第一話 夏のはじまり②
生まれ変わる予定だった由貴は、全く変化がないまま教室に戻ってきて、自分の席へと腰かけていた。
開け放たれた窓からは湿気を帯びた生温い風が入ってくる。まだ初夏だというのに、今年は暑くなりそうだ。
机に頬杖をつき、先ほどの非現実な出来事を思い返してみる。
謎の少女、周防吹雪との出会い、言葉は謎だらけだった。それに図書室での突然の命の危機。しかし由貴は深く考えるのが苦手であった。きっと白昼夢でも見てしまったのだ。周防吹雪との邂逅はなかったことにしよう、うん。簡単に結論はついた。
しかし手紙には悔いが残る。念願の彼女ができる筈だったのに。
由貴は吹雪が呼び出した理由が愛の告白だったらと想定してみた。
『あなたのことが好きなの!』
なんて、小さな女の子が自分に向き合って言ってきたとしたら。
舞い上がった気持ちのまま、受け入れたのだろうか。
由貴は吹雪を初めて見た時、全く胸がときめかなかった。同じ年頃の、しかも可愛い女の子だったというのに。……もしかして俺、おかしくなっちゃったのかな。
心配になりつつ、先ほど同じく初対面だった図書室の美人さんには思い切り胸をときめかしていたことを思い出す。
「ふへへ」
顔がニヤけてしまった。右隣の女子が、可哀相な人を見る目を向けてきた。
吹雪は多分好みじゃなかったのだろう。ということにしておいた。
女の子だったらなんでもいいやって思っていた俺にも好みがあったんだあ、なんてしみじみしていた時。
授業開始の鐘が鳴った。
スライド式のドアがガラリと開いて、担任のさえない老人教師が入ってきた。担任教師が図書室の美人さんみたいな人だったら、きっと毎日学校が楽しくなるだろうに、なんてよろよろした足取りで入ってくる老教師を見ながら思う。
「……あれ?」
ざわり、と教室内が騒がしくなった。今からの授業は担任の担当教科ではないのだ。
そして担任に続いて――星乃城学園ではない制服の、セーラー服姿の女の子が入ってきた。
更に教室内がざわめく。
由貴はその女の子を目にして、驚愕の表情を浮かべた。思わず立ち上がった。
「あ、ああぁああ!」
声の主は、女の子を目にした途端の由貴からだった。驚いていた。
椅子から立ちあがって、女の子を指さし、顔いっぱいに素直すぎるビックリをあらしている。
対する女の子は、由貴を一瞥しただけで、ふんっと思い切りそっぽを向いてしまう。
「相沢。何を立っとる。座れ」
担任の老教師に注意されても、由貴はその言葉が耳に届かない程に驚いていた。
左隣の席である春香が、由貴の袖を引っ張ってくる。由貴が気付いて着席すると、春香が顔を近づけてきて、こそりと耳打ちしてきた。
「ゆきたん一目惚れでもしちゃったの?」
ぶんぶんっと首を千切れんばかりに横に振った。それはありえない。
「えー、彼女は今この学園に来たばかりだが、すぐにクラスに馴染みたいとのことなので転校生として今から紹介するぞ。この時間の担当の教師に少し時間を借りたからな」
老教師がぷるぷる震える手で、黒板に板書をはじめた。
「両親の転勤で海外から日本に帰ってきたそうだ。ずっと海外生活でわからないことが多々あると思うから、みんな親切にするように」
チョークでゆっくりと書かれたのは、
――周、防、吹、雪という四文字。
そして女の子が堂々とした態度と毅然とした表情で、一歩前へと出る。
「周防吹雪です、よろしくお願いします」
簡単な挨拶と一礼に教室内から歓迎の拍手が起こった。
周防吹雪。先ほど由貴に純潔を返せと迫ってきた女の子だった。
彼女はきびきびと教室内を歩き、廊下側の一番前の席に座った。その席は確か今日欠席している山田君の席だ。と誰しも思ったが、突っ込める空気ではなかった。吹雪の表情は、どこまでも固く、真剣そのものなのだ。歓迎の拍手にも、眉一つすら反応を示さなかった。
そして先ほどのことがまるでなかったかのように、教室の真ん中に位置する由貴の席の方を見向きしない。というか思い切りそっぽを向かれた。最悪に嫌われているのだろうか、やはり。
