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万魔殿《パンデモニウム》は眠らない  作者: 初美陽一
第六幕 何も知らなかった少女は数多の〝世界〟を知り、失った〝希望〟を取り戻す

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6-03

 客間を出た彩音は、小さな溜め息を吐く。笑顔の練習を終えて、リリエラは部屋の掃除へと戻っていった。掃除を中断させてしまったことに多少の罪悪感を覚えながらも、彩音の心中からは、一つの心残りが消えていた。


「おねーえちゃんっ、もういいの?」


 客間の外で待っていたナナシが、彩音に声を掛ける。彩音は少し驚いた顔をしたが、すぐに気を取り直して返事した。


「ナナシくん、外で待ってないで、入ってくれば良かったのに」

「うーん、でもさ、邪魔しちゃ悪いかなー、って思ったし」


 ナナシなりに、気を遣ってくれていたようだ。彩音はそれに笑顔で感謝しながら、さあ、次へ行こう、と万魔殿の複雑な通路を進み始める。


「次は、アスモデウスさんの所ね。ナナシくん、いきましょっ」

「りょーかいっ。おねえちゃん、そんなに急がなくても――」


 彩音の後を追いかけようとしたナナシの足が、ふと止まる。あわわ、と言わんばかりにうろたえている様子を訝しがりながらも、彩音はナナシに声を掛けた。


「どうしたの? ナナシくん」

「お、おねえちゃん、前、前っ……!」

「前、って――」


 通路を右に折れようとしていた彩音が、ナナシの指し示す前方へと目を向ける。

 そこには、大きな壁が立ちはだかっていた。そのまま進んでいたら、衝突してしまっていたかもしれない。


 危ない危ない、と彩音が見上げた瞬間。


「グルゥ」

「…………」


 異様に大きな眼球と目が合って、彩音はにこりと微笑み、反転して背中を見せる。

 そして――


「グルォオゥウオオオ!」


 大男が雄叫びを上げるのと同時に、全力疾走を始めた。


「もぉ~っ! 最後の最後までぇ!」

「ホント、おねえちゃん、アイツと縁があるよねぇ」

「むっ……!」


 併走するナナシに縁起の悪いことを言われ、かちん、ときたのを彩音は鮮明に感じた。


 あの大男は、なんだってこう、彩音を追い回すのか。その〝理性〟を無くしただかなんだか知らないが、人の気持ちも考えず、捕まえて好き勝手やりたいためだけに、そうやって人を襲いまわって、怖い目に合わせて許されるものなのか。


 彩音の今まで堪えていた感情が、一気に爆発した。


「あなた……あなたねっ!」

「……グッ?」


 いきなり振り返って睨みつけてくる彩音に、大男は思わず怯んでしまう。


「あなたはっ……!」


 彩音にしてみれば、あの大男には、言いたいことが山ほどあるだろう。

 万魔殿へ来て、いきなり襲われかけて、それからもずっと顔を合わせるたびに追い掛け回されて、恐ろしい思いばかりさせられてきた。


 頭の中でそんな想いがない交ぜになりながら、彩音は感情のまま、一声叫んだ。



「あなたも今まで、ありがとうっ!」



 大男もナナシも時が止まったように、ぽかん、として立ち尽くしていた。声を発した彩音でさえ、自分が今しがた放った言葉の意味を、掴みきれていない。


 それはまあ置いといて――と彩音が、気を取り直して踵を返す。


「……さっ、ナナシくん、逃げましょ!」


 走り出した彩音に、ナナシは慌ててついていきながら、不満の混じった声を上げる。


「おねえちゃんってさっ……時々、突飛なことするよねぇ!」


「ナナシくんに言われたくないわよっ!」


「グォッ! グルゥ……ゴォオアァオォォオ!」


 改めて追いかけてくる大男の咆哮を聞きながら、彩音はぼんやりと考える。


 こうして追い掛け回されている時間は、果たしてそんなに()()()()()()()()()()()? などと。


 どうかしているのかもしれない、とも彩音は思う。だけど今は前ほど怖くなくなっているし、あの大男にも何か事情があるのだと思うと、なんだか切ない気持ちになることもあった。


 それに、こうして追いかけられている時は、何もかも忘れていられたような気もする。怖い思いが先走っていただけだろうが、それでも夢中で逃げ回っていたものだ。


「……あははっ」


 ()()()()()()――彩音は走りながら、思わず失笑した。

 こうして追い掛け回されて、怖い思いをしたのは確かだが、そんな日々だって、それほど悪くはなかったのかもしれないな、と。


「グルォアァァアボォォォ!」


 ……それも、まあ、今まで捕まった記憶がないから言えることかもしれないが。

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