き刺さっていた痕跡もない。やはり、今日の昼の出来事は白昼夢だったのだろうか。
先ほどは全く利用者の姿が無かったのだが、今はちらほらと生徒の姿がある。
机にノートをひろげて勉強をしている生徒もいれば、本を読んでいる生徒、本棚の前に立ち資料を探している生徒など。昼寝している奴もいる。冷房が効いている室内は熱気溢れた外と違って過ごしやすいことから、図書室は意外に人気のスポットなのだろう。
由貴はおそるおそる、図書室内へと踏み込んでいく。
書物の香り。水を打ったように静寂に満ちた場。由貴は場違い感から自然に忍び足になっていた。
首をすくめながらカウンターの前を通ると、お目当ての人物は先ほどと同じようにそこに座っていた。
「こんにちは」
眼鏡の似合う清楚な美人さんが、にこりと微笑み、由貴へと声をかけてくれた。
「こんにちは!」
由貴は背筋を伸ばし、はつらつと挨拶を返すと、美人さんがくすり、と笑みを深めた。
「本を読む為に来ました!」
「それはとてもいいことですね。貸し出しもしているので、新規の図書カードを作るなら言ってくださいね」
「はい!」
なんてことない会話だったが、美人さんと話せただけで由貴の心は舞い上がった。楽園気分だった。頬が緩み、ニヤニヤ笑いが止まらない。
今日の事件など些細なことに思えてくる。軽い足取りになって、スキップ状態で本棚の前に立つ。
さて。
本の背表紙を眺めながら、由貴は首を捻った。
全く読書の習慣がない由貴にとって、本を読むことなど奇跡に等しい。第一に、一体何を読んでいいのやら全くわからない。整然と並んでいる本を前に由貴は唸るしかなかった。
「由貴」
唸っていると、横から声をかけられた。
その方向を見遣ると、陽太が立っていた。小脇に本を抱えている。
「さっき図書室の場所聞いてきたし、ここにいると思ったんだ」
「ああ。てか陽太、すげーいい場所教えてくれてアリガトウ! だよ。なんだよもーあんな綺麗な人がいるんだったらもっと早く教えてくれよな!」
由貴は感謝しているのかしていないのかわからないセリフを吐き、陽太が持っている本をさりげなく確認。小難しそうな小説だ。
そうか、こういうのを読むのがいいんだな。と、由貴は小説コーナーへと移動。後ろから陽太も着いてくる。
「さっきのことなんだけどさ」
陽太はなんてことのない口調で切り出してきた。
しかし由貴は嫌な思い出を掘り返されて、眉を顰める。
「周防さんて子と前から知り合いだったのか? それとも彼女が一目惚れしたのか?」
「昼休みに会った時は、俺と前から知り合いだったって口調だったけど。俺、全く覚えてないんだよな」
「へぇ。そうか」
由貴は本の背表紙に目を向け、適当な本を抜き取った。
ぱらぱらと捲ってみるが、あまりの字の多さに眩暈がした。却下。
本を本棚へと戻す。次、却下。次、却下。
「その作者だったらこっちのがおもしろいぞ」
謎の行動を繰り返す由貴を見かねてか、陽太は一冊の本を抜き取って差し出してきた。
「えええ無理無理。だって字ばっかりだもん」
「何しに来たんだよお前」
由貴は陽太の差し出す本をつき返そうとすると、陽太がにやりと意味深な笑みを浮かべた。
「雪音さん、そういえばこの作者の作品は好きだって言ってたな」
「え? 雪音さんって……もしかしてあのカウンターの美人さんのことか!?」
陽太は思わせぶりな態度で頷いた。
「雪音さんかぁ素敵な名前だな」
由貴はうっとりと夢見心地で呟く。
「彼女はこの春から図書室に就任した司書さんらしい。名前は雪音さん。大学を出たばっかりだって言っていたから、年齢は二十二歳だと思う」
「なんだなんだ陽太! 詳しいな! 彼女がいるくせに!」
由貴が声をひそめつつ詰め寄ると、陽太が少し慌てた様子になる。
「いや別に日常会話程度でわかる情報だし。個人的に興味があって知っているわけじゃないぞ。なんでそこで彼女が出てくるんだよ」
「ふーんへえええ。俺だって負けないぜ!」
由貴は言うと、陽太の手の中にあった分厚い本を奪い取った。
手にとってみるとずしりと重みを感じ、一瞬挫けそうになる。しかしこんなことで美人なお姉さんと仲良くなれるチャンスを捨てる俺ではない!
