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第一話 夏のはじまり①

 信じられないことが起きた。

 常識の範囲内ではあるのだが、由貴にとっては天変地異に等しい出来事が。

 朝から初夏の熱気で汗ばみ、身体にぺっとりとシャツが纏わり付く。由貴はあまりいい気分じゃない状態で、星乃城学園に登校してきた。ただでさえ毎日いいことなんてありやしないのだ。死んだような眼のまま、玄関でいつものように履いてきたスニーカーを下駄箱にしまう。自分の名前の札がついている小さな扉を開ける。憂鬱な学園生活一日のはじまりの光景だ。

 入っているのはスリッパだけの筈、だった。

 けれど今日は違った。

 見慣れないものが入っていて、由貴は一瞬固まった。

 一瞬どころか、一分程固まっていた。

 正気を取り戻した頃に、遅れて激しい動悸に襲われる。

 これはなんだ……!?

 もしかしてもしかすると、世間一般ではよく聞く、けれど自分には全く縁がなかったものじゃなかろうか……!?

 由貴は下駄箱のスリッパの上に置かれた封筒に、恐る恐る、手を伸ばす。

 自分の手元まで引き寄せ、それを確認した。

 由貴の身体に電流が駆け抜けた。

 淡い水色の封筒。表面に可愛らしい文字で、


『女の子からのラブレター』


 と書かれている。

 凄まじく直接的だった。裏面を素早く確認。『相沢由貴様へ』と書いてある。


「ラッラッラぶ……」


「ゆきたん何言ってんの?」


 唐突に背後から声をかけられ、由貴はびくん! と肩を揺らす。

 慌てて学生服の胸ポケットの中に、その封筒を押し入れた。

 激しく高鳴った鼓動のままで振り返る。と、同じクラスの泉田(いずみだ)春香(はるか)が立っていた。

 出席番号が近いからか、彼女は何かと由貴に声をかけてくれる珍しい女子だ。はじめて会った頃から、彼女は何故か由貴を「ゆきたん」と呼んでくる。

 泉田春香は茶色がかった波打つ髪を、胸の上あたりまで伸ばしている。由貴をきょとんと見上げる、けだるそうな印象を受けるたれ目。何よりも由貴が彼女と遭遇する度に注目してしまうのは、標準を軽く上回るであろう胸。彼女の武器と言ってもよかった。入学当初から男どもの注目を集めている美少女だ。

 由貴は朝から春香に声をかけられると、いつもはラッキー! と心の中で踊ったりするのだが、今日は事情が違う。心臓がヒヤリ、とした。


「ラッラッラッて何? 歌?」


「歌というかですね、ええとら、ら、ランドセルが懐かしいなぁなんて!」


「ランドセルの歌かぁ。ところでゆきたん、夏休みってなんか予定ある?」


 ドキリ、としてしまう。いつもののんびりした口調なので深い意味はないだろうけど。ないだろうけど!

 由貴はぶんぶんと、強く首を振る。


「帰宅部だし! なんの予定もありませんぜ!」


 ニカリと歯を見せ、力強く言ってみた。

 春香がにっこりと微笑みを向けてくる。殺人的魅力を放つスマイルに、由貴はこれ以上ないくらいに鼓動を高鳴らせた。


「そっかぁ。もうすぐ夏休みだし、楽しみだねぇ」


 そう言って。春香は由貴に手を振って、去っていく。


「え? そんだけ?」


 何かフラグでも立ったのか、と期待に胸を躍らせていたというのに。春香はあっさりと姿を消す。

 ……しばらく、立ち尽くす。

 そして正気に返った。胸ポケットに慌てて仕舞った手紙の存在を思い出したのだ。


「俺にはまだこのフラグが残っているのさあぁあああ!!」


 絶叫し、由貴はものすごい勢いで階段を駆け上った。

 自分の学年、三階にあるトイレの中へと突撃。傍から見ればものすごく我慢していた人間のように見えただろう。

 トイレの個室の中へと入り、後ろ手にしっかりと鍵を閉めた。

 便座の蓋を閉め、その上に座ってようやく一息つく。玄関からトイレの個室に至るまで、ほぼ呼吸をしていなかった。

 ポケットの中から、隠していた封筒を取り出す。


『相沢由貴様へ』


 間違いなく、自分の名前。


「これは間違うことなき女の子からのラブレター! おおお! なんと、なんと神々しい!!」


 由貴の目に映るその封筒は輝いていた。後光が差していた。眩しくて目を細める。感動でちょっと瞳が潤んだ。

 ぷるぷると震える手で、糊付けされた封筒を丁寧に剥がしていく。一生こんな素晴らしい代物にはお目にかかれないかもしれない。家宝として末代まで保存しなければならないので、びりびりと破ることなど言語道断なのだ。

