残暑の候 (2)
岡崎 美里、それが私の今の名前。
中学卒業までは、田中美里だった。
中学の頃に両親が離婚し、高校進学を機に
母の姓に変えた。この事を知っているのは今のクラスにはいない。
出身中学は7駅も先だし、家も引っ越した。
同じ中学から来た人は、同じクラスになったことない人ばかり。
高校が決まった時に引っ越したこのマンションには、
母と2人で住んでいる。
6歳離れた兄は、もう独立しているし
田中の姓のまま、一人で暮らしている。
兄とも、もう一年くらい会ってない。
郵便ポストの中の手紙を取り出し。
アパートの入口ににカードを通し、中に入った。
築20年くらいだけれど、セキュリティはしっかりしていて
逆に、ゴミ捨てとかの時、面倒くさかったりする。
2階なので、エレベーターは使わない
階段を上り、再び鍵を開け、誰もいない部屋に入る。
さっきまでエアコンが付いていたんだろう、
部屋の気温はそう上がってない。
母がさっきまで家にいたようだ。
そう思いながらエアコンのスイッチを入れた。
2DK、そう広くはない部屋が丁度いい。
介護士の母は、勤務の時間が不規則で
昼間寝て夜に仕事の方が多く、今日もどうやら夜勤らしい。
進学なんかする余裕もないし、就職率のいい高校を選んだ。
工業高校だから女子の部活の数も少ない。
迷わずバスケット部のマネージャーになったし、他に希望者もいなくて
すんなり採用してもらえた。
こうして昼間、部活で学校に行けば、昼間仮眠中の母の眠りも妨げなくて済む。
台所で冷蔵庫を開けると、牛乳すら入ってない。
コップに氷を入れ、水を注いだ。
テーブルの上にメモがあった。急いでいるのか殴り書きのよう。
「ごめん、買い物お願いね。」
財布と買い物リストがあった。
がっくり、なんだかどっと疲れた。
またこの暑い中出かけなきゃなんないの?
時計を見ると、まだ午後5時。今の時間のスーパーは混む。
どうせ24時間営業なんだから、暗くなってからにしよう。うん、そうしよう。
そう思い、とりあえず数学の宿題をチェックすることにした。
明日大輔に見せないといけないし。
机の上の棚から数学のプリント綴りをファイルごと引っ張り出す。
ダイニングのテーブルで宿題を広げた。
宿題していて、気がついたら8時半になってた。
まぁ、集中していた訳ではないけれど。ボーっとしていたのかも。
あまり遅くなるとなんだか怖いし、慌てて家を出て、スーパーに向かうことにした。
昼間、アスファルトにしみ込んだ熱気が
夜になってもあたりを包む。ちっとも涼しくなってない。
自転車に乗って、その感じる風も生ぬるい。
自転車で、15分程の24時間営業のスーパー。
お客さんも多く、売り場も広く品物も多い。
自転車に鍵をかけ、店に入ると、冷房が効いていて、ノースリーブではちょっと
身を震わせる冷え方だ。魚売り場の前なんかすごく寒い。
カートに書かれている食品を入れて行く。
豚肉に冷凍食品にウインナーにベーコンと
順調に売り場を巡って行く。
あとは、牛乳にジュース、と冷蔵庫の方に行くと
何やら若い人たちが、8人ほどでわいわい何か選んでいる。
ああいう雰囲気って、なんだか近寄りにくい。
カートで進むには狭いし、無理矢理通る勇気もない。
アイスでも買おうかな、そっちを先にしよう。そう思って方向転換しようとすると、
「美里じゃん、おい美里。美里ー!」
そう聞きなれた声がした。
よく見ると、大輔とマキオ、他に学校で見慣れた顔があった。
女の子が4人、そっちは見た事のない子達だ。
大輔は一人離れて、こっちに向かってきた。
「もう、一度呼べば聞こえるわよ。ミリミリ言わないで。」
「なんか主婦みたいじゃん、買い物。」
「悪い?女子高生が豚肉買ってちゃ。」
そう言うと、ちょっと笑顔が寂しそうになった。
「なんかさ、意外なところで会って嬉しいみたいなのないの?美里。」
なんだかその表情が、哀れまれてるっぽくて嫌になった。
どうせ私は、主婦のように買い物して、これから帰って
洗濯だってしなきゃならないのよ。
「じゃ、あたし忙しいから。みんな待ってるじゃん
早く行きなよ。」
「あー、ほら、井上とマキオがこの間花火大会でナンパした子と
その友達なんだってよ、マキオが呼ぶから出てきたら
こんなにゾロゾロいるんだもんな。
バスケ部の試合で見かけたとかで、呼んでくれって言われたって
昼練習で疲れるのにさらに疲れるわ。」
なんか、向こうからあからさまな女子の目線を感じる。
「でも、待たせたらかわいそうでしょ。じゃね。」
そう言ってカートを押して歩きだすと、大輔もじゃと歩いて行った。
急に大輔は振り返り、ただでさえ大きい声をさらに張り上げた。
「あ、美里!明日の約束忘れるなよ。」
そう大きい声で大輔が叫ぶ。
この状況でそれ言っちゃダメでしょ大輔。
それってつまりあの子たち、あんたのファンでしょ。
本当、空気の読めない男よね。大輔は。
女の子たちの事を思うと、振り返るのが怖くて私はレジに急いだ。
振り返らずうんうんと頷いて逃げた。
牛乳とジュースはコンビニで買っちゃえ。
大輔たちが追いつかないうちにレジを済ませ、
自転車で自宅近くのコンビニに向かった。
コンビニでジュースと牛乳とサンドウィッチを買った。
そして、今夜も私一人の家に帰るんだ。
大輔は女の子たちと何時まで一緒にいるんだろう。
それを思うと胸が詰まるから考えない事にしよう。
私の気持ちになんか、世界が終っても気付きはしないよ、
あの筋肉バカ。なんだか沸々と怒りが湧いてきた。
あんなスポーツバカのどこがいいのよ。
そのスポーツバカが好きな私は、救いようのない間抜けだ。
コンビニを出ると、駐車場には、同じ年位の男子と女子が5人位で座って話をしている。
それを見ないように自転車に乗って家に向かう。
楽しそう。と思うけれど、自分にはあまりそんな機会はない。
きっと大輔も今頃どこかであんなに楽しくやっているに違いない。
あんなに可愛い女の子達だったしね。
ふと、自分の自虐的な気持ちに気付いて、首を振った。
ダメだ、大輔に関して振り回される事のないよう心がけてるつもりなのに。
今年のバレンタインなんて悲惨だった。
大輔が呼び出しに応じないとかで、私が呼ばれて渡して欲しいとか頼まれたり、それも5人。
5人目から涙ながらに頼まれた時は、こっちが泣きたかった。
私だって報われないのに。
5人からのチョコを渡すと、お前がそこまでしなくてもって大輔に言われて怒りが込み上げた。
あたしだってそこまでしたくなかったし、あんたなんか好きになりたくなかった。
と投げつけてしまいたかった。
彼女とかに縛られたくないって悪びれる様子もなく、いつも大輔はいう。
私は深くため息をついていた。
生ぬるい風のせいだ、不快な気持ちなのは。