第三話 理想のカタチ③
稲葉時雨の日常は忙しい。
夏の高校生演劇コンクールに向けて最終調整中であり、夏休みに入ったことでますます部活動が一日の大半を占めるようになった。寝ても覚めても部活部活部活。演劇演劇演劇。
花火大会とか、三角関係とか、八雲ファンクラブに構っている場合ではない。
時雨は自分自身の頬を張って、気合を入れなおす。
「さてさて諸君! いよいよコンクールまで二週間となった。あとはもう芝居の完成度を高めるのみだ。頑張るぞ! 死ぬ気で演劇に臨め!」
体育館の舞台上で時雨は声を張る。館内に高らかに響く声。
部員たちは「はい!」と気持ちのよい返事で返してくれた。
その中には吹雪の姿もある。時雨のつけてやったヘアピンが可愛らしく髪の毛を飾っている。
真っ直ぐないい子だ、うん。時雨は吹雪を見て心を和ませる。
春香の姿もある。春香はあまり部活動自体には積極的ではないのだが、大会が近いということもあり手伝いやジュースの差し入れなどを持って毎日足を運んできてくれている。
かわいい後輩だ、うん。時雨は春香を見て……しかし、こっそりとため息を漏らす。
吹雪と春香。それに八雲まで。恋愛問題に口出しする気はないけれど、誰かが傷つくのを見たくはない。かといって、無視もできない性格で。
「今はこんなことで悩んでいる場合じゃないのだが……」
ぶつぶつ呟いていると、当人の春香が時雨の目の前にいた。
「時雨先輩、そんなとこに突っ立っていると練習始められませんよ」
「あ、ああ。すまんすまん」
気付けば役者たちが配置についている。時雨は慌てて舞台袖へと移動した。
春香も時雨の横に並び、立つ。
演劇経験の浅い吹雪はというと、音響の手伝いで反対側の舞台袖にいる。
春香の眼差しは舞台上ではなく、その吹雪へと向けられていた。時雨はその眼差しに気付いて、春香の肩に手をおく。
はっと春香は時雨を仰ぎ、気まずそうに眉を下げ、俯いた。
「時雨先輩、私、吹雪ちゃんを傷つけちゃったのかも」
先ほど、春香が吹雪にライバル宣言をした。そのことを今更に気にしてしまっているのだろう。春香らしい悩み方に、時雨は肩をすくめた。
「後悔だけはするなよ、春香」
「え?」
春香が顔を上げる。
時雨は舞台を見つめたまま、言葉を紡ぐ。
「自分の気持ちをまっすぐぶつけていけ。きっと吹雪もそんな春香と一緒にいることを望んでいるから」
「……すごいなぁ、時雨先輩は」
春香が溜め息交じりに言う。
「恋愛問題だって、簡単に解決しちゃいそうです」
苦笑が漏れた。時雨は春香の頭に手を置いて髪の毛をくしゃくしゃと撫でる。
「なにするんですか! セットしなおしたのにめちゃくちゃじゃないですかーもう」
「春香は可愛いな。アタシだって、けっこう悩んでるんだぞ」
「時雨先輩が? あ、そういえば時雨先輩ってお付き合いしてる人がいるんでしたっけ」
「……まぁね」
言葉が濁ってしまう。
「実は今日の花火大会も誘おうと思ってる」
「わあ。時雨先輩の彼氏さんも一緒に行くんですね! なんかワクワクしちゃうなぁ」
時雨はニヤリと応じつつ――後でその彼氏に連絡せねば、と自分の心の中のスケジュール帳に書き込む。
きっといい顔はしない。少し憂鬱な気分になる。
ちょっと前に花火大会に誘ってくれたのを、忙しいの一言で却下したのは時雨なのだから。
吹雪を連れて行くという使命感に燃えて、ついつい忘れていたのだ。一度断ったのに他の子と一緒に行くということを報告しないわけにもいくまい。
自分の問題も更に上乗せされてしまった。
腕を組んで舞台を見つめながら、これ以上はややこしい問題になりませんように、と切に願うのだった。
***
夕暮れ時の河川敷。空は雲に覆われて、空気は湿り気を帯びている。しかし雨が降らない限りは、花火大会は滞りなく行われるだろう。河川敷周辺は見学に来た人々で混雑していた。露店もいくつか出店しているので、ちょっとしたお祭りの賑わいになっていた。
そんな活気付いた場で。
部活を終えた時雨は浴衣を着付けてやった春香を連れて、その場にやってきた。吹雪は一度家に帰って姉に報告しなければならないとのことで、後から合流する予定だ。
「あ、いたいた」
想像以上に溢れかえっている人ゴミにうんざりしながら、きょろきょろと視線を巡らせていると、大分レジャーシートで埋め尽くされている中で彼氏の姿を発見した。連絡したら、友達と一緒に先に行って、場所取りをしておいてくれると言ってくれたのだ。彼氏の横に、友達らしき姿もある。
時雨と春香は人の波をかきわけながら、近付いて行く。
「陽太!」
時雨は自分の彼氏の名前を呼んだ。当の陽太が、声に気付いて振り返ってくる。隣の友達も。
「え……もしかして、時雨先輩の彼氏って」
春香が隣で呆然と呟き、立ち尽くしている。陽太の友達が立ち上がって元気良く手を振ってきた。
「おーい! って、あれ? 春香ちゃん? なんで?」
陽太の友達も、春香を見てびっくりした顔だ。
「陽太君が、時雨先輩の彼氏だったんですか……」
まだ驚きの表情のままの春香。一体何にそんなに驚いているのか、と時雨は首を捻るばかりだ。