 封筒の中から一枚の便箋が出てきた。

 雪の結晶が描かれた、いかにも女の子らしい便箋。由貴は鼻息を荒くする。


「なになに」


 相沢由貴様へ。

 話がある。

 今日のお昼休みに図書室に来い。

 周防(すおう)吹雪(ふぶき)より。


 由貴は可愛げのない文章に若干拍子抜けしたものの、直後更なる高揚感に襲われた。


「お話ってもしかしてもしかしなくてもあれですか!?」


 完全に危ない人になりながら、由貴は小さな声で呟き続ける。


「おおお俺的には全然オッケーですぜ。会ったことはないけど俺、もう君に恋しちゃってるし。ストライクゾーン広いから! どんな容姿だろうとどんな年齢だろうと妖怪だろうと幽霊だろうとロボットだろうと美少女戦士だろうと何でもこい! 男じゃなければなんでもいい!」


 言ってから、はっとする。

 正直、男には何度もラブレターを受け取った経験がある。

 もう一度封筒と便箋を確かめる。裏返してみたり、封筒の中をもう一度探ってみる。今回の手紙からは女の子臭しかしない。実際『女の子からのラブレター』と書いてあるじゃないか。由貴は女の子を嗅ぎわける能力だけは、超越していた。


「待っててね、周防吹雪ちゃん」


 瞳をきらきらと輝かせ、由貴は言い放った。



***



 その日の由貴は、うわの空で授業をやり過ごした。

 制服の内ポケットに入れた手紙を何度も服の上から確認しては、口元を緩ませる。

 普段からクラスメイトに敬遠されがちだったが、いつにも増して異様な空気を放つ由貴「ふへへへへ」――完全に距離をあけられていた。由貴自身は周囲の白い眼差しに気付くことなく、この上なく幸せそうだ。

 午前中の授業を終え、待ち望んだ昼休みに突入した。

 生徒たちは散り散りになり、学食に食べに行ったり、購買へパンを買いに行ったり、持参してきたお弁当を出してその場で広げるなど様々だ。

 由貴はソワソワと立ち上がる。

 その時になって佐々(ささき)(よう)()が椅子を引っ張ってきて、由貴の前に座った。

 佐々木陽太は星乃城学園に入学してから出来た、由貴の数少ない友人である。

 由貴は今までの経験から、男に対して異常な警戒心を働かせる。自分からは絶対近寄らない。しかし陽太からは、全く怪しい雰囲気を嗅ぎ取ることはなかった。誰に対しても分け隔たりなく接する人物なので、安心して友人になることができた。

 陽太は顔立ちから知的なイメージを感じさせる、クールな男子だ。委員長タイプなしっかりものの性格が受けているのか、意外に女子からもてている。由貴にとっては羨ましい限りの人物だ。しかしそのことを鼻にかけている風ではない。きちんと彼女がいることを広言しているし、その彼女一筋なのだと聞いている。たまに死ねばいいのにとか思わないでもない。


「なんだ由貴、飯食べないのか?」


 陽太とは自然と毎日昼食を共にする間柄となっている。


「俺は今日、運命が変わる特別な用事があるんだ! よって飯を食べている場合ではない!」


「ふーん」


 陽太は由貴のテンションを完全にスルーして、持ち寄ってきた弁当を由貴の机の上に置いてきた。かわいいうさぎさんの絵がついた弁当巾着。彼女に毎朝渡されているのだとか。毎日毎日彼女の手作り弁当……死ねばいいのに死ねばい「今日から俺はこんな腐った思考とはおさらばだぜ」