すぐに担任の老教師は去って、本来の授業が開始となった。しかし日常とは違う空気に、生徒たちは心なしかそわそわと落ち着きなく過ごした。
その原因を作っている転校生、周防吹雪はクラスメイトたちと同じように授業を受けている。教科書もノートもない様子だが。教師を見る眼差しは、やはり突き刺すような真っ直ぐだ。教師があまりの尖った視線に、たじろいでいる。
由貴は教科書を立てて顔を隠しながら、吹雪の姿を観察し続けた。
先ほどのボロボロの着物姿ではなくなっている。かといって、星乃城学園の指定ブレザーでもなくて。彼女はセーラー服を着ていた。しかもかっちり長い袖の冬服。汗一つかいていないが、暑くないんだろうか。先ほどの苦しげだった様子は微塵もなくなっている。
それにしても、海外から来た美少女転校生なんて、男どもの憧れの設定だろうに。他のクラスメイトたちは吹雪を気にしてはいるものの、その眼差しは熱を帯びたものでないようだった。ただ新しいものに対する興味で視線が集まっているように感じた。
やはり由貴と同じように、彼女に魅力を感じていないのかもしれない。
透けるように白くなめらかな肌と、黒く艶やかな長い髪。幼いけれど、とても綺麗に整った顔立ちだ。凛とした横顔は、ひたすらに教師を見つめ続けている。
首を捻るばかりだ。原因は雰囲気にあるような気がした。
『わたしに近寄らないで』
言葉に出さず、吹雪の放つ空気が語っていた。
そんなピリピリとした時間が過ぎていき、気付けば本日の全授業が終了していた。
転校生がいるという緊張した空気が、その頃には落ち着きを見せはじめていた。クラスメイトたちは帰り支度をはじめたり、部活準備に勤しんでいる。
休み時間には吹雪に声をかけようと、近付いて行く猛者もいた。殺気すら感じられる眼差しの前に負けて、一言も声をかけられないままにすごすごと退散していた。
「転校生に何を驚いていたんだ?」
帰り支度をする由貴の元へ、陽太が近付いて聞いてきた。
「ああ、ちょっとな。さっき会ったんだよ」
吹雪の話題が出たので、由貴の視線が自然に吹雪へと移った。彼女は先ほど着席した状態から全く変わらない様子でむっつりとしている。
やはり刺々しい空気が彼女から発せられているように感じる。
「なんであんなに怒ってるんだろ」
由貴がぽつりと呟くと、陽太がニヤリと顔をのぞきこんで来た。
「さっきの驚き方といい、授業中もずっと転校生のこと気にしていたよな。恋の予感でもするのか?」
「ううん。その予感が全くしない自分に疑問を抱いていたりする」
由貴がきっぱりと言うと、陽太が呆れた表情を浮かべる。
恋の予感は全くしない。……けど。
由貴は椅子を引き、立ち上がる。
「ちょっと……やっぱり大分気になるから行ってくる」
宣言し、由貴は着席したままの吹雪の方へと歩いて行った。
唐突な由貴の行動に、教室内に残っていた生徒たちの注目が集まった。一体神秘的な転校生とどんな会話を繰り広げるのかと、耳をそば立てていた。
由貴は吹雪の席の前に立つ。吹雪が由貴を言葉もなく睨み上げてきた。
それだけで喉がごくりと鳴ったが、負けじと吹雪を見下ろす。
「あのさ。キミ、周防さんはさ、その、俺が純……例のモノを奪ったから返してほしいって言ったよな。それに図書室でのあの氷柱はなんなんだ? 一体どういうわけが――」
「その話は他の人に聞かれたくないの。今は話せない」
吹雪が由貴の言葉を遮り、ぷいっと視線を逸らした。既に挫けそうだ。
「さっきははちゃんと話せなかったしさ……事情を知りたいなって思って」
「人の話聞いてる!?」
吹雪が勢いよく立ち上がった。椅子がガタン、と大きな音を立てる。
「今は話せないって言ってるじゃないの!」
「そ、そんなに怒らなくっても」
後ずさる由貴に気付いたのか、吹雪は少し頬を染めて、大人しく座った。