由貴は勇ましい足取りでカウンターへと歩いて行き、その本をカウンターの上へと置いた。
「これ借りるんでお願いします!」
体育会系のようなノリで本を差し出すと、雪音は最初眼鏡の奥の瞳を丸くしていたが、すぐに柔らかい表情になった。
「ああこの話、私も好きなんです。きっと気に入ると思うから頑張って読んでくださいね」
「はい! 頑張ります!」
「じゃあ図書カードを作るので、この紙に学年とクラスと出席番号、氏名を記入してください」
一枚の紙とボールペンを渡されて、由貴は紙にペンを走らせる。雪音に見せる紙なので丁寧に書かなければ、と一語一語ゆっくりと記入していく。
その様子を横から陽太がのぞきこんできた。
「ほんとお前は情熱的っていうか、そういう面は見習いたいよ」
褒められているのか馬鹿にされているのか。陽太の言葉を、顔を上げずに聞く。
「でもさ、なんで周防さんは駄目なんだ? 可愛い子なのに」
由貴のペンがピタリと止まる。
うう、と唸り声が出た。
「人の傷口をひろげようとするな! 早く忘れてしまいたいのに!」
「告白されたなんて由貴にとっては素晴らしい出来事なんじゃないのか? まあ彼女を泣かせちゃったのはまずかったとは思うけどさ」
「告白? あれが告白と言えるのか? 惚れなさいって何? 超上から目線! ありえん! はやりのツンデレでも意識したんか? あーだめだめ。俺そーゆーのは受け付けてないの。告白するんだったらさ、もっとこう、素直に! 好きです由貴君! とか言ってこそだろ!?」
「おい由貴」
陽太が昂ぶっている由貴を止める為か、肩に手を置いてきた。
由貴はその手を振り払い、顔を上げずに続けた。一度不満を口にしてしまうと止まらなくなった。
「大体、泣くのとかも卑怯だろ! 俺一方的に悪者じゃんか! 無理! あー無理無理! 周防吹雪、絶対無理だね!」
そこまで言って、顔を上げた。
一気に捲くし立てたので、由貴の頬は紅潮している。
目の前にいる周防吹雪が、自分の昂ぶった感情から見える幻かと思った。幻であってほしかった。
陽太が顔に手をあてて「あちゃー」と呟いている。
「え? なに? ほんもの?」
と由貴が呟いた次の瞬間には。
――ぼぐぅっ
吹雪が目の端に涙を浮かべて、由貴を思い切り殴りつけてきた。
平手打ちなんて生やさしいものではなく、拳で右ストレート。
強烈な一撃が頬に見事に決まり、由貴はゆっくりあお向けに倒れていく。目の前に火花が散っている。
床に後頭部を打ちつけ、視界がぐにゃりと歪む。
「言っておきますけど! あれは告白なんかじゃないから! あなたみたいな最低な奴、好きなわけないじゃない! 最低! あー最低最低! 相沢由貴、最悪最低野郎!」
吹雪は吐き捨てて、走り去ってしまった。
殴られた頬をおさえ、凄まじい痛みに顔半分がもげたようだった。由貴は立ち上がれない。呆然と天井を見上げる。
陽太が「大丈夫か?」と見下ろしてきた。
「ごめんな、まさか周防さん本人が現れるとは思わなかった。気付いた時には由貴もう止められなかったし」
「……気にするな。言っちゃったの、俺だし」
しかししばらく立ち上がれそうにない。滅茶苦茶痛い。正直泣きそうだった。
おそらく吹雪のことをとてつもなく傷つけてしまったのだろうが、それにしたってグーで殴るとは。
陽太に並んで、雪音が由貴をひょいとのぞきこんできた。
はっと正気に返って、由貴は上半身を起こす。
雪音は本を差し出し、
「貸し出し期限は一週間です。読んだら返しに来てくださいね」
何事もなかったかのように言った。
先ほどの悶着の間も、貸し出しの事務処理をしていたらしい。
「あ、はい」
由貴が本を受け取ると、雪音は眼鏡の縁を触ってかけ直してから、カウンターの向こうへと戻っていく。
「また遊びに来てくださいね」
にっこりと微笑む雪音につられ、由貴もにへらと笑う。
「また来ます!」
立ち上がれないと思っていたのはどこへやら、由貴はしゃきっと立ち、言い放つ。
図書室を出る際、雪音に大きく手を振ってアピールしておいた。
陽太も一緒に別館の外へと出てきた。
「立ち直り早いな。顔がえらいことになってるわりに」
陽太に言われて、由貴はため息をついた。
「ぜんぜん立ち直ってないっつーの。今日は完全に厄日だった……頬痛いよチクショウ。でも雪音さんと少し親しくなれたことだけが心のオアシスだな! 俺読むよ雪音さんの為に! この分厚い本を読破してみせるぜ! これって愛の力だよな!」
「……立ち直ってるだろ、完全に」
呆れた様子で言う陽太に手を振って、由貴は帰宅する為に坂道を降りていく。
心の端にひっかかっているのは――本日衝撃的な出会いをした転校生、周防吹雪のことだった。
『わたしの純潔を奪ったあなたを、許さないから』
『わたしのこと、好きになって』
『あなたみたいな最低な奴、好きなわけないじゃない! 最低! あー最低最低! 相沢由貴、最悪最低野郎!』
由貴はむっと頬を膨らませた。更にズキズキと頬が痛み、そのことで余計に苛立ちが募る。
吹雪の意味不明すぎる身勝手な言葉、行動。どうしようもなく腹が立った。
最悪な関係になってしまったが、もう知ったことかと諦める。
家に帰ってから窓を開け放っての絶叫の言葉は、もちろん、もう決まっている。
***
「俺は、周防吹雪以外の、全ての女の子が大好きだぁあ!!」
――母親に、思い切り後頭部を殴られた。