 由貴は陽太に向け、爽やかに言い放った。


「見てろよ、陽太!」


 ビシリと人差し指を向けた。


「そうかそうか」


 陽太は顔も上げず、弁当を食べている。軽く受け流され、由貴は鼻息を荒くした。


「もう相沢由貴は男好きなんて言わせない!」


「てか俺はそんな風に言ったことないし」


「それもそうだな」


 由貴はあっさりと頷く。こんなところで陽太と遊んでいる場合ではないのだ。目指すは図書室……


「うわあぁああ!」


 由貴は驚愕の表情を浮かべ、唐突に叫び声をあげた。


「お前、絶叫癖をやめろと何度言えば」


 近くで絶叫の洗礼を浴びた陽太が、険しい表情を作って見上げてくる。


「俺、図書室の場所を知らないじゃないか!」


 陽太の苦言も耳に届かない。由貴は凄まじく深刻な表情で、言い放った。


「図書室? なんで突然図書室?」


 事情を知らない陽太は首を傾げているが、由貴はそれどころではない。夢中で陽太の両肩をがばっと掴んだ。

 一部の女子から「きゃー!」と黄色い声があがる。由貴の動向をいつも観察している腐女子グループたちだ。その黄色い声を聞く度、由貴の心には黒雲がたちこめ、暗鬱とするのだが、今は気にしている余裕はない。


「陽太! 図書室の場所を教えてくれ! 頼む!」


「……ま、お前にとって重要なことなんだな。事情は知らんけど」


 陽太は立ち上がって自分の机まで行き、ノートとペンケースを持って戻ってきた。

 再び椅子に座ってノートの端に地図を書いてくれる。


「本館の校舎がここだろ。少し歩くと丘がある。坂道を登った先に別館があるんだ。小さい建物だからすぐ分かる。その二階部分が図書室になってる」


「へええ。別館なんて知らなかった。入学したばっかなのに詳しいな」


「本くらい読めよ」


 陽太からの突っ込みを受けて、由貴は思い出した。そういえば陽太は時間が余っていると、よく本を読んでいる。なるほど図書室を利用していたのか。小さい頃から全く本を読んでこなかった由貴にとっては、未知の領域である。


「とにかく助かった! じゃあな陽太!」


 今から俺は大人の階段を駆け上ってくるぜ! と陽太に向けて瞳を輝かせ、親指を突き出して格好良く笑顔を見せてから。

 全速力で図書室へと向かって、走り出した。

 陽太に教えられた通り、校舎を出て別館を探す。

 星乃城学園の敷地はとてつもなく広い。由貴は未開であった丘の上へと踏み込んでいく。緩やかな坂道を登って行くと、別館らしき建物を発見した。

 建物の周囲は鬱蒼と木々が並び、森のように茂っている。別館だけがこの学園内で異世界のような雰囲気を放っている。

 入りづらいな……由貴はたじろいだ。

 人気も全くない。昼休みには開放されていないのだろうか。

 由貴はしかし気合を入れなおし、別館の中へと入っていった。開いていたのでほっと息を吐く。

 踏み込んでいくと、一階は幾つかの部屋に分かれていた。備品室、茶室などの札が下がっていることから本館に入りきらなかった予備の部屋のようなものだろう。そしてらせん状になった階段を上がっていく。二階部分が全て図書室になっていた。

 カウンターに人が座っていることに気付いた。それにしても広い。本棚にはたくさんの本が並んでいる。紙の匂いが充満する独特な空間。由貴には全く興味のない分野だったので、ますます落ち着かない。

 由貴がカウンターの前をおずおず通ると、座って本を読んでいた女性が顔を上げたのが視界の端に映った。


「こんにちは」


 挨拶をしてきた人物に、由貴は愛想笑いを浮かべつつ顔を向け――「わぁっ」と間抜けな声で返してしまった。

 眼鏡をかけた若い女性だった。肩のあたりまでのばした艶のある黒髪を、耳の横で一つに束ねている。一つ一つのパーツは目立つものではないが、全体で見るとバランスが完璧に整った顔立ちだ。とてつもなく美しい。由貴は見惚れてしまう。

 学園内にこんな美人さんが隠れていたとは。陽太め。と陽太に恨み節を吐きながら、更に中へと入っていく。

 図書室の中は、その美人さん以外には誰も見当たらなかった。

 本棚の陰になっている場所まで回りこんでみたが、待ち人はいない。

 もしや、あの美人さんが俺に手紙を……?

