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彩音はナナシに連れられて、大きな客間のような部屋へとやって来た。以前、リリエラに料理を作ってもらってからは、よく訪れるようになっていた部屋だ。
今日はよく引きずられる日だ、と彩音は落ち着きを取り戻した頭で考えている。とはいえ表情は沈み、屈み込んでいる彩音の顔を、ナナシが横から覗き込むようにして見た。
「おねえちゃんさ、やっぱり猫、嫌いじゃないでしょ」
「……そんなこと、ない……」
呟いた彩音の右腕が、つきりと痛む。体育座りの体勢になっていた彩音が、左手で右腕の痛む箇所を握り締め、小さく呟き始めた。
「……猫のせい、なんだもの……私の右腕、こんな風になっちゃったの……だから、嫌いなのよ、猫なんて……大嫌い、なんだから……」
俯く彩音の脳裏には、怪我を負った際の記憶が蘇っていた。
――それほど珍しくもない、つまらない話だ――
―――――――――――――
ピアノに触れれば神童と、誰もに褒められ称えられようと、彩音はただの女の子だった。
楽しければ普通に笑うし、悲しいことがあれば落ち込むこともある。少し内向的で世間知らずな面もあるが、他の子と同じように学校へ通う、普通の女の子だった。
ある日のこと、彩音は下校中に、河川敷で捨てられている子猫を見つける。
生まれてから二、三ヶ月経っているかいないかという程度の、真っ白な毛並みの子猫。お決まりの『拾ってください』とさえ書いていないダンボールを見て、彩音はその無責任さに腹を立てた。
拾って帰ろうか――彩音はその場で、どれほど悩んだだろう。家は一戸建てだし、猫を飼うには問題ない。飼えないにしても、誰か飼い主が見つかるまで、居場所をあげることくらいは出来るはずだ。
だけど、父親が猫嫌いだったような気もする。侵入してきた野良猫に庭を荒らされ、目くじらを立てていたこともあったくらいだ。猫に怒っても仕方ないだろうに。
迷い続けた彩音だったが、結局、猫を連れて帰らなかった。他の誰かが拾ってくれるかもしれないし、元の飼い主が考えを改める可能性だってある。
いや、それは言い訳か。彩音はただ単に、積極的になれなかっただけだ。
ピアノ以外のことには自信が持てず、些細な人付き合いさえ敬遠してしまうほど、消極的な性格。だからこそ彩音は、か細く縋りつくような鳴き声に後ろ髪を引かれ、再三に渡って振り返りながらも、それでも連れて帰るという決断には至れなかったのだ。
――間違いがあったというのなら、それが最初の間違いだった。
その日の夜、予想外の大雨が街を襲った。家の中にいても暴風の音が鮮明に聞こえ、横薙ぎの風に木々は煽られ大げさに揺らされる。
二階の自分の部屋にいた彩音は、窓から外の景色を見て、言い様の無い不安に駆られていた。考えるのは、下校の際に見た、捨てられていた子猫のことばかりである。
きっと、大丈夫のはずだ――誰か優しい人が、拾ってくれている――
そう自分に言い聞かせながら、それでも不安は拭えない。悩んだ挙句、彩音は子猫の様子を見に行こうと、家人の制止も聞かず家を飛び出した。
雨の勢いは一層、その激しさを増していたというのに。
あの子猫が捨てられていた場所へと辿り着いた時、彩音は我が目を疑った。
雨によって水位が上昇した川は、溢れかえり暴れまわっている。子猫のいた所など、既に溢れた水で目視できなくなっていた。
きっと、大丈夫――こうなる前に、誰かが連れて行ってくれているはず。
祈るような想いは、だけど叶わぬものであったと、すぐに理解する。
今にも沈みそうなダンボールを、彩音は見つけてしまった。何かに引っ掛かっているようで流されてはいないが、放っておけばすぐにでも沈んでしまいそうだ。
この雨だ、周りには誰もいない。助けを求めることは出来なかった。ダンボールの中に子猫がいなければ、誰かが連れて行ったのかもしれないと、微かな希望も持てただろう。
だけど、何もかも、何もかもが――彩音の思い通りには、いかなかった。
ダンボールの中に、ずぶ濡れの白い子猫を見つけてしまう。もしかしたら、鳴いているのかもしれない。助けてと、鳴き声を上げているのかもしれない。
そう思った瞬間、彩音は役目など果していなかった傘を放り捨て、何も考えず、ほとんど無意識に――氾濫する川へと身を投じてしまった。