「……ごめんなさい。わたし後先考えずに突っ走っちゃうところがあって……それでよくお姉ちゃんにも怒られるし」
吹雪が小さな声で由貴に言うでもなく、独り言を漏らしている。
「えーと、さ。……困ってるなら助けになろうか?」
言うと、吹雪が真っ直ぐに由貴を見つめてきて。
「本当に?」
その瞳に、輝きが帯びた。
「ま、まぁ周防さんの例のモノは決して奪ってないし、返せるもんでもないけど。でも助けくらいにはなれるかなーって思ってさ」
由貴は小声で吹雪へと告げる。
吹雪が俯いた。少しの間沈黙し、何か考えているようだった。
暫く黙り込んでいる吹雪の前で、由貴は居心地悪く待った。
「助けてくれるのね」
吹雪の、一点の曇りも見えない澄みきった瞳が向けられる。
なんだか凄まじい後悔が胸に去来したが、言ってしまったことを取り消すわけにもいかない。男に二言はないのだ。由貴は神妙な面持ちで頷いた。
「じゃあ、わたしのことを好きになって」
――頭の中が真っ白になった。
吹雪は冗談を言ったわけではないらしく、どこまでも真剣な表情だ。
「ええとですね……は? なんだって?」
「だから、わたしに惚れなさいって言ってるの」
照れ臭いのか、少し口をとがらせながら吹雪は言う。
「それは恋愛的な意味で、ですよね?」
「当たり前じゃないの」
助ける=惚れなさいの意味が全くわからない。由貴は固まる。
出会ってから吹雪の言動に固まり続けている。
しばらく沈黙して、考えた。
考えても考えても、吹雪の言葉の意味が分からない。
……けれど、吹雪に対して言える言葉は、一つしかなかった。
「ごめん、それは無理だ」
良くも悪くも、由貴は正直者だった。
初めて会った時から全く鼓動が高まらない相手に好きになれと言われて、感情をコントロールできるような器用な人間ではなかった。
由貴が言うと、吹雪が息を呑んだ。
――直後。唐突に。
ぼろり、と吹雪の大きな両の瞳から涙が零れ落ちた。
「え? え? うわっご、ごめんなさいごめんなさい!」
平謝りしまくる由貴だったが、吹雪の涙は止まるどころか次から次へと溢れ出てくる。
えぐっえぐっとしゃくりあげ、手の甲で一生懸命に涙を拭っている。その様は幼女のようで、ますます由貴は罪悪感に苛まれた。
クラスメイトたちの視線がちくちくと由貴の背中に刺さるのを感じた。
そんな重苦しい空気の中。
「ゆきたん」
ぽんぽん、と肩を叩かれ振り向くと、春香が複雑な表情を浮かべ、立っていた。
「あのね、こんな時なんだけど、ゆきたんにお客様」
春香が言い、指差した教室入り口へと由貴も目を移す。
「げっ」
生徒会長が、いるじゃないか。
「やあ相沢君」
何故一年の教室にいる。しかもこのタイミングで。
生徒会長、二年生の若槻八雲。うるわしきイケメン先輩の登場に、教室内の女子たちはきゃあきゃあ騒いでいる。泣き続ける吹雪と、そばに立つ春香以外は。
生徒会長が流麗な動きでつかつかと教室内に入ってくる。青ざめて震えるばかりの由貴の前に立った。
由貴が陸上部を一身上の都合で退部した後、八雲は何度か説得に赴いてきた。アンタが近付いてくるからやめたんだ変態! と声を大にして叫びたいところだ。
しかし八雲を前にすると、由貴はカリスマオーラに呑まれてしまい、何も言えなくなってしまう。
「まさかこんな場面に遭遇するとは思わなかったよ。君が女の子に告白されるなんてね。再入部の説得は今度にした方がよさそうだ」
「じゃ、じゃあ早く帰ってください」
用事なんてないだろう、と由貴は入り口へと指を向ける。
その指を八雲に掴まれた。指先に伝わる、手のやわらかな感触。ぞわわ、と全身が総毛立つ。
「信じていたよ相沢君」
「なななな何をですか」
「君は女の子に見向きなんてしないとね。僕のものだから」
妖しげな眼差しを由貴に向け、八雲はさらりと言い放った。
ぴしり、と教室全体の空気が凝固した。
「……! う、うわあぁあああぁああ!! 変態いぃいいいいぃ!!」
由貴は叫び、耐え切れずに教室から逃げ出した。