 遠くから美人さんを盗み見ながら、期待に胸を躍らせていた時。

 ――すとん、と。

 由貴の眼前に、何かが落下して、床へと突き刺さった。


「……え?」


 それは、由貴の身長の半分はあるだろう、巨大な氷柱(つらら)

 図書室に存在しうるはずがないものを目にし、由貴は硬直する。頭の中が真っ白になる。

 更に、すとん、すとん。

 由貴のすぐ右横。氷柱が床に突き刺さった。普通に目にする氷柱よりも巨大で鋭利なソレ。刺さったら……死ぬ?

 ぞぞぉっと背中に悪寒が走り抜けた。

 由貴は嫌な予感に冷や汗を額に浮かべ、恐る恐る天井を見上げ、


「う、嘘だろおおおおっ!?」


 天井一面に、氷柱が張り巡らされていた。

 完全にパニック状態に陥る。動くことすらままならず。

 氷柱が降ってくる。由貴の眼前へと迫る。

 唐突に死を見た。由貴の脳内に走馬灯のように駆け巡るのは、男に襲われた黒歴史の数々ばかり……


「そんな走馬灯嫌ぁああああ!!」


 ただ絶叫し、由貴はぎゅっと目を瞑った。

 衝撃は上からではなく、横からやってきた。

 ――何かが勢いよく、ドカッとぶつかってきた。


「ぐわっ!?」


 由貴は図書室の床にべちゃりと転がる。

 事態が把握できないまま、腕を強引に掴まれ、引っ張られた。


「こっちへ!」


 女の子の声。ようやく目を開ける。

 小柄な女の子の背中が見えた。腰まである長いストレートの黒髪が、揺れていた。由貴は腕を掴まれ、凄まじい勢いで引っ張られている。足をもつれさせながら連れられて、氷柱の降り注ぐ図書室を走り抜けた。

 らせん階段を転がるように降りていく。一気に別館を脱出した。


「はぁ、はぁ、はぁ……!」


 少しの距離を走っただけなのだが、息が切れ切れになっている。

 心臓が激しく脈打ち、口から飛び出しそうだ。由貴は女の子から手を離されて、膝を折り曲げ荒い息を吐き出す。

 あまりの出来事に、混乱が極まって言葉も出てこない。

 顔を上げ、助け出してくれたであろう女の子を確認しようとし――


「うわぁっ」


 女の子らしき塊にタックルをかまされ、由貴は地面に倒される。

 そのまま由貴の腹の上に馬乗りになった女の子が、由貴を程近くで見下ろしてきた。


「な、ななななぬ」


 女の子に押し倒された経験などない由貴には、冷静な状況把握など不可能で。地面に打ち付けた後頭部が痛むことと、蝉の鳴き声だけがその場で理解できることだった。

 きらめく大きな瞳が、由貴を見ている。じぃっと。真剣な眼差しで。


「相沢由貴!」


 名前を呼ばれた。口がカラカラに渇いている。返事も出来ない。


「わたしの……わたしの純潔を、今すぐ返して!」


 女の子が、叫んだ。それはもう切実に、必死な表情で。


「じゅ、純潔だあああっ!?」


 思わず由貴も叫び返してしまっていた。


「純潔って、純潔って! お、俺がいつキミを穢すようなマネを!?」


 ついさっき会ったばかりですよね。

 どうやら由貴のことを氷柱地獄から連れ出してくれた命の恩人らしい女の子を、由貴はようやくじっくりと観察した。

 小柄で華奢な体格。きっちりと揃えられた長く艶やかな黒髪。そして夏にそぐわない、真っ白な着物姿。時代錯誤を感じる。着物は何故か嵐を抜けてきたかのようにボロボロで、女の子自身も汚れ果てている。