「うん。アタシの彼氏は陽太だよ。そんでそっちの友達は……」
陽太の友人とは初対面である。高校に入ってからの友達とは聞いていたけれど。
「どうも、始めまして! 相沢由貴って言います!」
わざわざ駆け寄ってきたその人物が、頭を下げて、言った。
「相沢、由貴……? どっかで聞き覚えがあるな――はぅあっ!?」
「時雨先輩のバカ……」
春香が呟き、時雨は頭を抱えた。
なんてことだ。思い切り事態をややこしくしてしまった。春香の想い人がまさか自分の彼氏の友人だったとは。しかも、この場には吹雪も来る予定だ。
「ど、どどどどうする時雨……今更他人のフリは出来ないし。てゆうかお前、相沢、帰れ!」
「えっ」
「お前は今日のこの場に、要らん! 消えろ!」
「ひどっ」
由貴に向けてずびし、と指を向けて言い放つ。
「初対面の人間に消えろって……」
半泣き面の由貴を見かねてか、春香が間に立ってきた。
「まぁまぁ時雨先輩。みんな一緒のが楽しいですよ。ね、ゆきたん」
春香が微笑んで言うと、由貴は頬を染めて頭をかいている。単純な人間らしい。時雨は内心、簡単な由貴に感動すら覚えた。だって、友達であり、自分の彼氏でもある……
「……」
陽太はレジャーシートに座って、無言で本を読んでいる。春香と時雨の登場に、軽く会釈した程度だ。全然簡単じゃない。
「浴衣かわいいっすなー夏ですなー」
春香を見ている由貴の頭から、花がぽわぽわと出ている。春香は嬉しそうにくるん、と一回りして見せている。可愛らしい二人だ。
春香の頭も結ってやったし、ピンクの浴衣を着付けてきた。自分が見繕ったのだから、春香に似合うのは間違いない。鼻高々になる。自分は地味目な藍色の浴衣を着てきた。髪型もそのままだ。春香を可愛くすることに熱くなりすぎて、時間がなくなってしまったのだ。
時雨は陽太の隣に腰を下ろした。
「場所取りありがとう」
言うと、本を読んでいた陽太が顔を上げる。
「俺は暇人だから問題ないよ」
ぐさ。言葉に棘を感じる。一度断っておきながら、花火大会に誘ってしかも今度は大人数になっている。陽太の腹立ちは無理もないのだろう。あまり責めてこないのが逆に心苦しかった。
「俺飲み物買ってくるよ。春香ちゃんも一緒に行かない?」
由貴が立ち上がったので、座りかけていた春香も慌てて立ち上がる。
「あ、うん。時雨先輩は何がいい?」
「アタシウーロン茶」
「俺ポカリ」
陽太が便乗して言う。由貴と春香は了承して露店の方へと歩いていった。人ゴミに紛れてその姿はすぐに見えなくなってしまった。
気を使ってくれたのだろうか。
実際誘いを断ってしまったことを後悔していた。けれど毎日の忙殺で、ゆっくりと話す時間もなくて。
久々の陽太との、二人きり。トキメく心もあるけど、気まずさも空気に混じっている。
「……まだはじまらないかね」
「七時から。まだ十分くらいある」
「雨降らないといいけどな」
「そうだな」
陽太はあっさりと返して、再び本に目を落とす。
「あのさ……怒ってる?」
「なんで? 別に」
「いつもより三割増し冷たい気がする」
「そんなことないよ。いつも通り」
否定されてしまうと何も言えなくなる。確かに陽太はいつでもクールなのだ。
時雨がしょぼん、とうな垂れていると。
目の前に、何かを差し出された。
あまりに眼前だったので何かわからなかったが、焦点が合ってからようやくそれが何かわかる。
――お守りだった。
「二人きりの間に渡しておくよ。もうすぐ地区大会だろ? 県大会、全国大会まで進めるように」
時雨は驚きつつもお守りを受け取る。
「これ、用意してくれたのか?」
陽太は頬をぽりぽりとかいた。
「近くの神社だからご利益は当てにならないかもしれないけど。俺の気持ちは入ってるから」
「だって……頑張ったらもっと忙しくなるぞ? 県大会とか全国まで行くんだったらますます会う時間なんてなくなっちゃうし。今までだって何度も陽太の誘い断ってきているのに」
「俺は頑張ってる時雨を見てるのが……えーと、好きだし?」
視線を泳がせつつ、陽太が言った。
胸が熱くなった。ずるい。このタイミングで。泣いちゃうじゃないか。
お守りを大事に鞄の中にしまう。それから時雨は膝立ちになって、陽太の頭をぎゅっと胸に抱えた。髪の毛をくしゃくしゃと撫でる。
「ちょっ時雨! こんなとこでそれはっ」
「陽太が見てくれるから、アタシ頑張れる。大好き」
赤くなってアワアワしている陽太にますます愛しさが込み上げる。時雨は陽太の柔らかい髪の毛にキスをした。
「決めた。会ってる間はいちゃいちゃしまくる」
「人目をちょっとは気にしてくれ!」
確かに周りのレジャーシートに座っている人々からの視線が痛い。
時雨は苦笑い、陽太を解放してやる。
「いちゃいちゃするの嫌いか?」
聞くと陽太は耳まで真っ赤になりながら、息を吐いた。
「べつに……嫌じゃない」
そう言って。時雨の手をそっと握ってくれた。
どおんっ
花火が打ちあがる。
二人は花火を見上げた。
近くで打ちあがった大きい花火に周りからも歓声があがる。
花火大会の、開幕である。