 凛とした眉に大きい瞳、幼いながらに顔の造りは整っているけれど……由貴は思わず首を傾げた。

 その女の子を見ても、由貴の鼓動は全く高まらないのだ。

 ……なんというか、その子からは全く女の子の魅力というものが感じられなかった。

 女の子大好きを自負する由貴が、ここまで萌えない女子と会ったのは初めてかもしれない。

 そして、女の子は何故か苦しそうに表情を歪めていた。


「死にたくなかったら返しなさい! 早く! 今すぐ!」


 切迫した様子の女の子がぐいぐいと迫ってくる。

 この状況がとてつもなく純潔とかけ離れている気がするのだが、必死な女の子は気付いていないらしい。


「キミがもしかして周防吹雪なのか?」


 女の子ははぁはぁと苦しげながら、頷いてきた。色白の頬が真っ赤に染まっている。照れているのではなく、苦しそうであり、怒っている様子だ。


「じゃあ手紙にあった、話があるって……その、純潔云々ってこと?」


「覚えてないのね、わたしの純潔を奪ったこと」


 由貴を見つめる瞳に浮かんでいるのは、限りない怒りの感情。確信した。

 彼女は由貴を手紙で呼び出した張本人、周防吹雪であり。由貴を愛の告白で図書室に呼び出したのでは、決してないということ。

 図書室に来るまでの浮き足立った気分が、萎えていく。


「はぁ……」


 なんという空回り。由貴はため息を漏らした。

 しかし……問題は、周防吹雪がなんの為に由貴をここに呼び出したのだ、ということだ。名指しで呼び出されたということは、彼女は自分を知っている。覚えてないのね、と怒っているくらいなので、彼女に対して自分が何かをやらかしたのだろうが、全く身に覚えがない。純潔? 冗談じゃない。たとえ女の子が好きでも、罪を犯すようなマネだけは決してしてこなかったと胸を張って言える。

 もう一度上から下まで周防吹雪を観察してみたが、やはり全く見覚えのない女の子だった。


「……あのさ、もしかして人違いとかじゃない? 俺はキミの純潔なんて奪った覚えないし。しかも返せと言われて、返せるものなのか?」


 由貴は明らかに怒っている吹雪に対し、なるだけ穏便に語りかけてみた。


「人違いなわけない! 会った瞬間に分かった!」


「そう言われても」


「しらばっくれるのね」


 吹雪が強い瞳で由貴を睨みつけてくる。由貴はその強い眼差しにたじろぐばかりだ。

 襟ぐりを掴まれて、更に顔が近付いてくる。息がかかる程の至近距離。


「返して」


 吹雪が由貴に乗っかったまま、言い放つ。

 恥ずかしい体勢なのだが、周りが見えていないらしい吹雪はただ必死に由貴を見つめ、訴え続けてくる。

 吹雪の瞳を至近距離で見て、気付いた。目が潤んでいる。今にも泣きそうな程に。

 彼女にとってそれほどに深刻な事柄なのだろうか。


「うー……でも全く知らんし」


 唐突に、吹雪がへたり、と由貴の胸の上に倒れこんできた。荒い息で肩が上下している。


「お、おい、大丈夫なのか?」


 吹雪の様子はどう見ても普通ではない。由貴は密着した吹雪のぺったんこな胸にがっかりしつつも、周囲に視線を巡らす。


「誰かに助けを……」


「必要、ない」


 吹雪が切れ切れに紡ぎ、フラフラの状態で立ち上がった。


「あ、おい」


 ずるずると身体を引きずりながらその場を去ろうとしている吹雪に、由貴もさすがに心配になって背中に声をかける。

 吹雪が振り向いてきた。


「わたしは純潔を奪ったあなたを、許さないから」


 感情を込めて、言われた。由貴はそれ以上声をかけることも、追いかけることもできずに立ち尽くす。


「俺……完全に悪者扱い?」


 ぽつり、と呟いたと同時。

 昼休み終了の鐘が、学園内に鳴り響いた。由貴は現実に返り、校舎へと急いだ。

 校舎に向かう途中、赤い髪の毛が目立つ女の子とすれ違った。

 すれ違う瞬間、女の子が口を開いた。


「キミは悪者ですよ。死ねばいいのに」


 耳に届いた穏やかでないセリフに、由貴はぎょっとして女の子を振り返る。

 赤髪の女の子は、その場から消えうせていた。


「……なんか変な日だな」


 由貴は首を捻りながら、走るのを再開させる。

 強い日差しに目を細め、蝉の鳴く声が耳に届く。

 夏が、はじまった。





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